『小川芋銭作品全集』を見ていくと、王建の詩句「十指不動衣満筺」に関連する図は、他にも複数ある。中でもとりわけ重要な図は、この全集の挿絵編651番の作品である。
題は「十指不動衣食満」で、明治40年の作とされる。この図には、この題と同じ賛の他に「一糸一粒辛苦身」の賛が加えられている。
しかもこの図は、丸で囲まれた図と三角で囲まれた図とから成る。丸の図は豪華な衣装を身につけた歌舞伎役者と見られ、三角の図は機織り関連の仕事をする弱々しげな婦人である。だから、彼らのために相当する2つの賛があるのだ。
こうして、丸と三角の中の人物図像が、一つの図の中で、それぞれの賛とともに対比されている。ここまでは自明であろう。
一方は、織られた衣服を何も労することなく、身にまとう側であり、他方は刻苦して布を織る側である。後者は、自分が織った布をついに身にまとうこともない、そんな意味合いが込められている。比較的解り易い図式だ。
一糸一粒の<粒>は、言うまでもなく穀物を育て作る「粒々辛苦」の農夫を示すが、ここでは、<糸>を撚り、機を織る側の婦人の図像で代表する。
さて、ここで『草汁漫画』36頁の「陽炎」と「機張」に戻ると、前者は豪華な衣装をまとう花魁の白抜きの形象であり、後者は機織りの婦人の図である。そして、「陽炎」にはかつて「十指不動…」の賛が付けられていたのだった。
そしてまた、「機張」の元となった図像には、北畠氏が明らかにしたように、極めて深刻な画賛の詩句、すなわ陳陶の「隴西行」からとった「春閨夢裏人」との詩句が認められる髑髏の図像があった。
今、『草汁漫画』36頁を見ると、「…無定河辺骨 尚是春閨夢裏人」の詩句は、図の中ではなく、活字として組まれているが、それは、2図のうち、確かにどちらの説明か曖昧な位置に見出される。北畠氏は、芋銭が時局判断により、作品の意図を敢えて曖昧にしたのだと述べている。
芋銭は、髑髏の図像に代わって瓢箪型の囲みに、范成大の「四時田園雑興」からの、より穏当な表現の詩句を置いた。しかし、これもそこに添えられた詩句の前半部を読むと、「小婦連宵上絹機…」などの詩句も見えるのである。
もちろん、36頁のこれら2図は、独立して観てもよい。だが、芋銭がこの2図を同じ頁に配したということは、やはり、これらの図を対比させる意図があったからと合理的に推論させるに足る充分な根拠がある。
これら2図を対比してもよいという明白な証拠、それが、取りも直さず全集651番の図である。
機織る人、つまり「機張」の人と、華美な衣装を着る人、すなわち「陽炎」の人の強烈な対比、これは、解る人には解って欲しいというのが芋銭の思いだろう。
なお、『草汁漫画』36頁に「きりはたりてふてふ 梭の間忘れぬ男縞」の短文が頁の右上に置かれているが、この前半部は機を織る音を表す語であり、「機張」の元の図は織り機の中に実際、蝶が飛んでいる図であった。そこに音があることを表したかったのであろうか。それともその蝶は「春閨夢裏人」の魂の表現だろうか。
その蝶は、今や蜻蛉あるいは薄羽蜉蝣のような昆虫に変えられて図から飛び出した位置にいる。一方、「陽炎」の図には元から蝶が飛んでいた。これも、恐らくは、もとより儚き陽炎のような世界に飛ぶ蝶なのだ。
以上の通りであるから、作品「陽炎(カゲロウ)」には蝶が飛び、蝶が飛んでいた作品「機張」には、カゲロウが飛んでいるという交錯した関係が仕掛けのようにあり、この2図の図像上の対称性と意味的な対照性が更に強められていると言えるのではなかろうか。
芋銭の『草汁漫画』には、一見、単独の図のように見えながら、同じ頁やその前後の頁に、若しくは近似する図像に、ある種の関係性を置いて考察してみると、その謎めいた意図がある程度読み取れるようになっているものがあるように思われる。
それを次に別の作品の例で考えてみよう。