美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

6月28日の呟き

2019-07-07 15:12:00 | 日々の呟き
小川芋銭の『草汁漫画』「雪隠禅」と王陽明のある詩句とは関連がある。
 
今年も一日花、木槿の花が咲き始めたのに今、気づいた。
 
ラジオで量子力学の話を聞いた。一般の人は、量子力学のこれまでの探究過程をあまり細かく知ろうしないほうが、どちらかと言えば幸せです、と講師が言っていた。
 
つい先頃までも、子供の頃も覚えがないのだが、自分は、自然物に近くなったのか、気がついたら、蟻一匹が自分の片脚から登ってきた。
 
小学2年生の漢字をちょっと眺めたら、例えば「帰」の巾の部分がはねていないから、○が貰えていなかった。先生も、こんなところまで見ていたら、神経がすり減って、いくら時間があっても足りなくなるだろうと感じた。今はこんなところまでマニュアル化されているのだろうか?それとも先生によりけり?
 
人は楽しいことをしていると、時間がはやく過ぎたとか飛ぶように過ぎたと言う。だがこれは相対論的な観点からすると逆なのだ。その時、時間はゆっくり流れている。だからこそ浦島太郎は、竜宮城でほんの短い時間を過ごしただけなのに、帰郷するともはや取り返しがつかないほど時が経っていたのだ。
 
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6月23日の呟き

2019-07-07 15:01:00 | 日々の呟き
小川芋銭『草汁漫画』の「かひ屋」と『古文真宝』 の蚕婦詩 ←ブログに書きました。
 
歳をとるに従って、昔、子どもの頃に聞いた浦島太郎の話が、ますます真実味を帯びて感じられるようになった。
 
これは、数値は別として、まさに特殊相対性理論の世界。地上の現実世界では、浦島太郎から見ると、時間の流れが速いのだ。逆に地上の現実世界の人々から見ると、浦島太郎の世界では、時間の流れが遅かったのだ、多分。でも浦島にとっては、やっぱりそれは、1年間に過ぎないものだったのだ。
 
楽しかった時間、よき思い出のある時間は、すぐに過ぎ去るというのは、こういうことだったのかと思う!
 
ベトナム人の留学生が日本に来て、スマホの契約が、あまり日本語がわからなくて、不安でできなかったと、今日の新聞記事。確かにあの契約は、不安になるでしょうね。日本語がよくわかっているはずの年輩日本人にも、マニュアル化された店員の説明は、よくわからないことが多々あるんだから。
 
鏑木清方の「築地明石町」が1975年の展覧会以降、所在不明となって「幻の作品、特別展示」と宣伝されている。この有名作品は「幻の作品」になっていたのか。展示、所有したい側が、44年間、所有権者が分からなくなったが、時代が経てば、売りたい人も出てくるのが世の常か。
 
ある元検事正の言葉。今日の読売新聞より。「公証人は国家に何十年も尽くしてきた裁判官や検察官が就くポスト。民間からなろうなんておこがましい」
 
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6月25日と26日の呟き

2019-07-07 14:57:00 | 日々の呟き
出光美術館がプライス コレクションから190件購入との記事を見た。
 
枡目描き「鳥獣花木図屛風」も含む。
 
「…簡単に奪うことは難しい、侮りがたい相手だと思わせるような対応力を持っていることが大事だ。」五百旗頭真氏の言葉、今日の読売記事より
 
「世界が直面する問題は複雑化する一方だが、世界の人々には逆に曖昧さに耐える力がなくなってきている。単純に白か黒かの答えを決めて、自分は正義、相手は悪とする議論が多い。」五百旗頭真氏の言葉、今日の読売記事より
 
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小川芋銭『草汁漫画』における瓢箪(2) - 「虫に鳥にも」

