わたしは元々、スピリチュアル系の本が苦手で、
ごく限られた一部しか読んだことがありません。
独特の、なんだかヒュルヒュルした感じが苦手なんです。
日本の“霊覚者”もピンキリで、さまざまな方がいらっしゃるようですが、
向こうのスピリチュアリズムも同じなのかもしれません。
また、日本人は、精神性より胆力を重視し、
胆力を備えた精神性なら認めますが、ヒュルヒュルしている心霊主義は認めない傾向があると思います。
わたしは名前に惹かれて
“ハトホルの書”という本を読んでしまった事がありますが、
これも、精神エネルギーが螺旋を描いて上昇するという考えで、
残念ながら極めてヒュルヒュルしていました(笑)
本当のものは、臍下丹田からまっすぐに、遮られることなく上昇し、
肉体には落ち着いた力強い感じがみなぎって見えます。
力強いのですが、重力に従うのではなく、包容的な浮遊感があるのです。
肉体のレベルの意識は大地に頼り、
それに乗っかっていないと奈落へ墜ちると思い込んでいますが、
高次の意識になると、皮膚が肉体の境界線でしかないのと同じように、
大地も地球の境界線の一つに過ぎなくなります。
地球の高次の意識体のエネルギー(気)は地核から周囲へと発していますから、
人間の高次の意識はその気流に乗り、落ちることはありません。
また、地球の意識体と自己の意識体も別のものではなくなり、
むしろ大地の方が、純粋に対象として捉えられるようになります。
話がずれましたが、ですから、正しく高次の意識に至ると、
しっかりした浮遊感、とでも呼ぶべき感じを与えるのです。
***
なぜ、欧米のスピリチュアリズムがヒュルヒュルしたものになりがちなのかと考えるに、
おそらく、神の問題を棚上げにしているせいだと思います。
キリスト教の神が本当に造物主だとすると、これは天部です。
天部に頭を抑えられていたら、
本来下から上へ流れている霊・身のエネルギーが、スカッと上へ抜けないのです。
仏教の御仏は、世界の全体性である根源霊、
およびその様々な働きの象徴だと思います。
前提が違うのですから、キリスト教世界において、
仏教的なエネルギーの訓練法を取り入れても、同じようにはなりません。
***
わたしは、本来アブラハムに現れた神は、
アメンの分身として生まれた経験のある高レベルの人霊、
オシリス=エールである、と解釈しています。
イエスも同じ系統ですから、
イエスと一体である最高神は、本来アメンだと思うのです。
アメンというのは、古代エジプト時代、
すべての神々の魂にして最高神である、と敬われていた神です。
男性、或いは男性原理に象徴される神であり、
対になる女神は、古くは
混沌の中の見えない女神アメネト(おそらくネイトと同神か同系)でした。
ネイトは全体性を示す神であり、アメネトは見えない全体性になります。
アメンはそこから形として顕現する働きであり、
それ故に、創造主であると言うこともできると思います。
チベット仏教のゾクチェンという教えでは、
すべての土台として原初から途切れることなく存在し、
すべてに浸透し、根源的に清浄な光明の状態を“リクパ”と呼んでいます。
この光明の“根源的清浄性”が、
もっとも微細な空である全体性、アメネトであり、
それを質量として自発的に顕現する“自発的示現性”がアメンだと思うのです。
ですが、一般に、正しい神と教えが現れると、
その後から天部系の禍神が現れて、自分の教えで乗っ取ろうとするのが、
バラモン教や仏教などにも共通して、繰り返し歴史にみられる傾向です。
キリスト教にも、天部系の教えが混入しており、
キリスト教の神を、造物主である絶対神とするのも、
そうした禍神の示した教えだと思います。
スピリチュアリズムでは、根源神を、
すべての源である大霊として捉えているように思いますが、
おそらくそちらが真実です。
***
キリスト教は男性原理が優先で、全体性としての女性原理が弱い教えです。
エール=オシリスの配偶神が、アブラハムの時代には既に天部系のイシスになっていた為、
エールが正しい女神を示せなかった為だと思います。
その上、アメン自身も天部に取って変わられる傾向があります。
イエスを救い主と信じること自体には問題はないと思いますが、
肉体が復活する形で地上天国が来る、などという救いはないでしょうし、
そうした天部系の教えに囚われすぎない注意が必要だと思います。
スピリチュアリズムにおいては、むしろ、
全体性である大霊に重点がおかれますから、
女性原理優先だと思われます。
人はこの大霊から分かれた魂を持ち、死ねば大霊の一部に戻る。
生まれ変わりは厳密には同一人物ではないが、個性は不滅であり、
それが生まれ変わっても顕現する、というスピリチュアリズムの考え方は、
仏教の“空”や自発的示現性に
通じるところがあると思います。
ですが、キリスト教的な絶対神の誤りを十分説明し、
堅古なキリスト教保守勢力に対抗しうるだけの力と論理を、
スピリチュアリズムは未だ充分持たないのかもしれません。
まだまだ今後の発展が望まれると共に、
正しいものの普及が急務のように思います。
わたしも、何を読むのが一番いいのか
