美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

小川芋銭『草汁漫画』の「妹許(いもがり)」

2019-07-05 11:33:00 | 小川芋銭
小川芋銭の『草汁漫画』115頁に「妹許」と題される図がある。
 
平安貴族らしき人が犬に衣を噛まれて驚いているような戯画風の作品である。図の右上には逆S字形の三筋の文様があり、左上には2羽の鳥が描かれている。図の右下に植物が数筋、そして画題を示す賛が「妹許」と書かれている。
 
この図については、蕪村の句、「貌見せや夜着をはなるゝ妹が許(もと)」が図の典拠という北畠健氏の説が既にあるが、ここでは、もう一つの見方を提示してみたい。
 
それは、この図の典拠を『拾遺和歌集』などにある紀貫之の「思ひかね妹許(いもがり)ゆけば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり」をその典拠と考えるものだ。
 
そうすると、賛の意味も「いもがり」と読めるし、右上は、この歌の川を示す水流の文様であること、鳥は歌の中の千鳥、人物の衣装が平安貴族風であることも理解できる。
 
犬は歌には登場しない。が、これは、芋銭がもともとこの貫之の歌を戯画風に「恋の闇」として描いていることから来ている。この図に付けられた短文を見ると、
 
「恋の闇 己かやみから わんと吠えて 飛び出したハ そんじょ そこらの 愛犬」
 
これで、この戯画風の図像の意味がすべて理解できるものとなるのではなかろうか。
 
そして、さらに興味深いことがある。それを次に書いてみる。
 
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小川芋銭『草汁漫画』における瓢箪の図(1) - 「閑眠」

2019-07-03 19:51:00 | 小川芋銭
芋銭の『草汁漫画』には次のような題目の作品に瓢箪が描かれている。
 
1.この本の「題目」の頁では「己が春」18頁。その2図のうち左の「閑眠」としてある図。
 
2.次に73頁の「虫に鳥にも」。
 
3.「瓢中観」、109頁。
 
4.そして「惠子の瓢」117頁である。
 
このうち、「閑眠」の図を見ると、「瓢中菴」と書かれた大きな瓢箪の天辺にひとりの人物が座っている。
 
背景には輝く太陽と雲のように広がった花びらが散らされている。
 
さて、この瓢箪に乗っている人物は誰なのか、そして瓢箪は何を意味するのか、また、画賛は何と読むのか。
 
このうち、画賛の読みについては、他の3図の画賛の読み、またはその典拠とともに、既に北畠健氏によって明らかにされている。(ただし、これはそれぞれの図像の意味内容についてではない。)
 
すなわち、図中にある賛、「二日にハ ぬかりハ せじな 花の春」は、松尾芭蕉の句が典拠。この画賛の句は、北畠氏の「小川芋銭研究」というHPによると、これまで、ほとんどがその読みを誤っていたという。
 
とすると、その図の意味内容はなおさら解らないものだったに違いない。
 
さて、この賛が、芭蕉の本来の句、「二日にもぬかりはせじな花の春」に基づくものであることが判ったとしても、それだけで果たして絵を見て、作品の図全体が何を表しているのか自分自身に説明できるだろうか。
 
この句が『笈の小文』にあり、これを読んで、なぜ芭蕉がこの句を創ったのか、そこに至るまでの文脈を知らないと、この句自体の意味も解らないし、図の意味内容も解らない。
 
この句は、それだけ独立して鑑賞しても、その意味が解らない性質のものなのだ。
 
この図を見てから、さらに画賛の文字が読めたにしても、この図全体の意味内容は解らない。『笈の小文』の文脈を知らないと何も把握できない仕掛けの図がここにある。
 
『笈の小文』に、芭蕉が元旦を迎える夜に「空の名残」を惜しむため飲み過ぎ、寝過ごしたことが書いてある。そこで初めて、画賛の句における「ぬかりハせじな」の意味が解る。
 
さて、瓢中菴とは、芭蕉の別号であった。
 
であるから、瓢箪である瓢中菴の天辺に乗っている人物は芭蕉その人と言ってもよいだろうし、また、この瓢箪が酒に関連していることは容易に想像できる。
 
芭蕉は酒を飲み過ぎて、初日の出を見過ごしたのだ。そして、図をよく見ると、彼はまだ酒壺の瓢箪から抜け切ってはいないようにも見える。
 
以上によって、日の出の太陽、花の雲、酒を入れる器である瓢箪、その天辺に乗って、おそらくほろ酔い気分の芭蕉が、すなわち瓢中菴が太陽の光を浴びている図であることが読み取れる。
 
そして、まさに、これも「己が春」の世界に違いないことが解ろう。つまりは、同じ頁の右図「忙遊」と揃えて、左右ともに「己が春」と見てよいだろう。
 
いや、まだ十分ではない。「閑眠」と「忙遊」とは対語のような副題であり、「のんびり」と「忙し」とを対比して見ると、前者の世界が、「己が春」の賛を添えた後者の世界をかえって揶揄していることが解る仕組みになっているのではないか。
 
血眼になって、小鳥を打つ遊びに興じながらも、人を叱りつけたりしている「忙遊」の世界より、芋銭はやはり、「己が春」として、芭蕉の「閑眠」の世界に軍配を上げていると見える。なぜなら「忙遊」の銃を持った男たちの世界は、小鳥の糞を浴びせられているからだ。
 
だが、芋銭の描く瓢箪図の問題は、これで終わらない。それを次に書いてみる。
 
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