申命記13章2~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
マタイによる福音書7章15~20節(日本聖書協会「新共同訳」)
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
マタイ福音書5~7章は、山上の説教と呼ばれています。7章13~27節は、その最後に位置しており、その内容は私たち信仰者に対する警告となっています。私たちが使っております新共同訳聖書は、この部分を4つの段落に分けております。それに従っていうならば、今日の御言葉は、第二の警告の部分と言えます。
13~14節の「狭い門から入りなさい」という警告が、私たちがなすべきことを警告しているのに対し、「偽預言者を警戒しなさい」は、外から近づいてくる危険を警告しています。そして、それは、私たち一人ひとりに向けられた警告であると共に、教会に向けられた警告でもあるのです。
偽預言者と言われても、ピンと来ないかも知れません。預言者の偽者という意味であることは分かるのですが、そもそも預言者という存在が身近にいません。預言者そのものが良く分からないかも知れません。
預言者といいますと、未来のことを言い当てたり、奇跡を行うというイメージがあるかも知れませんが、聖書における預言者は、神の御心を人々に伝える人々です。日本語の「預言」という言葉は、「言葉を預かる」という意味ですが、それは神から言葉を預かって人々に伝えるという意味です。
新約聖書にも預言者が登場しますが、旧約聖書の方に、より多くの預言者が登場します。書名にもなっているイザヤ、エレミヤ、エゼキエル。また、エリヤやエリシャなども比較的よく知られているのではないでしょうか。
エリヤやエリシャは、数多くの奇跡を起こしたことが印象的ですが、奇跡を起こすことが本来の仕事ではありません。彼らは、当時の異教徒たちや間違った信仰を持っていた人々と対決をしたのです。しかし、彼らは自分勝手にそのような対決をしたのではありません。神の命令によって、預言者として立てられ、王や一般の人々に遣わされたのです。その目的は、エジプトから脱出させてくださった神から離れようとしている人々や間違った信仰を持っている人々に警告することでした。それはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなども同じでした。
エレミヤ書には、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」(7章2節)、「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」(7章9~11節)という言葉があります。
真の神から離れていながら、エルサレムには神殿があるから、敵から攻撃されても心配ないと主張する人々がいたのです。しかも彼らの中には、宮廷で預言者の務めを担っていた人々もいたのです。
宮廷の預言者は、王に仕える正式な預言者でした。一般の人々は、宮廷の預言者の言葉が正しいと考えていたのです。イザヤとエレミヤは祭司の務めをしていた預言者でしたが、彼らは、神がこの国を罰し、国は滅びると預言したのです。イザヤとエレミヤは不吉な言葉を広め、偽りの預言をしていると非難されました。
しかし、後に本当に国が滅んだ時、イザヤやエレミヤこそが真の預言者であったと、人々は知ったのです。宮廷の預言者たちは、国の制度の中で正式に預言者となっていましたが、その言葉は神からのものではなく、人の耳に聞こえのよい人間の言葉を語っていたのです。
さて、新約時代にも預言者がいたと申し上げましたが、彼らはどんな預言をしたのでしょうか。新約時代の預言者も神からの言葉を預かり、神の御心を伝えることが職務でした。その神の御心とは、全ての人々を救うために、神の独り子が遣わされたということです。そこで、新約時代の預言者は主イエス・キリストを宣べ伝えるようになり、キリスト教の伝道者となっていったのです。キリストを宣べ伝える事は、キリスト教会全体の使命であり、キリスト教会が預言者の働きをしていると言っても良いでしょう。
主イエスが「偽預言者を警戒しなさい。」と警告され、それがどれほど危険であるか、またどのように偽預言者を見分けるかを語られました。
偽預言者については、ヨハネの手紙一でも警告されていますので、それを見てみましょう。
「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」(Ⅰヨハネ4章1~6節)
この中で、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。」と言われていることは、特に重要です。
「イエス・キリストが肉となって来られた」というのは、神の独り子である主イエスが真の人間になられたということです。これは、いつの時代でも、多くの人々のつまずきとなりました。
当時、神を信じる人は多くいましたが、神が人間になるということを受け入れることができませんでした。人間は不完全な存在です。完全である神が、不完全な存在になることなどあり得ないことでした。神が姿を変え、人間のように見せかけるということなら受け入れることはできたでしょう。しかし、完全に人間になることなど、考えられないことでした。また、そうしなければならない理由がありません。
ところが、キリスト教会は、真の神の独り子である主イエス・キリストが、完全に人となったと信じ、宣べ伝えているのですから、当時の人々は、キリスト教会を全くの非常識であり、無知無学の輩と考えたのです。
ヨハネの手紙は、神が人間になるということは、人間の知恵によっては理解できないし、非常識にしか見えないが、しかし、これこそ神から遣わされた聖霊による真理であると宣言しているのです。
