美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中村彝が伊豆大島から出した毛筆書簡(紹介)

2018-05-03 19:16:01 | 中村彝
「平和で温順で謙遜な大島は全く自分に適して居るがそれでも未だ未だ自分はほんとは幸福にはなり得ない。すべてが可なり自由には行ってる だが虚偽からも差別からも離れて可なり純一にはいってるのだが 相変らず喀血があり発熱があり神経の錯誤がある自分は、何んと言っても生活上の安定と満足がない、芸術に於ても恋愛に於てもその熱情の(実際的)表現に際し、物力の無能に供ふ不安と苦しみと、・・・時としては屈辱を感ぜざるを得ない。然し永く永くかうした孤独な島で静かな自由な生活を続けたら必然的にあるべき健康の回復によってかかる不安からも救はれ得るだらうとは思って居るのだが。それでも今は、それを確信するだけの自信はない。然したとへここに於て自分の幸福が得られなくても最早自分はとても東京へ帰って東京へ住む気にはなれなくなって了った。敗残者のよりあつまりであるやうな島国には死にかかりの貧乏人も平和を与へる得る様な所がある。来月下旬になったら一旦東京へ帰って、ここなり小笠原なりへ永住の計画を立て様と思って居る。帰る時には君にも知らせるからそしたら是非上京して舎(とま)ってくれ。種々君にも聞いて貰ひ度い事があるんだから是非来て呉れ。
前にも言った様に体の具合がよくないので絵のお土産は余り出来ないがそれでも二三の面白いパステルの風景画(これは君に送らうかと思ったのだが途中で飛んで了ふ憂があったから止しにした)と椿の老木を描いた二十五号の風景が二枚出来かかってて居る
君を喜ばせ得るかどうか分らないがこの椿の絵は可なり多くの期待を以て努力をして居る。
桃色の三原山を背景にして、強烈なる島風にふきさらされながら頑強に悲壮に寧ろ崇厳に立って居る数百年も立って居ると言ふ中ば枯れかったこの椿の姿には、寺院××から受ける様な宗教的な厳粛な強みがあって実にいいのだ、色はこの島の冬期の特色にして灰色調だがそれが又馬鹿にいい感じを与える、風の迫害をうけて表面が灰色になってては居るが中から争はれない奴等の活力たるエメラルドグリーンとビリチャンとカランスが血の様に底の方からにぢみ出して居るのがよく分る 発熱と喀血があるので何よりも腹立たしい。天気のいい日は中々そうあるものではないから天気のいい時にどんどんはかどる必要があるのだがこの熱と血との為めにどんなに妨害されたか知れやしない。
手紙をくれ、もっと書き度いが今はよします」

【※文中の××(=「健康」)はおそらく彝の書き間違いで、本当は「建築」と書こうとしたのだろう。】

上記の書簡は、茨城県近代美術館にある彝のある毛筆書簡を、多少文法的なひっかかりを感じつつ、そのまま読んでみたものだ。

ただし、漢字の旧字体は、ブログ執筆者が入力し易い字体に改めている。

この書簡は誤って大正5年8月8日付の伊藤隆三郎宛の封筒に入っていた。

なので同館でこの手紙があるように編集されていることがあるが、実際には8月8日の手紙はない。

この封筒には「(此文屏風ニ張ル)書翰集P.255」と朱書きが認められる。

上記の毛筆書簡は大正4年2月ごろに書かれたものと思われる。『藝術の無限感』新装版、未収録。
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中村彝、伊豆大島からの手紙と葉書

2018-05-03 17:08:57 | 中村彝

昨日、茨城県近代美術館に行き、楽しいひと時を過ごした。

「美術館へのおくりもの」というタイトルの展覧会で、かつて私もこんなタイトルの展覧会が開かれたらいいなと思っていたので、興味深く拝見した。

お目当ては、小さな作品、初めて見る彝の伊原元治の肖像画だったが、これについては、後日またこのブログに書いてみたい。

今ここに記しておきたいのは、この展覧会に展示されていた、彝が大島から出したある葉書に関連してである。

かなり以前に書いたものだが、どこにも発表する機会がなくて私のPCに埋もれていたもの。

以下がそれである。

   ***

「中村彝 大島からの書簡と葉書」

『茨城県近代美術館所蔵作品選 中村彝とその周辺』の「資料目録」に彝が白河の伊藤隆三郎に出した大正5年8月8日の書簡があることになっているが、あれは封筒だけで、中身は他日のものだ。だから同館に8月8日の手紙はない。

