美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

小川芋銭『草汁漫画』「陽炎」と「機張」(2)

2019-07-14 19:15:00 | 小川芋銭
『小川芋銭作品全集』を見ていくと、王建の詩句「十指不動衣満筺」に関連する図は、他にも複数ある。中でもとりわけ重要な図は、この全集の挿絵編651番の作品である。
 
題は「十指不動衣食満」で、明治40年の作とされる。この図には、この題と同じ賛の他に「一糸一粒辛苦身」の賛が加えられている。
 
しかもこの図は、丸で囲まれた図と三角で囲まれた図とから成る。丸の図は豪華な衣装を身につけた歌舞伎役者と見られ、三角の図は機織り関連の仕事をする弱々しげな婦人である。だから、彼らのために相当する2つの賛があるのだ。
 
こうして、丸と三角の中の人物図像が、一つの図の中で、それぞれの賛とともに対比されている。ここまでは自明であろう。
 
一方は、織られた衣服を何も労することなく、身にまとう側であり、他方は刻苦して布を織る側である。後者は、自分が織った布をついに身にまとうこともない、そんな意味合いが込められている。比較的解り易い図式だ。
 
一糸一粒の<粒>は、言うまでもなく穀物を育て作る「粒々辛苦」の農夫を示すが、ここでは、<糸>を撚り、機を織る側の婦人の図像で代表する。
 
さて、ここで『草汁漫画』36頁の「陽炎」と「機張」に戻ると、前者は豪華な衣装をまとう花魁の白抜きの形象であり、後者は機織りの婦人の図である。そして、「陽炎」にはかつて「十指不動…」の賛が付けられていたのだった。
 
そしてまた、「機張」の元となった図像には、北畠氏が明らかにしたように、極めて深刻な画賛の詩句、すなわ陳陶の「隴西行」からとった「春閨夢裏人」との詩句が認められる髑髏の図像があった。
 
今、『草汁漫画』36頁を見ると、「…無定河辺骨 尚是春閨夢裏人」の詩句は、図の中ではなく、活字として組まれているが、それは、2図のうち、確かにどちらの説明か曖昧な位置に見出される。北畠氏は、芋銭が時局判断により、作品の意図を敢えて曖昧にしたのだと述べている。
 
芋銭は、髑髏の図像に代わって瓢箪型の囲みに、范成大の「四時田園雑興」からの、より穏当な表現の詩句を置いた。しかし、これもそこに添えられた詩句の前半部を読むと、「小婦連宵上絹機…」などの詩句も見えるのである。
 
もちろん、36頁のこれら2図は、独立して観てもよい。だが、芋銭がこの2図を同じ頁に配したということは、やはり、これらの図を対比させる意図があったからと合理的に推論させるに足る充分な根拠がある。
 
これら2図を対比してもよいという明白な証拠、それが、取りも直さず全集651番の図である。
 
機織る人、つまり「機張」の人と、華美な衣装を着る人、すなわち「陽炎」の人の強烈な対比、これは、解る人には解って欲しいというのが芋銭の思いだろう。
 
なお、『草汁漫画』36頁に「きりはたりてふてふ 梭の間忘れぬ男縞」の短文が頁の右上に置かれているが、この前半部は機を織る音を表す語であり、「機張」の元の図は織り機の中に実際、蝶が飛んでいる図であった。そこに音があることを表したかったのであろうか。それともその蝶は「春閨夢裏人」の魂の表現だろうか。
 
その蝶は、今や蜻蛉あるいは薄羽蜉蝣のような昆虫に変えられて図から飛び出した位置にいる。一方、「陽炎」の図には元から蝶が飛んでいた。これも、恐らくは、もとより儚き陽炎のような世界に飛ぶ蝶なのだ。
 
以上の通りであるから、作品「陽炎(カゲロウ)」には蝶が飛び、蝶が飛んでいた作品「機張」には、カゲロウが飛んでいるという交錯した関係が仕掛けのようにあり、この2図の図像上の対称性と意味的な対照性が更に強められていると言えるのではなかろうか。
 
芋銭の『草汁漫画』には、一見、単独の図のように見えながら、同じ頁やその前後の頁に、若しくは近似する図像に、ある種の関係性を置いて考察してみると、その謎めいた意図がある程度読み取れるようになっているものがあるように思われる。
 
それを次に別の作品の例で考えてみよう。
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小川芋銭『草汁漫画』の「陽炎」と「機張」

2019-07-14 11:15:00 | 小川芋銭
『草汁漫画』36頁に掲載されている2図については北畠健氏が既に茨城県近代美術館の「研究紀要」第3号にきわめて重要な見解を示している。
 
そこで、ここに提示しようとするのは、氏のこの見解を踏まえた上で、これらの図についての、さらに新たな見方である。
 
先ず「陽炎」と題される縦長の図、この作品名は何を意味しているのだろうか。
 
図を見ると、作品上方では西洋風、または現代風の装飾的な窓際に黒い手がすっと伸びるように描かれ、下方には、縦縞や格子の縞文様に、花魁のような衣装の女性が白抜きのように描かれている、いや、断定はできないが、そのように、人によっては見えるように描かれている。
 
この奇妙な図像は何を意味しているのだろう、それは本当に花魁のような女性の形象でよいのだろうか、私にはこうしたことが前から解らず、不思議であり、気になっていた。
 
今回、この謎が私なりに解決がついたのでここに書いてみる。
 
さて、北畠氏は、かつてこの図に「十指不動衣満筺」の賛があったが、漫画36頁では、これが削除された事実を上の紀要で明らかにした。
 
ただしその句の意味、およびその典拠(もちろん、それがあるとすればだが)については触れていなかった。氏の最新のホームページの「小川芋銭研究」や『小川芋銭全作品集』にも当該頁に言及がない。
 
そこで、今回まずこの削除された賛には典拠があり、それが分かったので、それをここで明らかにしておく。
 
それは、唐代の詩人王建の「當窗織」から芋銭が引用したものである。
 
嘆息復嘆息,園中有棗行人食。貧家女為富家織。 翁母隔墻不得力。水寒手澀絲脆斷,續來續去心腸爛。 草蟲促促機下啼,兩日催成一匹半。輸官上頂有零落, 姑未得衣身不著。當窗卻羨青樓倡,十指不動衣盈箱。
 
これである。まさにこの詩の最後の句が引用されていた。
 
「十指不動衣満筺」のフレーズは、芋銭が以前から気に入っていたものである。意味は、自らの手は労さず、衣装が筺に満ちるということが、この詩を読むことによって解る。
 
誰の筺に満ちるのかと言えば、それが正にこの図が描かれた所以だろう。すなわち、王建の詩で言えば、芋銭によってこの図から削除された句の前の句、
 
當窗卻羨青樓倡
 
の部分に関連していると推論できる。
 
つまり、芋銭のこの図において、白抜きされた形象が、花魁のように見えたのは、まさしくこの詩の「青樓倡」に対応しているからだと解る。
 
そして、影のような黒い手、これは「十指不動衣満筺」の十指不動の手であると合理的に推論できよう。
 
白抜きされたように描かれているのは、やはり、「青樓倡」に対応する花魁であり、この図が「陽炎」と題された理由と考えられる。
 
白抜きだからその存在が陽炎ように見えることを暗示したのだし、そのように描かれているのだ。
 
だが、この問題は、もちろんこれで終わらない。
 
ここまで書けば、芋銭に詳しい人なら既に直観したかもしれないが、この図は、この頁の下の図である「機張」に密接に関連していることを明確に証することができる。
 
次にそれを書いてみよう。
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