美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

『平気でうそをつく人たち』を読む(2) 私のメモ

2015-08-31 11:04:12 | 個人的なメモ
(筆者が)スケープゴーティングと呼んでいるものは「罪の転嫁」のこと。これは精神医学者が「投影」と呼んでいるメカニズムで生じる。p98

邪悪な人たちの欠陥は良心の欠如ではなく、ある種のナルシシズムである。p102

エーリッヒ・フロムが「悪性のナルシシズム」と呼んでいる病的ナルシシズムである。p103

精神的に健全な大人であれば、それが神であれ、真理であれ、愛であれ、その他の理想であれ、自分より高いものに何らかの形で屈服するものである。p103

われわれは自由を選ぶことはできない。神と善に従うか、自分の意志を超える何ものにも服従を拒否するかである。この服従の拒否こそが人間を悪に隷属させるものである。p107

   * * *

生きていくということは最良の条件においても困難かつ複雑なものである。p110

邪悪性の最も典型的な犠牲者となるのが子供である。p146

邪悪性とは自身の自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力をふるうことである。p167

彼らはその見せかけが破れ、世間や自分自身に自分がさらけ出されるのを恐れているのである。p174

他人の自我の境界をも明確に認識することが精神的健全性の特性である。p191

   * * * *

こどもが生後2年目から3年目に入ると、次第に母親はこどもに何かを期待するようになる。例えば排便のしつけなどがそれである。…
こどもは「いいこと」と「悪いこと」という言葉を覚えるようになる。いい子でいれば、またいい子でいるときだけ、いつでも完全に受け入れられるということを学ぶようになる。…愛されるためには、自分の責任において、愛されるような人間にならなければならない。pp229‐230

自分を現実に従わせることができない精神障害を「自閉症autism」と呼ぶ。p231

自閉症の人は現実の問題に無頓着になる。自分だけの世界に生きておりその世界で…p232

私が彼女(患者)から受けていた愛は決まって私の現実を無視したものである。p232

自閉症の究極の姿がナルシシズムである。ナルシシストのあるものは、マルティン・ブーバーが「我‐我関係」と呼んでいるものだけである。シャーリンが「私は先生を愛している」と信じていたことに疑いないが、しかし彼女の「愛」はすべて彼女の頭の中だけにあるものである。客観的現実としては存在していないものである。p236

私をはじめ他人が彼女との関係において経験していることは、彼女が行く先々に決まって残していくいらいらさせられる混乱と困惑だけである。p236

私は邪悪な人たちの方が普通の人よりも政治的な力を得る可能性が高いのではないかと疑っている。p255
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M.スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』を読む

2015-08-30 17:54:52 | 個人的なメモ
相当前に買っていた本だが、捨てるに忍びなく、途中から読み始めたが、最初に戻ってすべて読み遂せた。

あのSTAP細胞論文騒ぎで、私は理系の分野でも、すぐバレるような嘘を論文として世界的に発表するような人がいることに非常に驚いたが、文系の学術論文でも、もっと狡猾で腹立たしいものがある。

こちらは実にみみっちく小規模だが、人の根本アイディアを平気で盗みながら、お世話になったそのことには触れず、参考文献や引用文献にも挙げず、盗みがバレないように「コピペ」などもせず、ただ事例を取り替えるなどして、水増ししたものを自分の業績としているような論文である。

例のSTAP女性博士は、その意味で、どちらかと言えば素直な?乾いた?わが国の一流新聞にも大賛辞を呈させたほどの、何だかあっけらかんとした大きな嘘であった。

女性博士は、幼稚と言えば幼稚なのだが、嘘の性質としてはあまり上手でない、つまり狡猾とは言えないものかもしれぬ。

これに対して文系論文や芸術表現でのアイディア盗用には、ひねくれた、ジメジメした、みみっちいものが多いと私はやや主観的ながら思っている。

なにせ学問や芸術分野の性質もあるのだが、文系の論文や芸術分野では何が新知見で、何が新しいオリジナリティなのか曖昧な場合があるし、書き方もダラダラ非常に長かったりして、あるいは逆にあまりにシンプルだったりして、なかなか狡猾で尻尾を出さないのである。

