美術の学芸ノート

西洋美術、日本美術。特に中村彝、小川芋銭関連。真贋問題。他、呟きとメモ。

小川芋銭の立田姫の図

2022-11-16 17:47:25 | 小川芋銭
今日の読売(2022-11-16)に
 龍田河錦おりかく神無月しぐれの雨をたてぬきにして  読人しらず
の紹介があつた。

これを読んで、小川芋銭『草汁漫画』にある立田姫の図を思い出した。この図には

秋まだ早き立田姫が蛙手(かえで)※
秋蘋兄遠く那須野より送らるるところ 芋生

の賛がある。


秋蘋は、この『漫画』が世に出たときは、亡くなっていたが、秋の人とも言われる秋蘋が那須野から芋銭に送ってきた蛙手と立田姫(龍田姫)を、大きく描いた立田姫の図を秋の部に加えて、故人を偲んだのではなかろうか。

この図は、北畠健氏によれば、秋蘋が亡くなる前に描かれていた。

だが、この図は、『漫画』に収録することにより、今や立田姫に(秋蘋が)立つ、旅立ったの意味を重ねて読むことができるように思われる。

※図中の「朝まだ早き立田姫が蛙手」の「蛙手」は「様子」と読めるかもしれないが、これは、蛙手と読むのが今は妥当に思える。後の字は明らかに「手」と読めるし、前の字の偏は、一見すると木偏のよう見えるが虫偏とも解せるからだ。(2022-11-22記す)

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「土浦病院と小川芋銭」展を見る

2020-09-21 20:34:00 | 小川芋銭
先日、標記の展覧会を見た。小規模な企画展だったが、自分には、かえってじっくりと展示内容が見られてよかった。

地元に密着した展示で丁寧な解説パネルなどがあって、手紙のくずし字も親切にその読みが書いてあった。

芋銭の書簡などの文字はそれ自体が魅力的だが、おおかたの現代人にはもはや読むのが難しいから、その読みが書いてあるのは親切だ。(冊子の方にも書いてあればもっとよかった。)

かつて岡本かの子が川端康成に宛てた書簡なども展示された川端康成の美術コレクション展が各地の美術館で開催されたことがあった。だが、展示品の難しいくずし字の読みが示されていないものがあった。

しかも、それに関連した全国版の新聞記事に、新発見とされるある書簡の写真が載っていたが、その中のくずし字の読みには誤りがあった。後で訂正されたのかどうかは知らないが、大新聞の全国版記事にもそういうことがあるのだ。

さて、先の「土浦病院と小川芋銭」展に戻ると、展示されている昭和9年7月8日の芋銭の書簡にこんな一節があった。

「此程は阿部知事より予而御送り申上候寒巌二公図潤筆として金五十円御恵与を御郵送被下正に受納仕候御手数拝謝仕候」

この部分の読み自体は問題ないと思うが、その内容はどのように解釈したらよいのだろうか。私が引っ掛かったのは「阿部知事より」という部分があったからだ。

この言葉がなければ、潤筆料を除いてほとんど問題ないのだが、実際この言葉があるので、当事者でない者には意味内容がよく分からないものになっているのだと思う。

なぜ、阿部知事が、潤筆料の支払いに関与してくるのか。これについては、何の解説もなかった。

そもそもここに出てくる「寒巌二公」とは展示されている屏風作品「寒山拾得図」を指しているのかどうか。

ところで、昭和9年当時の金五十円だが、これは今ではいくらに相当するのだろう。ある情報だと、1円は2500円ほどというのがあった。当時の1円は今日の2000円から3000円ほどとすると、高くともそれは15万円ほどだ。

芋銭の2曲1双屏風が、昭和9年当時、今日の15万円ほどとすると、これではあまりに安過ぎると言わざるを得ない。

してみるとこの書簡が述べている「寒巌二公」とは石島氏の持っている屏風作品ではなく、別のおそらくは小さな作品のことを言っているのかもしれない。

実際、昭和9年3月21日の石島宛芋銭の書簡ではこんなことを述べている。しかもそこには阿部氏の名前も出てくる。

「…水戸にゆく時は従来と別描法の寒山携へ可申存候、阿部氏へ宜しく是祈候」

作品の価格などより、人文的な芸術家である芋銭にとっては、作品所有者との持続的で人格的な交流こそ大切だったのかもしれないが、金五十円の作品は、昭和5年頃制作の屏風作品ではなく、阿部知事が購入した別の作品を指しているのではなかろうか。

