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美術の学芸ノート

明治以後の近代日本美術、印象派などの西洋美術についての小論。その他、独言など。

中村彝の俊子をめぐる相馬家との破局(1)

2016-03-31 22:03:08 | 中村彝
中村彝の俊子をめぐる相馬家との最大の破局は、大正3年末の大島行以前にあるのでなく、大島から彝が戻ってきた大正4年の夏に起こる。

彝の大島行を「死ぬつもり=自殺」と受け取るとそれ以前に決定的な破局があったように誤解され勝ちとなるが、そうではない。

また黒光は、静座の師岡田虎二郎に対する彝の態度を批判的に述べているが、彝が大島から帰ってきて引っ越したのは、本行寺わきの有楽館だから、大正4年の4月ごろはまだ彝は静座を断念してないことは明らかだし、4月3日の書簡でも「これから精一杯坐りぬかうと思つて居ります」と伊藤隆三郎に書いている。

大正4年の5月中旬には幼児の相馬哲子を描いているので相馬家との関係は良好とは言えないまでもまだ保たれている。

しかし8月14日の書簡では「例の事件が目下発展の真最中」と書かれている。そして「中原君がとうとう間に入って呉れる様になりました」とも書くのである。が、この時点では彝は俊子の愛を少しも疑っていないように見える文面もある。「最後の勝利は自分達に帰するに極つて居るのです」。

それが、9月6日の書簡では「吾々のラブは到底報告するに堪えない程悲惨なものとなつて終ひました」と大きく変わっている。彝は「狂人視」され、俊子は「監禁」されてしまったと同じく伊藤隆三郎に書いている。

この間の事情を黒光の方の記述から見るとこうなる。

夏休みが終わりに近づき、三保から皆…帰って来まして、家の中が急に賑やかになりました。けれども長女の俊子だけはなんとなく沈んで、元来無口な性なのが、いよいよものを言わないようになりました。
それには原因がありました。皆が三保に行っている間に、東京では彝さんから私たち夫婦あてに手紙が来ていまして、それには今まで親子の間柄のようにあったのに、急に喧嘩腰の調子で、俊子を自分に許せと、初めから終わりまで非常識の限りを書いてあるのでした。・・・
ところがある夕方、娘から「散歩に出かけましょう」と私を誘いまして・・・娘は声をひそめてこう囁くのです。
「実は今夜九時頃家出をしろと彝さんからすすめられているのですが、私はどうしてもお母さんに黙って家を出る気にはなりませんし、またそんな事が誰にも幸福ではないと思うのですけれど、彝さんは狂人のように荒っぽくなっているから、どんなことを仕出かすか知れないし、どうしたらいいでしょう。」
と、おろおろ声で打ち明けたのでございます。


その晩黒光は、夫と相談の上、俊子を桂井の家に預けたのであるが、翌朝、桂井から「昨夜たびたび何者かが石を投げたたり戸を敲いたりして悩まされた」と公衆電話で連絡がある。

こうして桂井は俊子を自分の家から二,三日、ある海辺に連れて行き静養させた。そして俊子が戻されると、次に彼女は大関女史に預けられることになった。

「一方彝さんは夫を殺すと言って長い日本刀を振り回したり、悪口雑言を書いてよこしたり、全く正気の沙汰ではありませんでした。」(相馬黒光『黙移』pp222‐225)

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中村彝と相馬家との「感情的対立」

2016-03-24 21:44:01 | 中村彝
鈴木秀枝著の『中村彝』は好著と思うが、その72頁、「激流の中に」の章末にこうある。

「彝と相馬家との感情的対立が表面化したのは、大正3年の秋、すなわち第8回文展に俊子の裸像が掲げられた以後に発して、以来急激に深まったものと思われる。
 病気にさいなまれ、その上自己の周囲が急激に冷却化してゆく中に在って、彝はついにその年の暮れに死を決して大島へと旅だった。」


大正3年の秋に中村屋との「感情的対立の表面化」が俊子像をめぐって起こり、それが「急激」に深まって、その年の12月に自殺のための大島行とはあまりに「急激」に過ぎまいか?

それに、この章末の部分は、少なくとも3、4か所字句を訂正しなければならないところがある。

まず最初は明らかな誤りである。すなわち、彝が第8回文展に出品したのは俊子の裸像ではなく着衣像だ。俊子の裸像を出品したのは、先にこのブログでも見てきたように、それ以前の同年春から夏の大正博覧会においてだった。

従って「裸像が掲げられた以後」の語句を書き改めるか、もしくはこれをそのままにするなら、「大正3年の春、大正博覧会に俊子の裸像が掲げられた以後」とすべきだ。

鈴木秀枝氏が、博覧会出品作の彝の俊子像を着衣像と勘違いして論じているのは明らかだろう。

そして後者のように手直しするなら、「急激に冷却化」したのでなく「次第に冷却化してゆく中に在って」とした方が実態に近いだろうし、これも先の当ブログで見てきたように、大島に「死ぬつもりで」行ったのは「自殺」を意味するとは必ずしも言えないから、「死を決して」ではなく「意を決して」大島へと旅立ったと字句を修正した方が正確だろうと思う。