さて、ペックの本だが、幾つか印象に残ったところがあるので、忘れないよう抜粋しておく。

私は犯罪者と呼ばれている受刑者たちが…邪悪な人間だと意識したことはほとんどない。…彼らの破壊性には、どちらかと言えば行き当たりばったりなものがある。…彼らの悪にはどこか開けっぴろげなところがある。…自分たちが捕まったのは、自分たちが「正直な犯罪者」だからにすぎない…真の悪人というのは刑務所などには入らない。…私の信じるところでは、彼らの言うことはおおむね的を得ている。pp.95‐96

刑務所に入っている人たちは、なんらかのかたちで精神科医による標準的な診断を受けるのが普通である。彼らに下される診断はさまざまで、…狂気、衝動性、攻撃性、あるいは良心の欠如といったものがそれである。しかし私が問題にしている…人たちは、この種の明白な欠陥を持っておらず、…p.96

自己嫌悪の欠如、自分自身に対する不快感の欠如が、私が邪悪と呼んでいるもの、すなわち他人をスケープゴートにする行動の根源にある中核的罪であると考えられる… p.99

良心もしくは「超自我」をまったく欠いているように思われる人間は…罪の意識を欠いているがために、ただ犯罪を犯すというだけでなく、ある種の無謀さをもって犯罪を犯すことが多い。p.99

虚偽とは、実際には、他人をあざむくよりも自分自身をあざむくことである。…われわれがうそをつくのは、正しくないと自分で気づいている何ごとかを隠すためにほかならない。うそをつくという行為の前に、なんらかの良心が基本的なかたちで介在するのである。何かを隠す必要を感じなければ、隠しだてなどする必要はない。pp.100‐101 
(続く)
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芋銭の謎の書?

2015-08-27 18:26:29 | 小川芋銭
愛知県美術館に芋銭の「馬字」と題された墨蹟がある。

同館の上のリンク先からご覧頂けるように6文字が書いてある。
同館におけるその作品の基本情報では、右から3番目の文字を「馬」、4番目の文字を「影」と読んでいる。

しかし4番目の文字は「影」でなく、これも「馬」だろう。
そして、5番目の文字も、6番目の文字も、これらは全部「馬」に違いない。

だが最初の2文字が解らない。

最初の文字は「縛」、2番目の文字は「肚」のような文字に見える?だが意味が通じない。

最初の文字を「轉」、次の文字を「訛」とも読んでみたが、「馬」の字をいろいろな形に転訛するという意味なのか。これもあまり釈然としない。

この2文字どう読めば、4つの馬の字に自然に意味が繋がるのだろう?

「駟」という字がある。

「駟も舌に及ばず」

「駟馬を追う能 (あた) わず」

「駟の隙を過ぐるが如し」

こうした文字や言葉があるが、まだ、何のヒントもつかめない。

これまでに分かったことは様々な馬の字が4つ書いてあるということ。

どなたか、この書の読みと意味についてコメント頂けないだろうか。

あるいは、その後の研究により、所蔵館でこの作品の読みと意味が分かったということもあろう。
であるなら、同館のHPなどで新しい情報を提供して頂きたい。

なお、この作品の関房印は「草木欣欣」、落款印は「無用」である。
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この画賛、何と読む

2015-08-23 12:00:28 | 小川芋銭
愛知県美術館に小川芋銭の作とされる「紅葉一樹」(制作年不詳)という作品がある。
その画賛は同館発行の展覧会図録によれば、こう書いてある。

