美術の学芸ノート

西洋美術、日本美術。特に中村彝、小川芋銭関連。真贋問題。他、呟きとメモ。

小川芋銭の短文「雪隱禪」と王陽明の詩「答人問道」

2019-06-28 02:19:27 | 小川芋銭
芋銭の「かひ屋」(『草汁漫画』41頁)に見られる思想は、『古文真宝』そのものからの引用かどうかは措くとしても、そこにも無名氏の詩として収められている張兪の詩「蚕婦」の思想と大きく重なるのは、間違いない。
芋銭はこのことを隠していないし、それどころか、この詩の一句を自分の文章にさりげなく潜り込ませて、その出典を示唆しているように見える。
 
同様に、『草汁漫画』冬の部、最後の短文「雪隱禪」に見られる思想は、王陽明の詩「答人問道」の思想と重なっている。そしてこれも同様に文中に詩句を潜り込ませてその出典を示唆しているようである。
 
「雪隱禪」で芋銭が「唯此修業玄更玄」としている修業とは、「喰ふとひる」の二柱である。これこそが、玄の玄、「玄にして更に玄なり」と言っているのだ。これは冗談のようにも見えるが本当に真面目な思想でもある。
 
『草汁漫画』の「好物図」には、○△□などで囲んだ一つの図式があるが、その△には、「喰ふて描き 描きて死す 是我宗教なり」のまさに芋銭の究極のモットーが掲げられている。
 
そして冬の部の最後には「喰ふとひる」とを玄の玄なる修業と位置づけている。
ただ芋銭の短文に用いられたこの言葉、「唯此修業玄更玄」には立派な典拠があった。それが王陽明の先の詩だ。
 
王陽明は、人の道を問うに答えるとしてこう言っている。
 
饑來喫飯倦来眠
只此修行玄更玄
説與世人渾不信
却従身外覓神仙
 
王陽明の場合、腹がすけば飯を喫し、疲れたら眠る。そこに本当の修業があるし、玄の玄なる意味がある。だが、人はそれを信じようとはしない、解らないと言っているのだ。
 
芋銭の場合は、自ら痔の病もあって、喰ふとひるとを真面目な修業と位置づけ、玄の玄なる意味をそこに見出していたようだ。
 
以上の通りであるから、芋銭のこの短文の思想は、用いられた詩句をも含め、まさに王陽明の「答人問道」を典拠としていると言ってよいだろう。
 
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6月20日と22日の呟き

2019-06-26 22:02:00 | 日々の呟き
「もろもろの 恩かがふりし ひとよかな」田辺聖子さんが色紙に書いた言葉。かがふるは、受けるの古語と。今日の読売、編集手帳より。
 
「人生を無駄にしたければ、済んだことを愚痴る、人をうらやましいと思う、人に褒めてもらいたいと思うの3つをどうぞ」と、出口治明さんが今日の読売、人生案内で紹介。また、悪い人も、ひどい人もいるのが人間社会だ、とも。
 
ハラリ『サピエンス全史』2016のキーワードは「虚構」だという。言語、貨幣、社会、信念…そして、ハラリ『ホモ デウス』では、意識を持たない知的存在が人類に取って代わる未来を描く、と。岡ノ谷一夫氏の今年1月20日の読売記事より
 
ウーテ フレーフェルト『歴史の中の感情』Emotions in Historyについて、山内志朗氏が、今年1月20日の読売で書評。「感情に関心のある人々にとって重要な指摘を数多く含んでいる。」
 