石島氏が、おそらく知事から依頼されて金五十円を芋銭に郵送し、芋銭はそれを確かに受領しましたというのが展示されていた昭和9年7月8日の書簡の内容ではなかろうか。そう考えるのが最も自然な解釈だろうと思う。





(掲載写真は土浦市立博物館発行の無料冊子より)


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小川芋銭『草汁漫画』「柚味噌」の画賛(続)

2020-02-20 18:50:00 | 小川芋銭
蕪村の句「炉ふさぎや床は維摩に掛替る」の解釈を示した本があれば教えてほしいとT市立図書館司書のMさんにお願いしたところ、直ちに大正5年発行の合本『蕪村句集講義・遺稿講義』と平成12年発行の『蕪村全句集』をお持ち頂いた。

前者の中で子規がこんなことを言っているのには目をむいた。

「炉塞ぎでも炉開きでも、今迄維摩がかかっていたのを下ろしたにしても、新たに維摩をかけたにしても、句の趣味の上に別に変わったことはあるまい。終わり五字のたるんだ所など調子が月並に近い。即ち月並がこういう所をよく真似てやるのだ。」

すると鳴雪がすかさず「たるんだとは」と問い質してはいる。

子規は「かけかわる」と読んで、これを「たるんでいる」と言う。

だが、鳴雪は、自分はこれを「かけかえる」と読んでいたが、とくらいつく。

子規の答えは「自他からいうと無論そうだが、かけかわると言う方が目の前に維摩の像が出て来るように覚える。」

しかし、当初、子規は蕪村のこの句があまり気に入らなかったように見える。

ただ、「かけかわる」の方が目の前に維摩が出て来るように覚えると主張しており、この点はそうかもしれないと私も感じた。

だが、鳴雪はあくまで「かけかえる」だと譲らない。議論がなんだか、妙なことになってきたようだ。

私も終わり五字はどちらだろうという疑問も前から持っていたので、この二人の議論は、それはそれとして面白く読んだ。

子規は、蕪村の終わり五字を「たるんでいる」と言いながらも、「かけかわる」と読んで、蕪村の句を逆に新鮮に解釈している!

けれども、炉ふさぎになぜ維摩像という疑問は、二人の議論からは解けない。

炉塞ぎになぜ維摩像かということに関連して、子規の言い方はあまりに乱暴に過ぎないか。

というのは、炉ふさぎの「ふさぐ」という言葉が、「維摩」という言葉を導き出したと思われるからだ。なぜなら、維摩には、雷のように響く恐ろしい沈黙、すなわち維摩の一黙があるから。

だから、維摩が出て来るのはどうしても炉塞ぎでなければなるまい。

この点、『蕪村全句集』の注解では、こんな答えを出していた。

「維摩:維摩の一黙の故事で知られる。炉塞ぎに合わせて床も維摩居士の掛け軸に掛け替わった。口を慎めの謂か。炉塞ぎに口ふさぎを利かせた。」

私に解ったことは、蕪村が、維摩居士の掛け軸に掛け替えたのは、周辺文人たちの習慣ではなかったということ、子規も鳴雪もそこは問題にしていなかったということ、そして正に維摩像に「掛け替わった」のは、「ふさぎ」という言葉が一つの「沈黙」を、沈黙と言えば維摩を導いたのだろうということ。

炉ふさぎ→(ふさぎ→一つの沈黙→)維摩像

蕪村は「口を慎め」とまでは言っていないように思うが、維摩の一黙と炉塞ぎを結びつけたのは、それでよいのだと思う。

蕪村は「炉ふさぎや〜」とさりげなく月並のような句を提示して、私のようになぜ維摩像なのだろうと思う者に謎かけしたのかもしれない。

こうしたことから、芋銭が「柚味噌」(下の挿図)の賛に「炉開きや床は維摩に…」と書いたのは、もとよりとうてい解釈のしようもないものだったのだ。

だが、こうした画賛の解釈の苦しみからも学ぶことは多い!