「峰夕日影紅葉一樹明る」


一方、昭和9年12月に名古屋で開かれた芋銭の小品展にこれと大いに関連があると思われる画賛を持つ扇面形式の作品が出品された。

その画賛は、小川芋銭研究センターおよび『小川芋銭全作品集 本絵編』(696番)では、次のように読まれている。

「峰々に影して紅葉一樹照る」

この画賛で、「峰々に影して」の「影して」というのは、私にはちょっと耳慣れない言葉だが、そのように書いてある。

さて、二つの作品における画賛の文字を比べてみると、愛知県美術館で読んでいる「紅葉一樹明る」という文字の崩しは、外見上(あくまで外見上だが)昭和9年12月、名古屋での芋銭小品展に出品された扇面形式の作品の画賛と似ている。

しかし、「明る」という終止形は変だし、「照る山紅葉」という言葉があることからも想像できるように、ここでは「照る」と読むほうが妥当だろう。

私にとって次なる疑問は、「峰夕日影」の文字列である。

これは「峰の夕 日影の紅葉 一樹照る」と読んでいけばよいのだろうか。それとも別な読み方があるのか?分からない。(夕日影という言葉もあり、そう読むのかもしれない。2019年7月記す)

それにしても、なぜ「峰々に影して」が「峰夕日影」に変形したのだろう。

あるいはその逆もあり得るかもしれないが、その変形の理由は何なのだろう。





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奥原晴湖の「富貴飛燕」と「芙蓉翡翠」(茨城県近代美術館蔵)

2015-08-20 12:26:45 | 日本美術
奥原晴湖(天保8年~大正2年)の「富貴飛燕」と「芙蓉翡翠」は対幅の作品である。

作品の題名も両方とも<ふ>と<ひ>の2字で韻を踏んでおり、これまた対のようになっている。

「富貴飛燕」における富貴とは牡丹のことであるが、画賛の詩では「花柳満江南」とあっても、牡丹を意味する言葉は直接には出てこない。
しかし、燕の鳴き声は、暖かな春靄がかかった村の中に聴覚を刺激するものとして登場しており、画賛の中でも印象深い。

花柳満江南
江村暖靄含
茅堂新燕子
終日話喃ヽ


一方「芙蓉翡翠」では、芙蓉と題された詩がそのまま賛となってこの花が称えられているが、鳥の名前である翡翠は出てこない。

十里豈辞遠
芙蓉紅映池
村荘聯幾榻
秋半正佳時


この作品の中で絵の主題と画賛である詩の内容との関係はこのようなものであって、その内容が相反するということはないが、完全に一致しているというようなものでもない。

また「富貴飛燕」の作品名では、牡丹と燕しか示されていないが、この作品では、誰の目にも明らかなように、燕は富貴ではない白い花の周りを飛んでいるのであるから、この花を無視してはならない。

では、その白い花は何だろうか。

それは「玉堂富貴」という言葉があるが、そこにヒントが隠されている。
玉堂の玉とは玉蘭の玉であり、それは白木蘭(白木蓮)を意味する。つまりその白い花とは白モクレンに他ならない。

その何よりも良い図像上の証拠に、晴湖同年の作で「玉堂飛燕図」という作品がある。
すなわちこの作品では、玉堂の玉である白モクレンと、玉堂の堂である海棠が白モクレンの下方に描かれており、燕は「富貴飛燕」と同じく白モクレンの周りを飛んでいるのである。

そして「玉堂飛燕」にも「富貴飛燕」と全く同じ五言絶句が画賛となっている。
つまり、画賛は必ずしも一つの作品(の精神に)だけ不即不離の関係にあるというような窮屈なものである必要もないのである。

因みに、晴湖は明治12年には「玉棠冨貴図」を描いており、ここには3つの花々がすべて描かれ、艶を競っている。その上、ここでは、晴湖の特徴的な富貴の蕾の描き方がよく分かり、茨城県近代美術館蔵の「富貴飛燕」の図像理解の助けにもなる。



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