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みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

レヴィ・ストロース「野生の思考」と国体

2017年01月27日 | 俳句日記

 カーテンを開けて、冬枯れた立ち木の梢が揺れていない日ほど嬉しいものはありません。

昨日と同じように晴れました。外気は6度、このごろの天候を思うと随分温かく感じます。

 

 所用のために出かけました。

ん・・・!幽かに春の匂いがします。立春まであと一週間、旧暦で言えば今日が元旦です。

春の匂いと共に新年を迎えるのが、日本人にはお似合いのようです。

 

 トランプ大統領にならって、ジャパン・ファーストで旧暦に戻しましょう。

ここだけは中国に倣ってもよいと思います。

 なに、外交上・貿易上の日付は、キリスト紀元でいけば良いのですから。

国際法上の問題は無いはずです。協定はありますが、万里の長城よりましです。

 

 内需拡大、しかも全国津々浦々にまでカレンダー、手帳、PCソフトの変更、公文書等

様々な消費が生まれると思いますよ。

ひょっとしたらGDPを1パーセント位はUP出来るかもしれません。

 

 インバウンド戦略にも有効だと思いますけどね。

 なにせキリスト教圏の人は、ノエルからニューイヤーまでが忙しすぎて、日本への観光

旅行が出来ずらいですよね。

 

 中国の春節など興味のない外国人でも、日本の正月は見たいと思っているはずですよ。

なにせ、今まで無理やり新暦に合わせていた新春の伝統行事が一斉に元に戻るのです。

日本の伝統や文化・風習に興味を持つ熱心な観光客にとっては、長期に滞在さえすれば

それを一挙に味わえるという寸法です。

 

 しかも、日本という国は世界に例がないぐらいに交通機関が発達しています。

あっという間に地方まで回れるはずです。

 地方の方は、正月ですからなにも特別な準備をせずとも外国人を歳の神ぐらいに思って

餅をついて迎えればよいのです。はい、これでまたGDPが1%伸びました。

 

 社会人類学者のレヴィ・ストロース先生は、

「日本という国は、野生の思考と近代文明が見事に融合された稀有な国だ」と評されました。

 私が、長々と縄文からの歴史を書いていたのは、この「野生の思考」がどうして日本人の

DNAに書き込まれたかをお知らせしたかったのです。寸足らずですみません。

 

 それは日本の地政学的に恵まれた環境と、数千年かけて多人種が稲作文化を共有して

混血していったというところにあります。言葉や考え方が違う人達がゆっくりとが良いのです。

 米国は今それをやっていますが、独占金融資本主義の下でやっていますから、共に創る

という建国の理念を忘れていました。トランプさんはそれを戻そうというわけです。

 

 「野生の思考」とは概念を組み立ててものを作り出す思考ではなくて、一見関係のない

自然にそこにあるものから目的に即した新たな構造を創り出す思考です。

 つまり、ありあわせの材料から入り用のものを作る器用な人の考え方ということです。

なにも物質だけとは限りません。良いものは良いものとして時代に合ったあらゆる考え方を

取り入れるのです。それもゆっくりと。

 

 「日本はそのことを見事に成し遂げている」と、先生はおっしゃったのです。

それが日本の国体の精華なのですが、明治から急ぎ過ぎて息がつまっています。

 

 ですから日本も本来の歩みに戻りましょう。暦を変えるだけで善いのです。

旧暦を新たに採用することで何より良いことは、四季の移ろいと祭りなどの日常の生活実感が

シンクロするということです。

 そうなれば、日本の気候風土と伝統的社会のしくみの素晴らしが日本人自体に自覚されて

安寧な幸福感が増してくると思います。

 GDPも上がって、デフレから一挙に脱出できますよ。さあ運動を起こしましょう。

 

      < 春匂う ファーストの風 東より >  放浪子

 

一月二十七日(金) 晴れ

       所用のため風呂に入り出かける。

       ために川へは行かず、アイ君ゴメンナサイ。

 

 

 

 

 

 

 

 


ご譲位問題(Ⅲ)

2017年01月26日 | 俳句日記

 晴れ渡るとはいきませんが、日差しが気持のよい朝でした。なにより風が無いので有難い。

ウキウキと川へ出かけます。餌を撒きました、鳥が来ます。

彼らの姿で詩が出来ました。小学校4年生くらいの詩です。

    キチが来た。ツグミは二羽でやって来た。

    アイもそばまでやって来た。

    わたしの心を食べている。

    美味しそうに食べている。

    心はそれで満ちてくる。

    彼らのおなかも満ちてくる。

    みんなみんな満ちてくる。      放浪子

 