2019-07-06 22:23:00 | 小川芋銭
標記作品の画賛にはこう書いてある。
「此世にしたぬしくあらは来ん世ニハ 虫に鳥にもわれハ なりなん」
 
令和の新年号で、学校時代に聞いたことのあるその名前が再び呼び戻された、大伴旅人。
 
思いがけなく、すっかり有名になり登場した『万葉集』の大伴旅人の歌、これが小川芋銭『草汁漫画』秋の部の「虫に鳥にも」の図に書いてある画賛。
 
画像を見ると、瓢箪の世界に誰かが寝転んで本でも読んでいる風である。瓢箪の上方には紅葉が2葉。虫という言葉が賛にあり、紅葉も描いてあるから、確かに秋の部の図像だ。
 
瓢箪の中には、賛に合わせてか、既に鳥も飛んでいる。一つの世界、宇宙になっている。
 
寝転んで本を読んでいる人物は、既に酔っているに違いない。なぜなら、大伴旅人の上の和歌は、上機嫌に酒を誉める13首の連作に属するものだからだ。
 
験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
 
これは、その連作の最も有名な歌だが、実は芋銭のこの図にもっと相応しい歌もあるのだ。
 
なかなかに人とあらずは酒壷(さかつぼ)に成りてしかも酒に染みなむ
 
芋銭の描くこの図の瓢箪は、従って、まさにこの歌人の、むしろそこに閉じこもっていたい、いや、それになってしまいたい、という酒壺世界の表現と言ってよい。
 
「虫に鳥にも」の人物、たぶん旅人、または彼に共感する芋銭その人でもよかろうが、その人物が、なぜ、瓢箪の形に囲まれているか、これでもうはっきりしたろう。
 
 
 
 
 
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小川芋銭『草汁漫画』の「北風」

2019-07-05 13:40:00 | 小川芋銭
小川芋銭の『草汁漫画』125頁は「北風」と題されている。この頁には上下2図が載っているのだが、いずれも北風の題に相応しているものと私は考えている。
 
上の図には「木枯や何に世渡る家五軒」の蕪村の句があるから、これが題目に一致することは問題ない。
 
だが、下の図はどうだろう。画面前景に黒い影法師となった人物が大きく描かれ、川べりに佇んでいるようだ。冬の部に描かれているこの図は、その背を向けた大きな影法師のためか、謎に満ちた雰囲気がある。
 
この黒い影法師の人物は誰だろう、前から気になっていた。そしてこの図は全体的に何を意味するのだろう。
 
だが、なかなかその意味が解けないでいた。そもそも図の左上の文字がうまく読めない。
 
北畠健氏の研究でも「妹が夕?」となっていた。
 
「妹が」までは間違いない。その下の「夕」にも見える文字が、はっきりしないのだ。
 
確かに「夕」と読んで川べりの夕方の景色とすれば、影法師の人物の図像的意味に繋がりそうだ。だが、「妹が夕」の全体的意味内容ははっきりしない。その典拠も今ひとつ曖昧のままだ。
 
だが、これは木版に問題があって読めないのだろうと思う。この本には、他にも彫りが甘くて、それだけでは読めない文字がある。
 
この図は「妹がり」と読むべく書いてあったのではなかろうか。
 
これを「妹がり」と読むなら、この図の主要モティーフをすべて統合的に解釈できる。と言うより、むしろ図像内容がそう読むことを要求しているように思われる。
 
すなわち、紀貫之の「思ひかね 妹がりゆけば 冬の夜の 川風寒み 千鳥鳴くなり」の歌の内容を典拠に、これを現代的にアレンジしたものとしてこの図を解釈できる。
 
都会の男の影法師、北風になびくその男のマント、冬の夜、川辺り、寒さ、千鳥…。特に鳴く千鳥なら、この歌のように恋情を示しているのかも知れない。
 
そして、さらに、これらは、同じ「北風」の表現であっても、蕪村の句を典拠とした同じ頁の上の図、すなわち田舎の風景と、すべてが対置されている、そう思うのだ。
 
なお、紀貫之の上の歌を、芋銭が戯画風に描いている図があることは、前のブログで紹介した通りであるから、彼がこの歌を確実に知っていたことは間違いない。
 
追記:賛の読みが「妹が*」の*に相当する熟語には、「妹許(いもがり)」の他にどんなものがあるのだろう。熟語ではないが、越人のこんな句が目に留まった。
   あやにくに煩ふ妹が夕ながめ
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