標記本、17ページ、春の部に「春風春水」と題される図がある。
柳無気力枝先動
池有波紋冰尽開
今日不知誰計会
春風春水一時来
17ページには3図が載っている。これらは3図とも「春風春水」の図なのだろうか。それとも違うのか。
『草汁漫画』には題目を掲げている目次に相当するページに、あって然るべき図の題目が何も示されていないものや、1ページに複数の図があって、どの図がその題目に相当する図なのか不明確なものがある。
これらは、果たして当時の編集上のミスなのか、それとも作者に何らかの意図があるものなのか、考えていくと迷うことがある。
この17ページの「春風春水」もそうしたものだ。
先学によれば、半裸の女性が野外に横たわっている図は、以前に制作された作品を改作したもので、以前の作品には「春風春水一時来」の賛があった。
この『草汁漫画』の17ページの一番下に掲げた図では、この賛が削られた状態だが、上の事実から、これが題目の「春風春水」に関連している ことは間違いない。
それはいい。では、上の2図は「春風春水」とは関係ないものなのか。そこが問題である。
『小川芋銭全作品集』挿絵編を見ると、一番上の図は、"無題「出征」"と題され、真ん中の図は、そこに添えられていた俳句にちなんで、"無題「網に透きて」"と題されていた。
上記の本で、無題とあってさらに「」に題名が書いてあるのは、凡例によると、編集者サイドが与えたものである。
真ん中の図は作者がその図に添えた俳句から取ったものだからあまり問題ないとしても、一番上の図が、果たして「出征」を主題にした図かどうかは、検討を要するのではなかろうか。
と言うのは、私は、これら3図は何れも「春風春水」を主題とした図として、このページを読み解くほうがより自然なのではないかと思うからだ。
先の「全作品集」においてこの図に「出征」の仮の題を与えたのは、おそらく画面右下の制帽を被ったような人物を軍人と認め、風に揺らめく幟を出征に関連したものと解釈したからかもしれない。あるいは、さらに左上の遠景部分に鳥居が描かれているのも「出征」に関連付けて見たのかも知れない。
けれども、そうすると、画面前景に大きく描かれた四人の人物のうち、中央部に最も大きく描かれた人物の意味が全く解らなくなってしまうのではないか。
ケーテ・コルヴィッツのある種の版画のように死の表徴のようなものと見られなくもないが、それでは、全体の意味はますます混乱してしまうだろう。
仮に「出征」の図がそもそもなぜ春の部に出てくるのか、その必然性も曖昧になる。
この人物は、他の人物たちとは明らかに違う謎の人物として登場しているのだ。
だが、この人物を素直に見れば、そんなに難しい意味が込められているようには思われない。
燕や蝶の飛んでいる春の図に相応しくなく、頭巾を被り、マントを着たこの人物、これはまさしく冬の寓意像でなくて何であろうか。
この像の背後に風に揺れる幟が描かれているのは、出征の兵士を祝うそれではなく、冬の寓意を追い払う春風の寓意と解釈できよう。遠景には春の川面が描かれているようにも見える。
従って、これも「春風春水」の図であり、春の部に相応しい主題と読める。
さて、真ん中の図は、その句が示している通り、蜑(あま)の子がもはや冷たくはない水の中に素足で入って遊ぶ図であり、子供の頭上に見える筆太の線は、風に流れ行く雲を示す形象であることは間違いない。だから、これも「春風春水」に違いないだろう。
どちらかと言えば、上の図が冬を追い払う「春風」を、下の図は温んだ「春水」に関連してこの「漫画」を読んでも、もちろんいいだろう。
最後に「和漢朗詠集」にも載っている白居易の詩「府西池」を書いておく。
言うまでもなく、芋銭のこれら3図は、下の詩句の内容やイメージを忠実に図として再現しようとするものではない。
あくまで「春風春水」なる題目の典拠がこれであると言うにとどまるが、面白いことに、起句が主に春風を、承句が主に春水を表現したものだから、芋銭の上の2図に相当し、結句が半裸の女性と結びつくのである。
柳無気力枝先動
池有波紋冰尽開
今日不知誰計会
春風春水一時来