茶の花やほるる人なき霊照女
これは越智越人の俳句であるが、これを賛とした芋銭の図が標記本の「霊照女」である。
霊照女の画題は、日本で茶の文化が生まれた禅の時代に親しい道釈人物の画題であり、次第に美人画的な要素も入って、鑑賞されるようになったようだ。
茶の花は、白と黄色の小さな花だが、あまり人の目を惹くことはないと言ってもよいだろう。季語としては冬の花である。
そんな茶の花の目立たないが凛とした佇まいを霊照女に喩えたのが越人の句のようだ。
茶の花の美は、禅の文化に相応しく霊照女の美であり、霊照女の美は茶の花の美に喩えられたと言ってよいのかもしれない。
そうした美に気付かずにかどうか、惚れる人さえいないのが茶の花=霊照女なのだろう。
おそらく、芋銭にとって、茶の花のイメージは、越人の句を介して、霊照女であったのだが、同じ『草汁漫画』の茶の花二輪が描かれている「霜香」に添えられた短文(色彩感覚鮮やかな蕪村のニ句を変形・対比したもの)にはこう書いている。
道の辺の馬糞に燃ゆる
紅梅の思は消へて
白にも黄にも覚束なき
茶の花の我世は
淋しかりけり
「我世」とは誰だろう。芋銭自身のことか、それとも茶の花である霊照女のことか。
芋銭の「霊照女」に描かれているのはもちろん伝統的な図像の彼女ではなく現代の霊照女である女性だ。
彼女の脇にいる手拭いを被った女性が「うれしかッぺい」と語りかけているが、後ろ向きの若い彼女の返事は解らない。