著者は同著の64頁でもすでに勘違いしていて、

「大正3年平和博覧会の「少女」(口絵19)、同じく第8回文展3等賞の「少女」(口絵21)裸像等々・・・」

と書いているが、口絵19を見るとそれが文展出品の着衣像の作品で、口絵21は半身裸像の俊子像となっている。だから、これらの作品同定はいずれも誤りと言わざるを得ない。

この本は、彝の伝記本としては全体にバランスのとれた記述をしている好著であるが、こうしたミスも散見されるから、この点については、以下のとおり掲げ、読者の無用な混乱を避けたい。

博覧会出品の俊子像は鈴木秀枝本の口絵20

文展出品の俊子像は同じく口絵19

ちなみに鈴木秀枝氏が文展出品作としている口絵21は今日、横須賀美術館にある俊子像の少女である。

黒光と彝とのむしろ歓びでもあったはずの「心的争闘」は、遅くとも大正3年の秋までには、彝の主観においては変質して、彼にとって何らかの「屈辱」感を伴う関係となっていたことは確かだ。でなければ、彝の大島行は、やはり説明できないものとなってしまう。ただ、それが俊子の半裸の作品群制作とどの程度関連していたかは、まだ明らかではない。

※ここで取り上げた鈴木秀枝著『中村彝』は、新版である1989年2月25日版に基づき指摘したものである。



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中村彝の書簡から見た相馬俊子との恋愛(3)

2016-03-23 19:36:08 | 中村彝
大正3年3月20日から7月31日まで開かれた東京大正博覧会に彝は俊子をモデルにした裸体の「少女」と画面左下にフランス語で1911年1月15日の年記がある3年前に描いた「静物」を出品した。

前者は今日愛知県美術館蔵の作品で少女裸像と呼ばれている。上半身が裸の裸像でこの作品がかなり長い期間公開された。

16歳のミッション・スクールの生徒が裸体のモデルになっていたことで、女性校長が憤慨し、撤去を要求して受け入れられなかったらしいが、この問題に芸術に理解のあるはずの黒光はどう考えたのだろうか。

彝は公開された俊子の半身裸像をこれ1点のみならず、他にもいくつか描いているから、黒光も事前に彝がそうした作品を描いていたことはある程度承知していたと思われるが、詳細は分からない。

相馬黒光は、彝の新宿時代を「懐疑暗黒の時代」と呼んで、彝に(1)いつも「静座に対する反感と懐疑」、(2)「私の家族と他の人との関係から生ずる嫉妬」、(3)「疾病と恐怖、不安」などが見られ、「次から次へと息をつく間もなかった」としている。彝は「肉体的にも精神的にも弱者の立場にいる人」で、「悪魔の慣用的好責道具」に苛まれていたと見ているようだ。

さらに黒光は(1)については静座の師である岡田虎二郎に対する矛盾した彝の態度、(2)については俊子をめぐる早稲田の助教授桂井当之助や、碌山の従弟で商船学校の三原林一との争いなどについて語っている。

そして黒光は彝から言われた辛辣な言葉も隠そうとしないでこう書くのである。

「一体お母さんはいつでも物欲しそうな顔をしているのが嫌いだ。」
是程深刻直截に私の内面を表現しうる語はない。グイと私の心臓を抉るのである。又こうも言って私をいぢめた。
「お母さんは残忍性を持つ人だ。餌を見せびらかして人を釣り寄せる。俺のような馬鹿な奴は終ウカと乗って接近しようとする。モー駄目サ。埒が設けてあって、夫れより奥へは一歩も足を踏み入らせない。「お前たちの這入る場所ではないよ」と冷然としている。


黒光の言う彝の「新宿時代」は、残された彝の書簡も乏しい。上記も相馬黒光「新宿時代の彝さん」に拠るものである。だが、すでに俊子の裸体画が公開された後に書いている彝の手紙も全くないわけではない。

大正3年9月とされる俊子宛ての絵葉書は上諏訪鷺之湯から書いたものだが、そこには特に心理的に葛藤のあるような文面は見られない。

しかし、同年9月27日には相馬愛蔵、黒光宛の絵葉書に、秋になって寂しくなった心境を風景に重ね合わせるかのごとく短く綴っているのが気になる。

そこには<絶望、冷淡な顔、空虚、死のような冷たさ、堪えられない不安>などの言葉がやや執拗に現れているからだ。







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中村彝の書簡から見た相馬俊子との恋愛(2)

2016-03-22 20:31:40 | 中村彝
中村彝が相馬俊子を描いた最も早い時期の作品例としては「習作」がある。

これは今日メナード美術館にある「少女像」と言われている作品で、同館では大正2年の作としている。

しかし、この作品は大正2年1月発行の『現代の洋画』(No.10)にカラー図版で掲載されている作品だから、むしろその前年の大正元年(明治45年)の作品である可能性の方が高いのではないか。ちなみに彝が中村屋裏の画室に移ったのは明治44年の12月であり、遅くとも大正元年の10月までには相馬安雄(俊子の弟)を描いている。