 キチとはセキレイに付けたあだ名です。キチキチと飛ぶからです。

 

 さて、国体論ですが、国体と政体の違いは判りますよね。

国体は、その国のお国柄です。歴史的に認知されたその国の品格みたいなものです。

 

 政体は、政治体制です。連邦議会制だとか、立憲君主制だとか、共産党独裁制だとかです。

歴史的に言えば、君主・貴族・民主に分類されます。近代では立憲・専制に分けられます。

それに、国是とする〇〇主義が組み合わされますからややこしくなりますね。

 

 日本や英国は立憲君民制だといえます。憲法で定められた象徴とはそういうことです。

英国は、専制君主制から立憲君主制となり、今は君民政治がおこなわれているのです。

日本は、昔から君民制でした。明治の帝国憲法のもとだけが立憲君主制だったのです。

 

 政体は時代によって変わりますが、国体がころころ変わると不都合が生じます。

中国には国体がありません。何故かというと回天思想の国だからです。革命思想です。

長いあいだ異民族支配を受けていたせいかもしれませんね。

 

なぜ君民制なのかは明日からお知らせします。

 

    < 軒端より 玉水しとどの つららかな >  放浪子

 

一月二十六日(木) 晴れ午後小雪

          寒がゆるんだ。

          アイが元気で良かった。

          鳥と遊ぶのは嬉しい。

 


ご譲位問題Ⅱ

2017年01月26日 | 俳句日記

 昨日は一日零下の世界でした。隣の軒先のつららは長いもので50センチはあります。

まだ融けてはいません。この分だと明日の朝はさらに伸びているかもしれないですね。

 そんな日でしたが、午前9時過ぎに一旦雪が降りやみましたので三日分の餌を以って

川へ急ぎました。心の中は「アイ待ってろよーッ!、今行くぞ~」でした。

 

 さて、昨日の続きです。ウザイでしょうがしばらく付き合って下さい。

稲作の起源年代から類推して、南方からの伝来だろうと言いましたよね。

 加えて、もう20年以上前のことですが、NHKで中国の少数民族を取材した特番が

ありました。そのチベットの場面で可愛いお嬢さんに数を数えさせましたが「イー、アル、

サン、スー・・・」ではなくて「イチ、ニィ、サン、シィ・・・」と発音していたのに驚きました。

 

 さらに近頃ではY染色体の解明から日本人とチベット人、北方インド人等が同系列の

DNAを持つと言われ始めています。

 やはり日本人は15000年前の氷河期に、大陸から凍った日本海を渡ってきたモンゴ

ロイドとチベット等の南方系民族との混血なのでしょうか。

 

 一説によると稲作はすでに7000年前には始まっていたと言われてもいます。であれば

弥生時代のずっと前の縄文中期にはすでに混血していたのかもしれません。

 しかも、考古人類学的には縄文人と弥生人の区別はないとされましたから、皇室の

ご先祖は騎馬民族で稲作技術を持って渡来し、縄文人を攻め滅ぼして弥生人となった。

縄文人の生き残りがアイヌやクマソ、それと沖縄人であるという説は成り立ちませんね。

 

 ただ、南方人であった可能性はあります。天孫降臨の地が宮崎県ですから降臨を上陸と考えて、

神武東征の神話どうりに稲作文化を伝えながら東に進み、畿内へ入ったとすれば地理的には

つじつまが合います。でもね、年代が符合しないのですよ。稲作起源を7000年前とするならば

神武紀元が約2700年前ですから4000年ものタイムラグが生じます。

 

 困ったことになりました。ある本には4世紀ごろ弥生文化が関東に伝わると書いてあります。

これも今では怪しいものですけど、7000年説を採るならば一工夫いるようです。

 

 ではこう考えたらどうでしょう。7000年とは言わないまでも稲作はずっと前から伝わっていた。

始めは九州から始まり、この南方系と縄文人は混血しながら仮称「倭人」となり、生産力を増し

ながら西日本一帯にいくつもの「クニ」を形成するまでになった。この倭人はそれから何世紀も

かけて原住民の縄文人との交わりを続けながら、ただの血縁集落だった「ムラ」を糾合して

遂に近畿に統一王朝の都を形作った。大和朝廷の誕生である。

それがBC600年頃で、元首は神武天皇その人であった。その王朝を漢は「倭国」と呼称した。

 

 倭国はさらに2世紀かけて関東にまで稲作文化を広めた。この稲作文化の伝播による勢力の

拡大を「しろしめす」祭りごとと言い、力による「うしはく」政ごととは異なることを国是とした。

以上です。

 

