飛魚的日乗 (現代詩雑感)

詩のことを中心に書いていきます。

休日

2010-11-29 | Weblog
 事務所の殺虫消毒のため休みとなった。久しぶりに朝から読書。
 僕のベットの枕元は本だらけだが、菅江真澄を引っ張り出して読んだり、上代歌謡を読んだ。それからしばらく遠ざかっているデリダの「雄羊」を読む。何度この本を読んだろうか。僕が引いた的外れな傍線だらけの本を開いて、そう思った。
訳者解説にCelanのゲオルク・ビューヒナー賞受賞の際の講演「子午線」の引用がある。「詩はひとりのぽっちのものです。詩はひとりぽっちのものであり道のなかばにあります。詩を書くものは詩につれそってゆきます。」という飯吉光夫さんの訳が引かれている。原書ではこの部分は、「Das Gedicht ist einsam,Es ist einsam und unterwegs,Wir es schreibt,bleibt ihm mitgegeben.」で、「einsam」は「寂しい」という訳語もある。そういえば、松下育男さんのブログの表書きに「さびしい詩人になりたいひと」という呼びかけがあったなと思いだした。
「道のなかば」というのは「(到達しない)途上」つまり、滞留の状態を言う。発されても到達しないもの、そういうことばこそ詩なのかもしれない。Celanの「対者」は並列的な会話の相手ではないのではないか。「Gegenüber」は、明確に対として立つ向こう側の人だ。そういう人との、ついに届かない、滞留したままの、「対話」なのかもしれない。
 来年こそ時間ができると思っていたが、どうやらまだ数年はだめみたいだ。それでも、時々は朝から本を読んでいられるとうれしい。なかなか実際の旅には出られないが、芭蕉や菅江真澄や折口信夫が時空を超えた旅に連れて行ってくれる。それだけで満足なんだと思う。

まど・みちおトリビュート

2010-11-20 | Weblog
 久しぶりに夢を見た。このところ、何も書けない。夢すら見なかった。でも、かなりはっきりした夢だ。歯痛、半裸、歪んだ杖、夕闇の路地、見えない側溝、すれ違う人の影、嘔吐、嗚咽、家から遠ざかる、暗闇の道、薄明かり・・・
 観音崎のホテルでのんびりしてきたのだから、もっと楽しい夢を見てもいいはずなのに、どうしたことだか。ここのところ何もかもが変調で、でも、通常がどんなだったかも虚ろだけど。

 先週、松下育男さんが誘ってくれたので、荻窪の善福寺公園の近くの葉月ホールというところで、まど・みちおさんのトリビュート展を見て、松下育男さんの詩の話を聴いてきた。ここ数年は、引きこもり状態だったのだが、オープニングセレモニーで松下さんがまど・みちおさんの詩の話をするというので、松下さんの話が聞きたくて出かけてみた。
この前の蒲田派朗読会のときもそうだが、うつ・ぎりぎりを歩いていて、いつ倒れてしまっても不思議はないのに、それでも誘ってくれる友人がいて、ありがたく、真っ暗な闇の中で遠くに少しのひかりが感じられる、そんな気分だ。
 松下さんの話をはじめて聴いたが、詩の読み方から始まり、あり方にまで及ぶ深い内容を、わかりやすい平易なことばで話をされた。さすがだなと思った。
 歌としてしか知らなかった、まど・みちおさんの詩を読んでみて楽しかった。そういえば「やぎさんゆうびん」や「ふしぎなポケット」が好きだったことを思い出した。何か大事なものを忘れていた気が、ふっとした。
 会の最後に、谷川賢作さんがピアノを弾きながらまどさんの歌を歌ってくれた。楽しかった。なぜか「ぺんぎん」の歌が耳の残っていて、いまも「サンキュー」という谷川さんの声がこだましている。僕は飛んできたステッキでたんこぶができるかもしれないけど。
 なかなかこんな経験は出来ないので、誘ってくれた松下さんには感謝。そのうえ、廿楽順治さんや岩佐なをさんに紹介までしてもらった。
 蒲田派朗読会に続いて、いい刺激をもらってた。ここ数年はまともに詩も読んでいなかった。おまけに、いろんな人に不義理をしたままで心苦しい。それでも、また少し「詩」のことを考えるかなと思っている。