伊原元治は、今日、W.フォン・キューゲルゲンの『一老人の幼時の追憶』の翻訳者の一人として知られているが、この翻訳本をめぐっては、彝が描いた俊子像を、その住まいをも訪ねて見たことがある矢代幸雄とも関連がある。
画才もあった矢代は、伊原らが翻訳した『生ひ立ちの記』(改題前の上掲書のこと。大正3年刊)の蔵書票のデザインをしていたのだ。
そのことは10年ほど前に亡くなった気谷誠氏のブログ、「ビブリオテカ グラフィカ」によって私は知った。
すなわち、伊原ら4人の翻訳者は明治44年の第一高等学校卒業記念にこの本を出版したが、『生ひ立の記』の表紙裏面の見返しに矢代幸雄デザインの蔵書票が貼られていたのだという。
それは本の購入後に読者によって貼られた蔵書票でなく、当初から本のデザインとして貼られていたものという。
こうしてみると、大正時代初期における彝と矢代との繋がりは以前からよく知られていたところだが、さらに画家W.フォン・キューゲルゲンの翻訳本を通して、伊原を加えたこの3人は、互いにかなり深い繋がりがあったことが想像され、たいへんに興味深い。
伊原は彝との会話で、美術史家となる矢代の名を出したり、翻訳本について熱心に語ったのではないかと想像される。彝は当然この本の内容もよく知っていたのではないかと思う。
なお、上記に関連した故・気谷氏のブログについては「偉大なる暗闇・岩元禎に捧げられた教養書の先駆」なども参照されたい。
画才もあった矢代は、伊原らが翻訳した『生ひ立ちの記』(改題前の上掲書のこと。大正3年刊)の蔵書票のデザインをしていたのだ。
そのことは10年ほど前に亡くなった気谷誠氏のブログ、「ビブリオテカ グラフィカ」によって私は知った。
すなわち、伊原ら4人の翻訳者は明治44年の第一高等学校卒業記念にこの本を出版したが、『生ひ立の記』の表紙裏面の見返しに矢代幸雄デザインの蔵書票が貼られていたのだという。
それは本の購入後に読者によって貼られた蔵書票でなく、当初から本のデザインとして貼られていたものという。
こうしてみると、大正時代初期における彝と矢代との繋がりは以前からよく知られていたところだが、さらに画家W.フォン・キューゲルゲンの翻訳本を通して、伊原を加えたこの3人は、互いにかなり深い繋がりがあったことが想像され、たいへんに興味深い。
伊原は彝との会話で、美術史家となる矢代の名を出したり、翻訳本について熱心に語ったのではないかと想像される。彝は当然この本の内容もよく知っていたのではないかと思う。
なお、上記に関連した故・気谷氏のブログについては「偉大なる暗闇・岩元禎に捧げられた教養書の先駆」なども参照されたい。