 ずいぶん手前味噌な推論です。年代の符合と「倭人」の概念に無理があるかもしれませんが

我が祖国の生い立ちについてはこんなところだろうと思います。

 どだい名だたる学者先生の「古事記」「日本書紀」の解釈もまちまちですから、国民がほのぼの

となる理解が一番良いのです。明日はいよいよ国体について書きます。

 

    < ねんごろに 祈りてやまぬ 歳の神 >  放浪子

 

一月二十五日(水) 雪、晴れ、曇り、雪

          アイがまた痩せていた。気がかり。

          また灯油買う。油断大敵。 

 

 


国体論からのご譲位

2017年01月24日 | 俳句日記

 郡山の真上は、今のところは晴れています。朝から吹いていた風も幾分弱まってきました。

でも、氷点下3度、外に出る気がしません。

 ということで、今日も川へは行かずじまい。だからといってまたトランプでは飽きが来ますね。

ですので今日は別のお話にします。

 

 天皇陛下のご譲位の記事が一面に掲載されるのは憲法上当然のことでしょう。

以前にも書きましたように、祖父、曽祖父が神社の宮総代をやっていたことを除けば、

ごく一般的な家庭に育った私でも非常に興味のある事柄です。

 

 もともと歴史が好きでしたので、当然日本史は興味を持って読みました。今でも年表は常に

傍らにあります。ですので天皇についてもいくらかの勉強はしてきました。

 

 でも、国学を学んで神学論争に加わるまでの気はありませんでしたので、自分勝手にあれ

これの書物の中から書き手の論旨を拾い集め、自分なりに納得のいくイメージに組み立てて、

それを今までに経験した事柄と照らし合わせながら考え続けたのです。

大仰な言い回しになりますが、行き着いたところは実は単純なことだったのです。

 

 日本という国は諸外国の歴史に比べると、実に恵まれた生い立ちと育ちをしています。

地理的に離れ小島だったことが幸いしたのでしょうね。それも大陸から近くもなく遠いでもなく、

地政学的にみると絶妙な距離にあった。

 

 暖流と寒流が両サイドに流れてますから、おさかなちゃんがぎょぎょッ!というほどに豊富な

漁場が用意されていました。

 温帯気候に属していますから四季にめりはりがあり、温暖で広葉樹林がよく育ち、どんぐり

に総称されるさまざまな木の実が豊富に実ります。

 さらには、山岳から海までが近いので河川の流れが速く水が清涼だときている。

 

 私たちのご先祖様の縄文人は、この島で一万五千年を平和に暮らしてきたということが

考古学的に実証されてきています。食物が豊かですから争う必要がなかったということ

なのでしょう。

 このことは日本人の思惟方法(考え方のくせ)を理解するのに大変重要な要素になります。

 

 やがて、紀元前三千年頃から弥生時代にはいります。

稲作技術が半島経由で中国からもたらされたと私たちの世代は子供の頃に教えられました。

でも縄文期からすでに稲は育てられていたということがいまでは解明されています。

中国からの渡来人が殷作技術をもたらしたというのは誤りだったようです。

 

 というのも、黄河流域はコウリャン等の畑作文化でイネ文化は揚子江以南で発達したものです。

イネの栽培には年間降水量が1000ミリ以上必要ですが、大陸ではちょうど揚子江流域がその

境界にあたるのです。それより北では大規模な治水感慨でもしなければ稲作はできません。

陸稲でも同じです。つまりは、稲作技術は発展し様がないのです。

 

 弥生時代の始めの頃には、中国に統一王朝などは存在していませんでした。紀元16世紀に

最初の王朝である殷が興りますが、まだ黄河流域にへばりついた一小国であったとされています。

それ以前に十八史略に登場する先史時代の王朝は、それからすると我が国の邪馬台国位のもの

だったのかもしれません。大規模な黄土の整地や灌漑等を行う国力があったのでしょうか?

 

 周が殷の次に統一王朝をつくります。周のおしまい頃の春秋時代(前8世紀)でも揚子江以南は

まだ南蛮地域でした。いまだ周の支配が及ばない地域だったのです。同じように半島を含め広い

中国東北部は犬戎(騎馬民族)の地ですから稲作が伝わるわけがありません。

 

 ですから中国から・・・というのは誤りで、あきらかにイネは南方から黒潮に乗って偶然に

もたらされたものだったようです。

もたらした人を渡来人とするのは間違いではありませんけれどもね。

 

 ちょっと文字数が多くなりました。

でも、この譲位問題は国民にとって大切な課題です。ですから、皆様と共に考えてみたいと思います。

悪しからずこの後を明日に繰り越させていただくことをお許しください。政府もご苦労でしょうね・・・。

 