(ちなみに彝の大正5年8月8日の手紙というのは、同館所蔵の「裸体」のモデルであるお島について、「ヴァイタルフォースが強くて」と述べているよく引用される手紙である。この内容の手紙が茨城県近代美術館にあることになっているが、実はない。どうもそれは、おそらく伊藤家の「屏風に張」られてしまったらしい。扁額でなく、屏風仕立にしたのだろうか。そのように伊藤氏本人か誰かがこの手紙の表面に朱書きしているのだ。)

この封筒に入っている中身を読んでみると、彝が大島滞在中に書いたものと知られるから、この中身は前年のものと思われる。

「来月下旬になったら一旦東京へ帰って、ここなり、小笠原なりへ永住の計画を立て様と思って居る」とあるので、この手紙は、大正4年2月ごろに書かれたものと推測される。『藝術の無限感』の「新装普及版」(平成元年二月刊)には載っていないものだ。

作品については「二三の面白いパステルの風景画」と「椿の老木を描いた二十五号の風景」に触れている。

椿の絵については、「桃色の三原山を背景として、強烈なる島風にふきさらされながら頑強に悲壮に寧ろ崇厳に立って居る、数百年も立って居ると言う中ば枯れかかったこの椿の姿には、寺院××から受けるような宗教的な厳粛な強みがあって実にいいのだ。色はこの島の冬期の特色にして灰色調だが それが又馬鹿にいい感じを与える、風の迫害をうけて表面が灰色になってては居るが中から争はれない奴等の活力たるエメラルドグリーンとビリヂャンとガランスが血の様に底の方からにぢみ出して居るのがよく分る」とある。[文中の××はおそらく彝の書き間違いで、本当は<建築>と書こうとしたのだろう。]

この説明は、現在残されている複数の大島風景の作品の中では、東京国立近代美術館蔵のそれを想起させる。

それは、ほぼ方形でやや小さ目のサイズだが、「桃色の三原山を背景」に強風にさらされた椿の老木を描いていることは確かであり、しかも、セザンヌ風の斜めに走る短い≪構築的な筆触≫を見せており、「頑強・悲壮・崇厳・厳粛」の形容語にも合致する。


さて、もう1点は、絵葉書(多湖実輝宛3月19日消印)であるが、これは、寄贈された彝所有のレコード・ジャケットの中に紛れ込んでいたもので、寄贈された時点ではなぜか誰にも気づかれていなかったものである。

「向って左に立っているのが有名な大島の××アンコだ。大島へ来て三原山と××のお腹に上がらぬものはないと歌にまでうたわれただけあって中々肉感的な顔をして居る。風邪がなをったら三原山は兎に角として片っ方の方だけにでも上がって置か、と思って居たのだが病気の方が忙しくてその閑がない。大島は確に吾々呼吸器病者にはよくない様だ。風がひどくて気温の変化が激しいから(一日の中に二十五度も高下する)空気や情調がいくらよくっても堪らない。こん度帰ったら小笠原の方へ出掛け様かと思ってるんだが、どんなものだらう?夏場は暑いかしら、経済はどんなものかしら。少し調べて置いてくれ。今月末には必ず帰る。帰ったらすぐ御訪ねする」

この絵葉書、××の部分は個人の名称なので、この稿では伏せ字としておく。この葉書も『藝術の無限感』未収録なので、ここに書きとめて紹介しておく。

彝が深刻な思いを抱いて大島に来たのは事実だが、決して自殺などを目的に来たのではないことはこうした葉書などからも跡付けられる。

大正4年の大島後、結局、彝は、大島にも小笠原にも移住することはなかった。

俊子がいる相馬家との関係は、大正4年8,9月頃を頂点に最大の破局を迎える。

その後も大正5年7月頃まで、俊子への想い、心の動揺は続き、それらは、主に洲崎義郎宛の多数の書簡に詳細に告白されている。

その洲崎の肖像画は大正8年になって描かれた。


    ***

以上が私のPCに埋もれていた内容(多少編集した)である。

 

・上記の彝が描いた洲崎の肖像画は、レンブラントが友人ヤン・シックスを描いた肖像と同様、マントを着て、片方だけ手袋をしている。

・西洋の肖像画では片方だけ手袋しているのは時に見かけるが、洲崎はこのことを単に未完成と見ていたようであり、その類似性に最後まで気づかなかった。が、これは私には単なる偶然による類似とは思えない。

・しかし、一方、彝は人物像の手の表現にかなり手こずることがあるのもまた事実だった。

・そのことは、幾つかの俊子像や大正5年に描いた田中館博士の肖像などにも見られ、今回初めて見た「伊原元治氏像」にも関連してくる問題だった。

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