美術の学芸ノート

東西近代美術の関連。中村彝、小川芋銭の美術。真贋問題。他、呟きとメモ。

芋銭の書 権威者だって間違う

2015-07-31 23:01:34 | 小川芋銭


上の写真は、斎藤隆三氏による芋銭の基本文献から複写したものである。

西山泊雲に宛てた堂々たる内容の、見た目にも実に力強いもので、私も一目で気に入った。

恐らく斎藤氏もそのように感じて、数ある書簡の中から、これを選んで、写真付きで掲載したのだろう。

しかし、初期院展のトップの画家たちと同時代を生きたばかりでなく、親密に交際したこの美術史家の斎藤氏ですら、芋銭の書を読み間違えることがあるのだ。

しかも上の書簡でなんと芋銭が大書した文字をこう読んだ。

惺々
主人翁
聖中堂


なるほど、次に続く書簡の内容にこれでも意味は繋がっていきそうだ。

だが、これは、そうではなかろう。こう読むのではないか。

坐中堂 (中堂に坐す)

確かに、「聖」と「坐」の崩し字は、似てしまうことがある。特にこの場合はそうだった。

似ているばかりでなく、これで、意味も通じてしまう。そこが問題だった。

私が初めてこれに気付いたのは、そのころ、たまたま、芋銭が読んでいたはずの『菜根譚』を何度か再読していたからである。

『菜根譚』には、確かそうあった。
もちろん、芋銭自身が、有名な語句や詩句を多少変形して書くことはある。
しかし、ここは、それとは違うだろう。

他にも斎藤隆三氏の芋銭基本文献に、これは違うのではないかという箇所があった。

やはり写真が載っている芋銭の原稿の読み方についてだが、「勿忘草」という文章のこれも冒頭の目立つところにある。これは、誤読というよりも、編集ミスと言った方がいいのかもしれない。

しかし、これもうっかりすると、そのまま含蓄あるものとして読まれてしまう恐れがあるものだ。

以上、私は、これを権威者を貶めるために書いたのではない。
むしろ、権威者は自分の読みをきちんと提示していたのである。

私が、たまたま気付いたのは、写真が挿入されていて、芋銭自身が書いた文字と印刷文字を照らし合わせることができたものだけである。

だから、そうでない多くの書簡などにも、いくつか、訂正すべき箇所がありうるので、注意を促すとともに、自分で芋銭の文字が読めるようにと言っているのである。

偉そうなことを書いたが、展覧会が迫ってから出品作品が追加され、急遽読むべき画賛が増えた結果、とんでもない読み間違いをしでかして、未だに赤面の刑を科せられている身なのである。

芋銭の読みの間違いは、斎藤氏のような権威者に限らない。他の学者や学芸員が書いた作品解説にも散見される。

だが、読み違いがあっても、もちろんそれは咎められない。だれにもそんな資格はない。

私が一番腹が立つのは、画賛の読み方がパラパラしか入ってない画集などの作品解説だ。

遠巻きの一般論や自分の感想を述べたてて、こちらが、教えて欲しい基本的な画賛の読みや意味を無視したものだ。

画賛の読みがあるのは、既に他の本に書いてあるものか、簡単なものだけで、自信のないものは、黙りを決め込んでいる。

こんなのは、専門でもない学者や学芸員がアルバイトや売名でやっている作品解説だとすぐにわかる。

プライドが許さないのかどうか知らないが、間違ってもいいから、若い学芸員は、最大限努力したあとの見える工夫の読みを示して欲しい。

そうであるなら、アルバイトでも売名でも、まだ私は許せると思うのだが。

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画賛を読んで作品名を改めた具体例 小川芋銭の2点(2)

2015-07-30 11:36:33 | 小川芋銭
前回、書き洩らしたが、芋銭の場合、ほとんどが、自賛であるから、画賛の方が間違っているということはない。だから、例外はあるかもしれないが、画賛は絵の内容や思想に概ね合致するか何らかの意味でそれらを反映、もしくは補っているものと考えられる。すなわち、絵の内容と反対のものが、何の断りもなく画賛に書かれることはないと思う。

さて、次に「野狐禅」を「野狐狸」に改題した例であるが、これは画像がいたって単純な作品である。一人の人物が、虎に乗って歩み来る。それだけの作品だが、なぜ、虎に乗った人物の画像に「野狐禅」の名称がついているのだろう。その意味は?