    < 抜き差しの ならぬ時代の 初閣議 >  放浪子

 

一月二十四日(火) 晴れのち雪

           早朝、零下3度、最高気温 零下1度。

           川へも行けず灯油買う。  

 

 

 

 

 

 

 

 


国体論からのご譲位

2017年01月24日 | 俳句日記

 郡山の真上は、今のところは晴れています。朝から吹いていた風も幾分弱まってきました。

でも、氷点下3度、外に出る気がしません。

 ということで、今日も川へは行かずじまい。だからといってまたトランプでは飽きが来ますね。

ですので今日は別のお話にします。

 

 天皇陛下のご譲位の記事が一面に掲載されるのは憲法上当然のことでしょう。

以前にも書きましたように、祖父、曽祖父が神社の宮総代をやっていたことを除けば、

ごく一般的な家庭に育った私でも非常に興味のある事柄です。

 

 もともと歴史が好きでしたので、当然日本史は興味を持って読みました。今でも年表は常に

傍らにあります。ですので天皇についてもいくらかの勉強はしてきました。

 

 でも、国学を学んで神学論争に加わるまでの気はありませんでしたので、自分勝手にあれ

これの書物の中から書き手の論旨を拾い集め、自分なりに納得のいくイメージに組み立てて、

それを今までに経験した事柄と照らし合わせながら考え続けたのです。

大仰な言い回しになりますが、行き着いたところは実は単純なことだったのです。

 

 日本という国は諸外国の歴史に比べると、実に恵まれた生い立ちと育ちをしています。

地理的に離れ小島だったことが幸いしたのでしょうね。それも大陸から近くもなく遠いでもなく、

地政学的にみると絶妙な距離にあった。

 

 暖流と寒流が両サイドに流れてますから、おさかなちゃんがぎょぎょッ!というほどに豊富な

漁場が用意されていました。

 温帯気候に属していますから四季にめりはりがあり、温暖で広葉樹林がよく育ち、どんぐり

に総称されるさまざまな木の実が豊富に実ります。

 さらには、山岳から海までが近いので河川の流れが速く水が清涼だときている。

 

 私たちのご先祖様の縄文人は、この島で一万五千年を平和に暮らしてきたということが

考古学的に実証されてきています。食物が豊かですから争う必要がなかったということ

なのでしょう。

 このことは日本人の思惟方法(考え方のくせ)を理解するのに大変重要な要素になります。

 

 やがて、紀元前三千年頃から弥生時代にはいります。

稲作技術が半島経由で中国からもたらされたと私たちの世代は子供の頃に教えられました。

でも縄文期からすでに稲は育てられていたということがいまでは解明されています。

中国からの渡来人が殷作技術をもたらしたというのは誤りだったようです。

 

 というのも、黄河流域はコウリャン等の畑作文化でイネ文化は揚子江以南で発達したものです。

イネの栽培には年間降水量が1000ミリ以上必要ですが、大陸ではちょうど揚子江流域がその

境界にあたるのです。それより北では大規模な治水感慨でもしなければ稲作はできません。

陸稲でも同じです。つまりは、稲作技術は発展し様がないのです。

 

 弥生時代の始めの頃には、中国に統一王朝などは存在していませんでした。紀元16世紀に

最初の王朝である殷が興りますが、まだ黄河流域にへばりついた一小国であったとされています。

それ以前に十八史略に登場する先史時代の王朝は、それからすると我が国の邪馬台国位のもの

だったのかもしれません。大規模な黄土の整地や灌漑等を行う国力があったのでしょうか?

 

 周が殷の次に統一王朝をつくります。周のおしまい頃の春秋時代(前8世紀)でも揚子江以南は

まだ南蛮地域でした。いまだ周の支配が及ばない地域だったのです。同じように半島を含め広い

中国東北部は犬戎(騎馬民族)の地ですから稲作が伝わるわけがありません。

 

 ですから中国から・・・というのは誤りで、あきらかにイネは南方から黒潮に乗って偶然に

もたらされたものだったようです。

もたらした人を渡来人とするのは間違いではありませんけれどもね。

 

 ちょっと文字数が多くなりました。

でも、この譲位問題は国民にとって大切な課題です。ですから、皆様と共に考えてみたいと思います。

悪しからずこの後を明日に繰り越させていただくことをお許しください。政府もご苦労でしょうね・・・。

 

    < 抜き差しの ならぬ時代の 初閣議 >  放浪子

 

一月二十四日(火) 晴れのち雪

           早朝、零下3度、最高気温 零下1度。

           川へも行けず灯油買う。