主イエス・キリストが十字架にかけられ、三日目に復活されたことも同じです。このことは、人間の常識では理解できません。十字架にかけられて死んだということだけであれば、当たり前のことであり、当時そのような死刑はしばしば行われていましたので、特別のこととは思わないでしょう。
しかし、その十字架にかけられて死んだ男が、神であるとか救い主だと言うのは、ばかばかしいかぎりでした。まして、その死んだ男が生き返ったという主張は、愚か者の戯言としか見えなかったでしょう。
使徒パウロは、人々のそのような反応について、つぎのように語っています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。・・・神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(Ⅰコリント1章18~30節)
使徒パウロは、人間の救いは、人間の知恵や力によるのではなく、ただ神の力によるのだと言っているのです。しかも、それこそが神の御計画だというのです。自分で悟ったとか、自分の努力の結果だと人間に言わせないようにと、人間には理解することができず、受け入れることもできない方法によって、人間を救おうと神が御計画なさったというのです。
そして、神の独り子が真の人間となられたこと、十字架にかかられ、復活されたことを信じ受け入れることは、神から遣わされた聖霊なる神による外にないようにされたのです。これこそ、現代の預言者であるキリスト教会と私たちキリスト者にゆだねられている神の御言葉であり、救いの言葉です。この救いの言葉を、人々に伝えていかねばなりません。それが、現代の預言者であるキリスト教会の使命なのです。
最初に、「偽預言者を警戒しなさい」は、外から近づいてくる危険を警告していると申し上げました。このような警戒は必要なことですが、また、私たち自身が偽預言者となってはならないという警告でもあることを心に留めておくべきでしょう。
主イエス・キリストとその出来事を私たち人間の知恵や経験の中で理解し判断しようとする時、私たちはいとも簡単に偽兄弟、偽預言者になってしまうのです。聖霊が与えてくださった信仰に立ち続け、聖霊によってキリストを告白し、宣べ伝えていくことが大切です。聖書を通して、礼拝を通して、聖霊は私たちにキリストの福音を語り続けています。その御言葉に心を向けていきましょう。
世の人々は必ずしも、私たちが語ることに耳を傾けないかも知れません。かつて、イザヤやエレミヤの言葉を、当時の人々が斥けたように、私たちの語る御言葉を斥けるかも知れません。しかし、それでも、私たちは人々が求める言葉、耳に聞こえのよい言葉ではなく、神が語るようにと命じられた言葉を語っていくべきです。それが現代の預言者である私たちに与えられている使命であり、責任なのです。
預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
マタイによる福音書7章15~20節(日本聖書協会「新共同訳」)
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
マタイ福音書5~7章は、山上の説教と呼ばれています。7章13~27節は、その最後に位置しており、その内容は私たち信仰者に対する警告となっています。私たちが使っております新共同訳聖書は、この部分を4つの段落に分けております。それに従っていうならば、今日の御言葉は、第二の警告の部分と言えます。
13~14節の「狭い門から入りなさい」という警告が、私たちがなすべきことを警告しているのに対し、「偽預言者を警戒しなさい」は、外から近づいてくる危険を警告しています。そして、それは、私たち一人ひとりに向けられた警告であると共に、教会に向けられた警告でもあるのです。
偽預言者と言われても、ピンと来ないかも知れません。預言者の偽者という意味であることは分かるのですが、そもそも預言者という存在が身近にいません。預言者そのものが良く分からないかも知れません。
預言者といいますと、未来のことを言い当てたり、奇跡を行うというイメージがあるかも知れませんが、聖書における預言者は、神の御心を人々に伝える人々です。日本語の「預言」という言葉は、「言葉を預かる」という意味ですが、それは神から言葉を預かって人々に伝えるという意味です。
新約聖書にも預言者が登場しますが、旧約聖書の方に、より多くの預言者が登場します。書名にもなっているイザヤ、エレミヤ、エゼキエル。また、エリヤやエリシャなども比較的よく知られているのではないでしょうか。
エリヤやエリシャは、数多くの奇跡を起こしたことが印象的ですが、奇跡を起こすことが本来の仕事ではありません。彼らは、当時の異教徒たちや間違った信仰を持っていた人々と対決をしたのです。しかし、彼らは自分勝手にそのような対決をしたのではありません。神の命令によって、預言者として立てられ、王や一般の人々に遣わされたのです。その目的は、エジプトから脱出させてくださった神から離れようとしている人々や間違った信仰を持っている人々に警告することでした。それはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなども同じでした。
エレミヤ書には、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」(7章2節)、「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」(7章9~11節)という言葉があります。
真の神から離れていながら、エルサレムには神殿があるから、敵から攻撃されても心配ないと主張する人々がいたのです。しかも彼らの中には、宮廷で預言者の務めを担っていた人々もいたのです。
