美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中村彝の「伊原元治氏像」(2)

2018-05-05 21:42:20 | 中村彝
画面左上に1920、右上にT.NAKAMURAと読める。

様式的には彝の大正5年の田中館博士の肖像から大正9年のエロシェンコの肖像などに至るまでの特徴が随所に見られる、小品ではあるが、優品である。

この作品について彝自身は大正9年1月21日の弥生宛て書簡でこう述べている。

去年の秋から気分のいい時を見計らっては時々筆を重ねながら、やっと伊原君の肖像らしいものができあがって居ります。口から顎にかけて未だ温かみが充分でないし、それに思はしくない處が方々にあるので、もっともっと深く似せてからと思って、実は今日まで態(わざ)と取って置いたのですが、この元日以来床につききりになって終って、・・・兎に角一度お送りして見ることにしました。左の手にペンを持たした事なども随分気になりますが、あの姿勢ではどうしてもああする方が自然なので、わざとさうしたのですが、変でせうか。しかし猶その他にお気づきになったことがあったら御遠慮なくさう仰って下さいませんか。僕はこの肖像が少しでも余計自然になって、少しでも余計に伊原君に似れば似る程懐しく嬉しいのですから、修正することは何とも思ひません。

この肖像画は、この手紙が送られた後、修正されることなくそのまま弥生の許にあったのだろう。

伊原が左利きだったのかどうか分からないが、羽ペンは左手に持たされたまま、西洋の伝統で言えば思考のポーズに近い形で仕上げられた。

思考のポーズに近い形は、キューゲルゲンのドイツ語文献翻訳者となった伊原に相応しいものであるには違いない。

書簡の文脈から判断すると、この作品は写真から描かれたが、すべてが写真そのままなのではなく、羽ペンを持たせた部分など、彝の想像力が加わっていることが推測される。

彝が弥生に写真を求めたのは、写真を眺めることによって、様々な伊原の生き生きとした本来の姿を深く思い出すためであったようだ。それをもとに彝は、弥生にもできるだけ伊原が現存するような効果を肖像画によって与えたかったのである。だから「似ている」ことはあくまでも大切だった。

先の引用で「似る」とはそういう意味である。
決して写真そのものに似せることを目的にしたのではない。




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5月4日(金)のつぶやき

2018-05-05 04:00:31 | 日々の呟き
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