分からないんですよ(笑)
ごく限られた一部しか読んだことがありません。
独特の、なんだかヒュルヒュルした感じが苦手なんです。
日本の“霊覚者”もピンキリで、さまざまな方がいらっしゃるようですが、
向こうのスピリチュアリズムも同じなのかもしれません。
また、日本人は、精神性より胆力を重視し、
胆力を備えた精神性なら認めますが、ヒュルヒュルしている心霊主義は認めない傾向があると思います。
わたしは名前に惹かれて
“ハトホルの書”という本を読んでしまった事がありますが、
これも、精神エネルギーが螺旋を描いて上昇するという考えで、
残念ながら極めてヒュルヒュルしていました(笑)
本当のものは、臍下丹田からまっすぐに、遮られることなく上昇し、
肉体には落ち着いた力強い感じがみなぎって見えます。
力強いのですが、重力に従うのではなく、包容的な浮遊感があるのです。
肉体のレベルの意識は大地に頼り、
それに乗っかっていないと奈落へ墜ちると思い込んでいますが、
高次の意識になると、皮膚が肉体の境界線でしかないのと同じように、
大地も地球の境界線の一つに過ぎなくなります。
地球の高次の意識体のエネルギー(気)は地核から周囲へと発していますから、
人間の高次の意識はその気流に乗り、落ちることはありません。
また、地球の意識体と自己の意識体も別のものではなくなり、
むしろ大地の方が、純粋に対象として捉えられるようになります。
話がずれましたが、ですから、正しく高次の意識に至ると、
しっかりした浮遊感、とでも呼ぶべき感じを与えるのです。
***
なぜ、欧米のスピリチュアリズムがヒュルヒュルしたものになりがちなのかと考えるに、
おそらく、神の問題を棚上げにしているせいだと思います。
キリスト教の神が本当に造物主だとすると、これは天部です。
天部に頭を抑えられていたら、
本来下から上へ流れている霊・身のエネルギーが、スカッと上へ抜けないのです。
仏教の御仏は、世界の全体性である根源霊、
およびその様々な働きの象徴だと思います。
前提が違うのですから、キリスト教世界において、
仏教的なエネルギーの訓練法を取り入れても、同じようにはなりません。
***
わたしは、本来アブラハムに現れた神は、
アメンの分身として生まれた経験のある高レベルの人霊、
オシリス=エールである、と解釈しています。
イエスも同じ系統ですから、
イエスと一体である最高神は、本来アメンだと思うのです。
アメンというのは、古代エジプト時代、
すべての神々の魂にして最高神である、と敬われていた神です。
男性、或いは男性原理に象徴される神であり、
対になる女神は、古くは
混沌の中の見えない女神アメネト(おそらくネイトと同神か同系)でした。
ネイトは全体性を示す神であり、アメネトは見えない全体性になります。
アメンはそこから形として顕現する働きであり、
それ故に、創造主であると言うこともできると思います。
チベット仏教のゾクチェンという教えでは、
すべての土台として原初から途切れることなく存在し、
すべてに浸透し、根源的に清浄な光明の状態を“リクパ”と呼んでいます。
この光明の“根源的清浄性”が、
もっとも微細な空である全体性、アメネトであり、
それを質量として自発的に顕現する“自発的示現性”がアメンだと思うのです。
ですが、一般に、正しい神と教えが現れると、
その後から天部系の禍神が現れて、自分の教えで乗っ取ろうとするのが、
バラモン教や仏教などにも共通して、繰り返し歴史にみられる傾向です。
キリスト教にも、天部系の教えが混入しており、
キリスト教の神を、造物主である絶対神とするのも、
そうした禍神の示した教えだと思います。
スピリチュアリズムでは、根源神を、
すべての源である大霊として捉えているように思いますが、
おそらくそちらが真実です。
***
キリスト教は男性原理が優先で、全体性としての女性原理が弱い教えです。
エール=オシリスの配偶神が、アブラハムの時代には既に天部系のイシスになっていた為、
エールが正しい女神を示せなかった為だと思います。
その上、アメン自身も天部に取って変わられる傾向があります。
イエスを救い主と信じること自体には問題はないと思いますが、
肉体が復活する形で地上天国が来る、などという救いはないでしょうし、
そうした天部系の教えに囚われすぎない注意が必要だと思います。
スピリチュアリズムにおいては、むしろ、
全体性である大霊に重点がおかれますから、
女性原理優先だと思われます。
人はこの大霊から分かれた魂を持ち、死ねば大霊の一部に戻る。
生まれ変わりは厳密には同一人物ではないが、個性は不滅であり、
それが生まれ変わっても顕現する、というスピリチュアリズムの考え方は、
仏教の“空”や自発的示現性に
通じるところがあると思います。
ですが、キリスト教的な絶対神の誤りを十分説明し、
堅古なキリスト教保守勢力に対抗しうるだけの力と論理を、
スピリチュアリズムは未だ充分持たないのかもしれません。
まだまだ今後の発展が望まれると共に、
正しいものの普及が急務のように思います。
わたしも、何を読むのが一番いいのか
分からないんですよ(笑)