小川芋銭の作品には、いろいろな画集を調べてみると、別に「野狐禅」という作品があることからもわかるように、確かにこの画題は、いかにも芋銭の作品にふさわしいように見えるかもしれない。

「野狐禅」とは、『無門関』という書の「百丈野狐」の話に由来する語で、まだ禅の真の覚りを得ていないのに、既に得ていると思い込んでいる偽りの禅を指す。

それとこの画像とがどう結び付くというのか。

虎に乗った人物など単なる奇行であって、野狐禅に過ぎないとでも言っているのだろうか。しかし、これは単なる推測に過ぎない。とは言え、この題名を見たら、そのように想像する人もいるかもしれない。

絵のタイトルはやはり大切だ。とくに芋銭のような作品はそれひとつで誤解を招くような場合もあり得る。

『無門関』に載っている「百丈野狐」の話は、前世で住職であった者が、覚った者は「因果に落ちず」と修業僧に応えたため、住職の僧自身が途端に野狐の身に堕ちたという話である。

この話では、野狐となった僧は、百丈和尚によって、やっと野狐の身から脱することができる。
これが「百丈野狐」の大筋の話だが、虎に乗った人物などどこにも出てこない。

虎に乗った人物というなら、前にこのブログでも紹介した松平雪江の「四睡之図」に出てくる豊干(ぶかん)禅師を思い出すのが最も一般的であろう。

だから、やはり画賛を読んでみる必要がある。文字数はきわめて少ない(下図)。

ちょっと見ると、最初の文字が2文字のように思う人がいるかもしれないが、文字全体の意味内容からすると、これを1文字と捉えて読まなければ読めないし、意味が通じない。すなわち「驚」という字である。これに気づけばあとは比較的簡単だ。すなわち、

驚殺
野狐狸


(野狐狸を驚殺す)

と書いてある。

しかし、これを
□□
野狐禅


と読んで、誰かがこれを作品名にしたのだろう。それが、共箱ではない軸箱に貼ってあった作品のタイトルだった。
「狸」の崩し字が「禅」に化けたのだから、ちょっとこれも小噺めいてはいる。

※このブログを書いた後、関連するブログがあることに気づきました。このブログが指摘しているように「七十にして愚を加ふ」を意味する落款印がありますから、この作品、確かに芋銭が満69、数えで70歳にときに描かれたと考えるのが妥当ですね。芋銭の最晩年の作となります。
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画賛を読んで作品名を改めた具体例 小川芋銭の2点(1)

2015-07-29 21:57:52 | 小川芋銭
小川芋銭の作品とされるものに「草刈図」(大正13-15年)と「野狐狸」(制作年不詳)と題されるものが、茨城県近代美術館にある。

これらの作品は、以前、「雨中草刈図」、そして「野狐禅」と称されていた。

その名称は、私の記憶違いでなければ、それぞれの軸箱に貼られていたラベルに書かれていた作品の名称に由来するものであった。それをそのまま美術館が踏襲して、作品名としていた。

作者本人が軸箱に作品を収めて、作品名を書いたりしたものを、「共箱」といい、美術界では、真贋鑑定にも役立つから、これを重視するが、これらは、もとより「共箱」に由来する名称ではなかった。

では、なぜ「雨中草刈図」が「草刈図」に、「野狐禅」が「野狐狸」に改められたか。

その理由は簡単だ。

画賛を読むことによって、それらの作品名が改められたのである。

それまで、芋銭の作品を敬遠してきた私が、退職後の4年間、古巣で再任用されたのを機に、せめて館蔵品の芋銭の書いた文字はすべて読めるようになりたいと思い、密かに挑戦してみた。

すると意外にも、「雨中草刈図」と言われる作品の画賛には、「粒粒辛苦」で有名なこんな詩が書いてあるのが分かった。(読みと意味はネットで検索されたい。)

鋤禾日當午 汗滴禾下土
誰知盤中餐 粒々皆辛苦


画賛では、汗が滴り落ちているのは、太陽がカンカンと照っている中で、農作業をしているからなのだ。
雨中での農作業ではない。

それがなぜ雨の中になってしまったのか。
日傘を被り、日除けの蓑を被っているのだろうが、それが雨除けのものだと絵を読み取ってしまったからに違いない。

ほとんど墨で書かれているからよく分からないのだが、カンカン照りで光が銀色に反射しているようにも見えるのだ。

水墨だから雨や霧をつい連想してしまうのだろうが、やはり、画賛を読まなくては。

もう1点、「野狐禅」から「野狐狸」に変わった例は次回に書いてみよう。






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いかにして主題が解明されたか 二世五姓田芳柳「稲葉一鉄」

2015-07-28 23:48:26 | 日本美術
私は退職後、古巣の茨城県近代美術館に戻り、4年間、一学芸員として働いた。
どういう人事の方針なのかは知らないが、そのころ日本画専門の学芸員(これは大学で主に東洋・日本美術史を学んできたというほどの意味だが)が水戸の美術館には少なかった。