小谷喜久枝『楊花飛ぶ 原采蘋評伝』加藤徹氏が今年1月20日の読売で書評。男装の女流漢詩人と、あった。女流画家、奥原晴湖もやはり男装の、と言われた。
 
この書評読んで、中村真一郎の『頼山陽とその時代』の文庫本3冊、引っ張り出してみた。
 
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小川芋銭の「かひ屋」と『古文真宝』

2019-06-22 22:55:00 | 小川芋銭
芋銭は『古文真宝』を読んでいたのだろうか。
 
芋銭の『草汁漫画』41頁に「かひ屋」の一文がある。飼屋とは、蚕を飼うための小屋の意である。この本の春の部、その目次の題目では「蚕飼」となっている。
 
「かひ屋」の絵には、「何の日そ蠶生るる月かしら」の句が添えられているが、この句は北畠健氏の研究によると、芋銭の句でない。
 
ところで、「かひ屋」の文には、「満城綺羅者是蠶を養ふ人にあらず」と書かれている部分がある。これは、『古文真宝』に見られる蚕婦詩に対応している。
 
『古文真宝』に出てくる無名氏の詩、「蚕婦」に「遍身綺羅者 不是養蚕人 」とあるからだ。
芋銭では「満城」となっているが、これを「遍身」とすれば、全く同一の語句と言ってよい。しかも、この詩と並んで『古文真宝』には、李紳の「憫農」が見出されるが、これも芋銭は、画賛として用いている作品を残している。
 
芋銭は、先に掲げた語句に続けて、こう言っている。
「三越白木に出入り貌の都乙女は、よも蠶婦の苦労を知り給はぬなるべし」。
 
『古文真宝』の蚕婦の詩の作者は、実は、作者不詳ではなく、丹羽博之氏によれば、張兪であると今日では知られている。
そして、芋銭のこの一文は、張兪の蚕婦と同様に、綺羅者、すなわち芋銭の場合、「三越白木に出入り貌」と、蚕を養う人とを対比させているのは明白であろう。
 
芋銭の蔵書に『古文真宝』があったかどうかは、私はまだ未確認であるが、このような一文が『草汁漫画』にあることからすれば、その可能性も斟酌していいと思う。芋銭の蔵書について既にどなたかご存知なら、ご教示頂きたい。
 
(『古文真宝』には、他にも芋銭がその作品で用いている詩句があるが、張兪の「蚕婦」と同様、これらが、この書からの直接的な引用であると、私は主張するものではない。他の書からの引用であることも、もちろん考えうる。重要なことは、芋銭が張兪の「蚕婦」を明らかに知っていたということである。)
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6月11日から13日までの呟き

2019-06-19 19:58:00 | 日々の呟き
「ノーベル賞を受賞すると、全人格的に優れた人と見られる傾向が日本ではあります。…今は何が変わって社会が余裕を失ってきたのか。」#大隅良典 氏の言葉、今日の読売より
 
#長谷川櫂 氏の今日の「四季」は、#李賀 の「陳商に贈る」からだった。「長安に男児有り、二十 心 已に朽ちたり。」
 
「…口にしている言葉をまずポジティブなものにしてみてください。言葉を変えることで行動が変わり、行動が変わることで習慣が変わり、習慣が変わることで性格が変わり、性格が変わることであなたの運命が変わります」岩本光弘著『見えないからこそ見えた光』より、橋本五郎氏の引用による
 
長谷川櫂 氏の今日の四季は、玉鬘の返歌。源氏物語、蛍の巻。
 
「報告書はもうなくなった。」忖度ではなく、ご宣託というものがあるのか?
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6月9日と10日の呟き(時空間について、その他)

2019-06-11 16:55:00 | 日々の呟き
時間がなければ、空間もないし、空間がなければ、時間もない。結局、同じものではという哲学的直観は、間違ってはいないようだ。1秒は30万キロメートルと、現代の物理学の言葉で書き表わせる。時間は距離に変換できる。
 
時間と空間とを完全に分けて考えることは、もはやできない。松浦壮氏の言葉より
 
(古典物理学の世界では、空間は、われわれの常識的なイメージと変わらず、無限に広がる箱のような静止空間だ。そして時間のイメージは、出発点もなく、無限に遠い遥かな昔から、その静止空間のすべてを均質に満たして、どの地点においても完全にシンクロし、淡々と永遠に流れ行くものであった。無限の未来に向かって流れていく現在の永遠の積み重ねが時間であった。)
 
時空は哲学的カテゴリーでなく、「物理的実体」である。#松浦壮 氏の言葉より
 
NHKは天安門事件の関係者の顔や声をモザイクなしに放映した。当人の許可は当然あったのだろうが、登場者が当局の眼を気にしているとのコメントもあった。こういうドキュメンタリーが今の時代、どの国にも筒抜けなのは明らかだ。心配ないのか。
 
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