事務所の殺虫消毒のため休みとなった。久しぶりに朝から読書。
僕のベットの枕元は本だらけだが、菅江真澄を引っ張り出して読んだり、上代歌謡を読んだ。それからしばらく遠ざかっているデリダの「雄羊」を読む。何度この本を読んだろうか。僕が引いた的外れな傍線だらけの本を開いて、そう思った。
訳者解説にCelanのゲオルク・ビューヒナー賞受賞の際の講演「子午線」の引用がある。「詩はひとりのぽっちのものです。詩はひとりぽっちのものであり道のなかばにあります。詩を書くものは詩につれそってゆきます。」という飯吉光夫さんの訳が引かれている。原書ではこの部分は、「Das Gedicht ist einsam,Es ist einsam und unterwegs,Wir es schreibt,bleibt ihm mitgegeben.」で、「einsam」は「寂しい」という訳語もある。そういえば、松下育男さんのブログの表書きに「さびしい詩人になりたいひと」という呼びかけがあったなと思いだした。
「道のなかば」というのは「(到達しない)途上」つまり、滞留の状態を言う。発されても到達しないもの、そういうことばこそ詩なのかもしれない。Celanの「対者」は並列的な会話の相手ではないのではないか。「Gegenüber」は、明確に対として立つ向こう側の人だ。そういう人との、ついに届かない、滞留したままの、「対話」なのかもしれない。
来年こそ時間ができると思っていたが、どうやらまだ数年はだめみたいだ。それでも、時々は朝から本を読んでいられるとうれしい。なかなか実際の旅には出られないが、芭蕉や菅江真澄や折口信夫が時空を超えた旅に連れて行ってくれる。それだけで満足なんだと思う。
僕のベットの枕元は本だらけだが、菅江真澄を引っ張り出して読んだり、上代歌謡を読んだ。それからしばらく遠ざかっているデリダの「雄羊」を読む。何度この本を読んだろうか。僕が引いた的外れな傍線だらけの本を開いて、そう思った。
訳者解説にCelanのゲオルク・ビューヒナー賞受賞の際の講演「子午線」の引用がある。「詩はひとりのぽっちのものです。詩はひとりぽっちのものであり道のなかばにあります。詩を書くものは詩につれそってゆきます。」という飯吉光夫さんの訳が引かれている。原書ではこの部分は、「Das Gedicht ist einsam,Es ist einsam und unterwegs,Wir es schreibt,bleibt ihm mitgegeben.」で、「einsam」は「寂しい」という訳語もある。そういえば、松下育男さんのブログの表書きに「さびしい詩人になりたいひと」という呼びかけがあったなと思いだした。
「道のなかば」というのは「(到達しない)途上」つまり、滞留の状態を言う。発されても到達しないもの、そういうことばこそ詩なのかもしれない。Celanの「対者」は並列的な会話の相手ではないのではないか。「Gegenüber」は、明確に対として立つ向こう側の人だ。そういう人との、ついに届かない、滞留したままの、「対話」なのかもしれない。
来年こそ時間ができると思っていたが、どうやらまだ数年はだめみたいだ。それでも、時々は朝から本を読んでいられるとうれしい。なかなか実際の旅には出られないが、芭蕉や菅江真澄や折口信夫が時空を超えた旅に連れて行ってくれる。それだけで満足なんだと思う。