私も、美学・西洋美術史と日本の洋画を専門としていたので、日本画は得意ではなかったのだが、その私でも、日本画の主題が解けたという具体例。

美術館ではよくあることだが、ある日、一本の電話がかかってきて、担当の課長が電話に出た。
美術館さえお望みなら、作品を寄贈したいのだという。課長によれば、所有者は、作者名は分かるが、あとは作品名も何もわからない。

しかし、茨城県の中では名の知れた作家だし、寄贈の申し出人についても問題がなさそうだったが、一応この作品を調べてみてからということになった。

何にもわからないといっても、貰うためにはせめて作品名はつける必要があるだろう。そのためには、描かれている主題内容が分からなければならない。単なる花鳥画や山水画なら、そのような仮題を付けてごまかすこともできようが、この絵の場合はそうはいかなかった。

明確な主題がありそうな絵であることは、その絵の写真を見せられてはっきりとわかったからだ。

縦長の掛け軸の作品。登場人物は5人。
床の間の前に坐っている侍が4人。ガラッと障子をあけて入って来たちょっと偉そうな侍が一人。

座っている4人の侍のうち、一番手前の人物は、お茶を点てている様子。
残り3人は、床の間の前に座っており、そのうち床の間に近い人物が掛け軸の方を指さして隣りの人物に何か語りかけているか、訊いているらしい。

もう一人は、ひげ面の侍で、右手に扇を持っており、やはり床の間の掛け軸の方を見ている。

さあ、このような内容の絵にどんな作品名を与えたらいいか、それを考えてほしいという課題である。

これは、西洋美術史をやってきた人間には、無理だ。
ギリシャ神話や旧約、新約など聖書の主題など、西洋的な主題や図像には精通していても、日本史上の逸話に関しては、とんと無知だからちょっと見ただけでは想像がつかない。

しかし、美術主題解明のための方法論は、同じようなものであるから、分かりそうなものから解いていく。

この作品では、登場人物3人が注目していると思われる床の間にかかっている掛け軸の文字だ。

だからこれを読んでみる。読もうと思えば読めるように絵の中に書いてある。
比較的わかりやすい文字である。

文字数を数えてみると、14文字ある。だから7言詩の一部かも知れない。そう思いながら読む。

雲横秦嶺家安在 (雲は秦嶺に横たわり、家 安くにか在る)
雪擁藍関馬不進(雪は藍関を擁して、馬 進まず


誰の詩だろう?
高校時代に読んだことがありそうな気がするが、しかとは分からない。

ヒントをつかむため、たまたま手元にあった新明解漢和辞典を引いてみた。このなかで私が聞いたことのありそうな文字は<秦嶺>だったので、秦という字で引いてみる。

すると<秦嶺>の説明が出ていた。これは、有名な山脈の名だった。そういえば聞いたことがあるな。

しかも、この<秦嶺>が、韓愈の詩の一節に出てくることを、この辞書は、その詩の題名とともに例示していた。
まさしく、この絵の掛け軸に書いてある一節だ。小さな辞書に出て来るほどの詩の一節であるから、この部分は相当に有名なのであろう。

そうすると、次に探究すべきは、韓愈のこの詩「左遷至藍関示姪孫湘」と日本の武将たちとの関係がありそうな日本史上の逸話のようなものを探すことだろう。

詩の題名からすると、何か、左遷の主題と関係があるのだろうか?

これはなかなか分かりそうにもなかったが、韓愈のこの詩は、いろいろ調べていくと、信長と稲葉一鉄の故事に関連しているということがだんだん分かってきた。

私は、信長と一鉄に関する故事を知らなかったが、それを調べてみれば、この絵の場面は、まさしくその故事によって説明できることが明らになった。

信長と一鉄の故事とは、こういうものである。

家臣の讒言を信じた信長が、一鉄を殺そうと茶会に招いた。

一鉄は、かつて斎藤道三に仕えていたが、それを裏切り、信長に仕えた。
そんな男だから、信長は心底からは彼を信頼ができなかったようで、とうとう、この絵の場面の日を迎えることになった。

しかし、彼は武勇に優れているのみならず、教養も知性もある人間であることを、韓愈の詩を読んだこの時に、隣室にいた信長に示したのである。

それを聞いた信長が、その男、殺さなくてよいと、障子を開けて入ってきた場面、そう考えられる。

信長は、これによって、彼が武勇のみならず、教養も知性もある人間であることを知り、以後、彼への信頼を本当に寄せるようになったというのである。

この絵のなかで、ひげ面で扇を持っている男が、私は彼だと見たが、既に主題が明らかになった後、そうではなく、床の間の掛け軸を指さしているひげのない侍が彼だと見ている人もいることを知った。指差して彼が詩の内容を説明していると見たわけである。