おそらく、このころから彝は相馬家の子供たち(俊子の妹の千香、そして俊子)を次々と描き始めたのではないかと思われる。

いずれにせよメナードの「少女像」が、制作年の確認できる最も早い時期の俊子を描いた作品であり、彝はそれ以降、大正3年の文展出品の俊子像である「小女」(新宿・中村屋蔵)まで、10点以上の俊子像を描いたはずである。

(明治44年の作とされる「読書」と呼ばれる作品があるが、制作年に誤りがなければ、これは俊子をモデルにしたものではなかろう。ただし背景の植物文様は、後の幾つかの俊子像にも共通するモティーフである。
してみると、この植物文様のモティーフは、彝が中村屋に移る前から彼のお気に入りのものだったということになる。)

このように大正元年(明治45年)から大正3年にかけて彝は俊子を描いたのだが、大正3年までの残されている彝の書簡は実は少ない。
『藝術の無限感』に収録されている彝の書簡も大正4年以降のものが多い。
すなわち、彝と中村屋相馬家との間に亀裂が入り、すでに葛藤が生じていた時期以降の書簡がこの本に多く収められ、その辺りから彝の書簡を詳しく読んでいくことになる。

大正4年3月、彝が大島に来てから「百日餘になる」ころ、中村春二に出した手紙には、自然(外部)が光に満ち始めた風景と自分のいつも暗い内面とが鮮やかに対比されて、こう語られているのが印象的である。

すべてのものが解放され活気づき、・・・地からは水気をあげて若きグリーンの草を出し、山には桜桃が咲き、鳥は高音をあげ、人も牛も嬉し相に声高く歌ひながら輝く太陽の下へ、外へ、林の中へ、山の中へ出て行く様になつたのですが、・・・自分一人は何時も暗い室の中に、床の中に縛られ、幽閉され、屈辱せられて、描きたくとも、見たくとも、ジッと眼をつむつて辛抱して居なくてはならないのです。室の障子を開けると紺青の海がキラキラ輝いて居ります。大地や樹木が静かに幸福相に沈黙して、日にてり輝いて居るのです。





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中村彝の書簡から見た相馬俊子との恋愛(1)

2016-03-21 20:24:09 | 中村彝
中村彝が新宿中村屋の娘相馬俊子と恋愛関係にあったことはよく知られている。

が、この二人の関係をめぐり、彝の大島滞在(大正3年12月から翌年3月まで)以前に相馬家との破局があって、それで彼の大島行となり、大島行は自殺のためとされている解説文を時折見かけるが、これは正確ではない。

確かに相馬俊子との間にというよりも彝と相馬家との間にはすでに大島行以前に葛藤が生じていた。

とはいえ彼は大正3年12月に相馬家の幼児哲子の名付け親となっているし、大島から帰ってきてから哲子を描いてもいるのである(この子は大正4年の12月に亡くなってしまう)。

こうした関係は保たれていたから、おそらく大島行以前にはまだ決定的な破局には至っていなかったと推測される。

もっと重要な破局が訪れたのは明らかに大島行以降の大正4年の8月ごろ、彝が「あの悲惨な爆発」と言っていることが生じてからのことだろう。

もちろん大島行以前にも葛藤があったことは、彝が「一度周囲に敗北して心の安定を失つたものはこんな風に宇宙のどこへ行つても住むべき処がないのでせうか?どこへ行っても駄目なのでせうか」と大島から大正4年3月に支援者の中村春二に書いていることからも確かめ得る。

しかし彼が大島に行ったのは、「死ぬつもりで」と画友に後年洩らしたとしても、それは必ずしも「自殺するため」とか「死ぬため」とまでは言えない。

そもそも彼は大島に行くのに初めから絵具箱を携行していたし、大正4年の元旦に大島から伊藤隆三郎に出した手紙でも、伊藤からの金を受け取り、「絵は今にきつと送ってあげます」と明確にそこで絵を描いて送ることを約束しているのだ。

そして呼吸器患者に大島はよくないと承知の上で彼は行ったのだった。

だから「死ぬつもりで」とは、明確な意図があっての「自殺」のためではなく、「死を覚悟して」、「必死の思いで、病を押して」というほどの意味にも解せる。実際、彼は大島で感冒、発熱、喀血に見舞われてしまった。

それに大島での彼の実際の行動を見ても、自らの死を模索するのではなく、かえって悩める青年を救い、何とか絵を描き、彝の最も早くからの親友多湖実輝にはそこから出した絵葉書に戯言とも読める内容を書き送っている(大正4年3月19日)ほどなのである。

 向かって左に立つてるのが有名な大島の××アンコだ。・・・
(××アンコは)・・・歌にまでうたわれただけあつて中々肉惑的な顔をして居る。風邪がなおつたら三原山は兎に角として片ッ方の方だけにでも上つて置かッと思つて居たのだが病気の方が忙しくてその閑がない。




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