(画像は国立国会図書館のデジタルコレクションから引用)

*蛇足
まさか、芋銭は、子規が「炉開きでも炉塞ぎぎでも、趣味の上で変わらない」と言うので、わざと取り違えたのではないだろう。
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小川芋銭『草汁漫画』「柚味噌」の画賛

2020-02-18 20:37:00 | 小川芋銭


(画像は国立国会図書館のデジタルコレクションから引用)

『草汁漫画』の冬の部にある「柚味噌」の図の画賛に「炉開や床は維摩に掛替る」というのがある。

冬の部の画賛に一見相応しいような月並俳句に見えよう。

しかし、この画賛句、非常に問題が多い。
まず、第一に意味がよくわからない。

炉開きになると床の間の掛け軸は、なぜ維摩像に替わるのだろう。それは、一般的、習慣的なことなのか…?

ところがこの画賛句、既に北畠健氏に指摘されているように元の句は、蕪村の
「炉ふさぎや床は維摩に掛替る」
なのだ。

炉開きと炉塞ぎでは、まるで季節が反対だから、これは実に問題だ。

絵は柚味噌だから冬の部にあり、当然、「炉開き」の画賛句でなければならない。
だから、これでは全く画賛として解釈のしようがないではないか!

では、本来の蕪村の句
「炉ふさぎや床は維摩に掛替る」
とはどんな意味なのだろう。

これもなかなか解釈が難しい。
炉塞ぎの句としてよく例に挙げられているのだが、その意味を教えてくれるものはネット空間には無さそうである。

なぜ、炉塞ぎの季節になると、床の間の掛け軸が維摩像に「掛替る」のか?

維摩像にするのは、当時のある範囲の文人たちの習慣なのか、それとも蕪村だけの意味付けがあるのか?

そして、この「掛替る」は、「掛け替える」と読むべきなのか、「掛け替わる」と読むべきなのか?

こんな疑問が次から次へとわいてきた。
芋銭の(とり違え?または思い違いによる?)画賛の意味を解釈する前に、本来の蕪村の句の意味もどうにもよく解らないでいた。

それでお手上げ状態だったのだが、私の地元の図書館司書であるMさんの助力で、参考になる文献を探していただいた。次回はそれについて次に書いてみよう。
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小川芋銭と小原無絃の『バーンスの詩』

2019-09-07 17:08:00 | 小川芋銭
小原無絃(要逸)訳『バーンスの詩』
明治39年2月に出版されたこんな本を見つけた。

何処に見つけたかというと、これが何と小川芋銭の『草汁漫画』を明治41年6月に出版した日高有倫堂の広告の中にあった。

しかも、まさしく『草汁漫画』そのものの奥付の後に付いた広告の中に見つけた。

こんなことから想像すると、やはり芋銭の『草汁漫画』「小春の午後」の中に出てくる「バーンス」とは、やはりロバート・バーンズのことに相違ないと思うのだ。

おそらく芋銭は、自分の本が出版されることになる同じ出版社の原文対照の詩によるこの本を読んでいたのではないか。

この本の評価は高く、例えば「明治期におけるバーンズ流入」を書いた難波利夫氏は、こう言っている。

「無絃小原要逸は、始めて ここに単行本の 「バーンスの詩」が、明治末期、堂々本格 的の出現と相成った次第である。」

しかも、既に小原無絃が、バーンズを

「その人や 多感多情 にして、功名の心燃 ゆるが如 く、その詩や古法旧格を脱して天真林直の精神を現じ、最も創新を以て勝る」と説いている点について、
「実に要を得た概括である」と称えている。

これによって、芋銭が『草汁漫画』を出版するころ、バーンズは、単に素朴な「農民詩人」というだけでなく、「多感多情」の人であり、「功名の心燃ゆるが如き」人であったことも知られていたと言ってよかろう。
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