中村彝のある展覧会図録では明治41年2月とされる写真があって、同じ写真は彝関係の様々な文献に見出すことができる。7人の若き画家仲間が写っている写真で、そこは、撮影年がそのとおりなら、太平洋画研究所の教室ということになろうか。
ここで書かれている「印刷したレッテル」とは、朱文方印型の「中村画室倶楽部所蔵」シールのことだろうか。
私が彝作品の真贋などに興味を持ったころには、人事異動なども重なって、オリジナル作品の裏側を具に観察したりできないままになってしまった。それに、オリジナル作品をこじ開けたりする危険さや上司の許可などという問題もあって容易にできず、このシールを研究する機会を逸してしまった。
が、この朱文方印型のシールは、おそらく良三氏が言う「印刷したレッテル」のことではないかと今は考えている。
この(おそらくは印刷された)印章シールにAの何番とかCの何番とか、墨などによる手書きの番号が書かれている。ちなみに、まだ、あくまで類推の段階だが、Aというのは油彩画のようで、Cはスケッチや素描の類に多く見られるようである。すると、Bというのは水彩やパステル画の類だろうかとも推測される。しかし、このシールは、もちろん作品のみでなく、残された本などにも貼ってあり、はっきり読み取れないが、EかFの3となっている本を見たこともある。
ただ、注意すべきことは、仮に作品にこのシールが貼ってあったとしても、これは、直ちに彝が描いた真作であることを証明するものではない、ということである。
そのシール自体が偽造されたものでない限り、それは、彝の画室の所蔵品であることを取り敢えず確定しておこうとするものだ。
しかもこのシールがすべて印刷されたものなら、未使用の余分なものが生じていた可能性も考えられるので、それが適切に処分されなかったような場合は、後々に誤った用いられ方がされた可能性も排除しきれないのである。
さらに、彝の画室には、彼に作品を見てもらおうと、他の画家たちが置いていった作品もあったかもしれないのである。
よって、このシールのある作品は、彝の真作ではあっても、死に至るまであまり人目を引かず、生前に人手に渡らなかった作品に貼られたものとも言えるし、彝の真作以外の模倣作品などにも、間違って貼られたことなども考えられる。当然、スケッチ類などには、数多く貼られた可能性も推測できる。
であるから、「中村画室倶楽部所蔵」印シールだけでなく、真作であることをもっと強く保証する措置が取られている作品もある。(ちなみに、番号付きで貼付したシールの登録台帳のような重要備品は、まだ発見されていない。)すなわちシールの他に、鶴田吾郎や二人の鈴木氏らの裏書なども加えられたりしている作品がそれである。
Ⅱ.
例えばそうした作品の1点に豊田市美術館にあるドクロを描いた静物画がある。そして、これとほとんど同一のモティーフ構成ながら、その筆法などの様式的特徴がかなり異なる三重県立美術館の作品がある。
三重の作品には、古い図版が存在する。それと現在の作品を比較すると、特に古い図版に見られる作品の上部が若干切り取られ、おそらく修復も加えられたものだとわかる。しかし、三重の作品は、ドクロのある静物画の中ではもっとも速度感のある力強い筆法によって描かれている。一方、豊田市美術館の作品は、筆法が総じて弱く、緩やかで、右上方部に一筆書のように描かれている、ぶら下がった紐のような線状の形は、現在、三重にある作品の古い図版と比較しても、合致はしない。そもそもいったいこれは何を描いたものなのだろう。
出品歴を見ると、三重の作品は、以前から出品歴があるが、豊田市の作品は、あまり知られていなかったのか、日動出版の中村彝作品目録にも載っておらず、水戸、鎌倉、東京、新潟で行われた過去の彝の展覧会にも出ていなかった。(すでに豊田市所蔵後の2003年に水戸で行われた中村彝の展覧会では、出ていた。)
さらに他にも類似する構図のドクロの静物画もある。いったいこれらの作品は、相互にどのような関係にあるのだろう。その辺の解明はまだ進んでいないようだ。先に述べた絵画裏面にあるかもしれない「中村画室倶楽部所蔵」シールなどを含め、研究すべきことが多くありそうである。
Ⅲ.
彝の存命中から人手に渡って、もちろんこのようなシールなどのない、真作も多い。むしろ、油彩画などでは、シールなどのない真作に彝の優れた作品があると言えなくもないのである。
それにしても、なぜ遺品の整理に直接手押の印でなく、印刷された「レッテル」、すなわちこの印章型のシールを貼ったのだろうか。油彩画の木枠や画布の裏では手押の印が難しいというのがあるのかもしれない。だが、紙の作品にもこの印刷した方印を切り取って貼っていったのは、手間ひまかかる作業だったに違いないし、スタンプ印やエンボスなどの方がよかったのではないかとも今は思う。
だが、いずれにせよ、彝の遺品の中には、日常身の回りのものだけでなく、作品類なども予想に反して、かなり多かったのではないか、という疑問もこうして見てくると湧いてくる。
ところが、鈴木良三氏は、その著書に「ベッドの下の戸棚の中にあった板寸の油絵は全部生前に私に命じて燃してしまったので1枚も遺っていなかった」と書いている。
ただ、没後に、物置にしていた玄関に50号の「婦人像」の画布が巻かれていたのが発見され、皆で大喜びしたというエピソードを添えている。
おそらくこれは、現在はメナード美術館にある魅力的な未完の俊子像のことだろう。この作品は、あたかも成就しなかった彝の恋の「心の真実の形見」のように永遠に遺されたのかもしれない。
すなわち、これこそが彝の真の遺品なのだが、それについて論じるのは、今は控えておこう。
ただ、この作品は、今回の記事の趣旨に関連して、酒井億尋が「買い取ってしばらく所蔵していた」と良三氏が語っていることをここに記しておく。
そして、良三氏はこれに続けてこう語っている。
「その他にはスケッチブックや便箋などに描きちらしたような自画像や、エスキースなどがあったが、これも側近といった連中が、二、三人で分配した程度で、油の作品は無かった」と、油絵がなかったことを再度強調し、明言している。スケッチ類なども、側近の人たちに「分配」されてしまったと言うのである。
しかしながら、実際には、彝没後に「中村画室倶楽部所蔵」シールが貼られた作品が、年々、次々に確認されている。特にスケッチや素描の類に付されたCの番号が目につく。これらは「側近」筋から出てきたものであろうか。
また、良三氏が油絵はなかったと明言しているにもかかわらず、Aの番号も皆無ではない。
もし、Aの番号が、本記事で類推する通り、油彩画に振られたものとするなら、まだ未知の作品がかなりあることも想像される事実すらある。
印刷された「中村画室倶楽部所蔵」シールの謎は、今後、さらに深く解明されなければならない問題を多く含んでいるのである。