私は、庭に近いところに座っている二人でなく、手前の茶を煎れている男と、この二人に挟まれて、逃げられないようになっているひげ面の扇を持った男が一鉄の外見にふさわしいと見たのだが。

作者、二世五姓田芳柳(1864‐1943)は、下総国猿島郡沓掛村(現・茨城県坂東市)に生まれ、草創期の洋画を学んだが、1931年には芳柳の号を返上しており、日本画も多く描いた。

この作品では、天井や床の間の描写に西洋画的な線遠近法が見られるが、この場合、1点透視図法ではない。
武将たちが着ている衣装など、信長の時代のものなのかどうか、今後の考証が必要だろう。

さて、これまで、作品の写真だけで主題を探ってきたのであるが、後に、この絵が寄贈されることになった段階で、軸箱に入ってこの作品が運ばれてきた。

所蔵者は作者名以外何もわからないと、課長は言ったが、軸箱を見ると、なんと、そこにはちゃんと稲葉一鉄と書いてあるではないか。何だよ、これ、というお粗末の一席。







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『茨城県近代美術館所蔵作品選 中村彝とその周辺』

2015-07-27 19:33:59 | 中村彝
茨城県近代美術館が発行した『茨城県近代美術館所蔵作品選 中村彝とその周辺』という解説本が同館のミュージアム・ショップで売られている。他に類本がないので、売れ残りは少ないかもしれない。

発行年は、どんな理由によるものか、奥付にその記載がないのではっきりしないが、私がこの本を受領したのは1999年3月ごろだから、この1998年の年度内に編集され、発行されたものだろう。

ところで、この本の「中村彝年譜」の編者は大正9年の項目にこう書いている。

8月19日
今村繁三邸で所蔵のルノワールの「泉」、「風景」を見て感動する。

9月1日
第7回院展洋画部の「仏国近代絵画及彫塑」展で特陳のルノワール「裸婦」、ロダン「考える人」を見て感激する。
(同本74頁から)

一方、この年譜編者は、この本の論考も書いており、その「中村彝の人と芸術」でこう述べている。

大正9年には院展洋画部に特別陳列されたルノワール「すわる水浴の女」(当時個人蔵。現ブリヂストン美術館蔵)を記憶模写している。従来ルノワール「泉」模写といわれてきたものである。(同本66頁から)

ところで、前にこのブログでも紹介しておいたように、私は、彝の記憶模写の対象となったルノワール作の「泉」なる作品は、今村邸にはなかったのであり、それは岸本家にあった作品で、現在はブリヂストン美術館にあることを、この本が刊行されるだいぶ前から研究紀要などで明らかにしていた。

彝が院展特別陳列でその岸本蔵のルノワールの作品(当時の目録では「裸」という名称)を見て、帰ってから記憶模写したことも、もちろん同時に明らかにした。

だから、先のブログで紹介したような年譜と違い、この本の年譜では、8月19日、彝が今村邸から帰ってから「泉」または「風景」を「記憶模写した」との曖昧な記述がないところは、まだよいのだが、しかし、

(1)今村邸で彝がルノワールの「泉」を見て感動したという年譜の記述は、明らかに間違いであるし、

(2)その論考で「従来ルノワール『泉』模写といわれてきたものである」とこの本の論者が初めて明らかにしたかのように、「従来」云々というのは、非常に引っかかるものがある。

何の典拠も、出典も示さずにこのように書くことは、この論者よりもずっと以前にこの事実を明らかにしてきた私としては当然のことながら容認しがたい。

その上、同一の筆者によって、このように年譜と論考とが矛盾した記述を含んでいるのは、真剣にこの本を読んでいる人に更なる混乱と誤解を与えることにもなると思うので、あえてここに書き記しておく。

なお、この本には『芸術の無限感』に載っていない、同館蔵の書簡が掲載されているが、その読み方には訂正すべき個所があるので、これにも多少の注意が必要だ。

また、「資料目録」に伊藤隆三郎宛て大正5年8月8日付の書簡が同館にあるように書いてあるが、これは封筒のみで、中身が違うことなど、重要な注釈がないことにも注意を促しておこう。

さらに、この本に、彝が大島から友人の多湖実輝に出した絵葉書の写真が掲載されている(59頁)が、これは寄贈目録に記載されてなかったものである。
これは、様々な遺品が寄贈されて、しばらく時が経ってから、私がそれまでそのままになっていた音楽レコードを調べていた時に、1枚のレコード・ジャケットから偶然出てきたものである。ここにそれを記しておくのも後の研究のため無駄ではあるまい。

なぜなら、彝が出したはずの絵葉書が、彝の遺品とされるレコードのジャケットから出てきたのであるから、ここに多少の理由あるいは解明すべき謎が含まれているかもしれないからである。葉書の文面もかなり意外な内容だ。
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