宮廷の預言者は、王に仕える正式な預言者でした。一般の人々は、宮廷の預言者の言葉が正しいと考えていたのです。イザヤとエレミヤは祭司の務めをしていた預言者でしたが、彼らは、神がこの国を罰し、国は滅びると預言したのです。イザヤとエレミヤは不吉な言葉を広め、偽りの預言をしていると非難されました。
しかし、後に本当に国が滅んだ時、イザヤやエレミヤこそが真の預言者であったと、人々は知ったのです。宮廷の預言者たちは、国の制度の中で正式に預言者となっていましたが、その言葉は神からのものではなく、人の耳に聞こえのよい人間の言葉を語っていたのです。
さて、新約時代にも預言者がいたと申し上げましたが、彼らはどんな預言をしたのでしょうか。新約時代の預言者も神からの言葉を預かり、神の御心を伝えることが職務でした。その神の御心とは、全ての人々を救うために、神の独り子が遣わされたということです。そこで、新約時代の預言者は主イエス・キリストを宣べ伝えるようになり、キリスト教の伝道者となっていったのです。キリストを宣べ伝える事は、キリスト教会全体の使命であり、キリスト教会が預言者の働きをしていると言っても良いでしょう。
主イエスが「偽預言者を警戒しなさい。」と警告され、それがどれほど危険であるか、またどのように偽預言者を見分けるかを語られました。
偽預言者については、ヨハネの手紙一でも警告されていますので、それを見てみましょう。
「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」(Ⅰヨハネ4章1~6節)
この中で、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。」と言われていることは、特に重要です。
「イエス・キリストが肉となって来られた」というのは、神の独り子である主イエスが真の人間になられたということです。これは、いつの時代でも、多くの人々のつまずきとなりました。
当時、神を信じる人は多くいましたが、神が人間になるということを受け入れることができませんでした。人間は不完全な存在です。完全である神が、不完全な存在になることなどあり得ないことでした。神が姿を変え、人間のように見せかけるということなら受け入れることはできたでしょう。しかし、完全に人間になることなど、考えられないことでした。また、そうしなければならない理由がありません。
ところが、キリスト教会は、真の神の独り子である主イエス・キリストが、完全に人となったと信じ、宣べ伝えているのですから、当時の人々は、キリスト教会を全くの非常識であり、無知無学の輩と考えたのです。
ヨハネの手紙は、神が人間になるということは、人間の知恵によっては理解できないし、非常識にしか見えないが、しかし、これこそ神から遣わされた聖霊による真理であると宣言しているのです。
主イエス・キリストが十字架にかけられ、三日目に復活されたことも同じです。このことは、人間の常識では理解できません。十字架にかけられて死んだということだけであれば、当たり前のことであり、当時そのような死刑はしばしば行われていましたので、特別のこととは思わないでしょう。
しかし、その十字架にかけられて死んだ男が、神であるとか救い主だと言うのは、ばかばかしいかぎりでした。まして、その死んだ男が生き返ったという主張は、愚か者の戯言としか見えなかったでしょう。
使徒パウロは、人々のそのような反応について、つぎのように語っています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。・・・神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(Ⅰコリント1章18~30節)
使徒パウロは、人間の救いは、人間の知恵や力によるのではなく、ただ神の力によるのだと言っているのです。しかも、それこそが神の御計画だというのです。自分で悟ったとか、自分の努力の結果だと人間に言わせないようにと、人間には理解することができず、受け入れることもできない方法によって、人間を救おうと神が御計画なさったというのです。
そして、神の独り子が真の人間となられたこと、十字架にかかられ、復活されたことを信じ受け入れることは、神から遣わされた聖霊なる神による外にないようにされたのです。これこそ、現代の預言者であるキリスト教会と私たちキリスト者にゆだねられている神の御言葉であり、救いの言葉です。この救いの言葉を、人々に伝えていかねばなりません。それが、現代の預言者であるキリスト教会の使命なのです。
最初に、「偽預言者を警戒しなさい」は、外から近づいてくる危険を警告していると申し上げました。このような警戒は必要なことですが、また、私たち自身が偽預言者となってはならないという警告でもあることを心に留めておくべきでしょう。
主イエス・キリストとその出来事を私たち人間の知恵や経験の中で理解し判断しようとする時、私たちはいとも簡単に偽兄弟、偽預言者になってしまうのです。聖霊が与えてくださった信仰に立ち続け、聖霊によってキリストを告白し、宣べ伝えていくことが大切です。聖書を通して、礼拝を通して、聖霊は私たちにキリストの福音を語り続けています。その御言葉に心を向けていきましょう。
世の人々は必ずしも、私たちが語ることに耳を傾けないかも知れません。かつて、イザヤやエレミヤの言葉を、当時の人々が斥けたように、私たちの語る御言葉を斥けるかも知れません。しかし、それでも、私たちは人々が求める言葉、耳に聞こえのよい言葉ではなく、神が語るようにと命じられた言葉を語っていくべきです。それが現代の預言者である私たちに与えられている使命であり、責任なのです。