八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「初めに言葉があった」 2015年11月29日の礼拝

2016年03月25日 | 2015年度
イザヤ書9章1節(日本聖書協会「新共同訳」)

 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。


ヨハネによる福音書1章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

  教会の暦では、今日から「待降節」に入ります。クリスマスまでの約4週間をこのように呼び、クリスマスを迎える準備をする期間です。この期間は、単にクリスマスらしい飾り付けをするだけでなく、特に礼拝と祈りによって生活を整えるのです。また、千数百年前の古代教会の時代から洗礼を受けるための準備期間ともされてきました。
  待降節は英語でアドヴェントといいますが、ラテン語の「到来」を意味する言葉が語源です。英語のアドベンチャー(冒険)という言葉も、実はこの「到来」という意味のラテン語を語源としています。
  ある人が、「神が到来は、神のアドベンチャーだ」と言いました。しかし、それは無謀な冒険という意味で言っているのではありません。ある事件が起こっている。しかも、思いがけないことが我々の前に現れたという意味で言っているのです。こうして見てきますと、クリスマスの出来事そのものが「神のアドヴェント(到来)」と言って良いでしょう。

  ところで、クリスマスの出来事、すなわち主イエス・キリストの御降誕は、マタイ福音書とルカ福音書に記されており、その情景が目に浮かぶように描かれています。マルコ福音書はと言うと、御降誕の出来事については記されておらず、主イエスが伝道を開始される所から記述が始まっています。
  ヨハネ福音書はどうかと言いますと、この福音書も御降誕の様子を記していません。しかし、主イエス・キリストの到来の意味を伝えています。

  「初めに言があった。」という言葉で、この福音書は始まっています。主イエス・キリストを、「言」という象徴的な表現で言い表しているのです。同じような象徴的な表現として「光」という言葉が後で出てきますが、これも主イエス・キリストを指しています。
  「言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」
  この言葉で、主イエス・キリストが神の独り子であることを言い表しています。
  「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
  ここで、神の独り子である主イエス・キリストは天地創造に関わっておられたことを示しています。
  ヨハネ福音書は、主イエス・キリストの神性を強調し、クリスマスの出来事は天地創造の時からの神の御計画であることを告げているのです。
  マタイ福音書とルカ福音書は、主イエス・キリストが人間の赤ちゃんとしてお生まれになったことを記すことから、物語を始めました。そして、マルコ福音書を加えた三つの福音書は、成長して大人になった主イエスが伝道をされていた時、しばしば奇跡を行われたが、人々は優れた特別の人間としてしか理解していない様子を描いています。神の独り子としての栄光が隠されているのです。奇跡を起こされる主イエスを、人々は「この方こそメシアではないか」と考える時、主イエスは誰にも言ってはいけないと、口止めをなさいました。このようにして、主イエスご自身も、ご自分の神の子としての栄光を隠しておられたのです。主イエスの神の栄光は、ついに十字架と復活において示されたと告げるのです。
  このようにして、三つの福音書(以下「共観福音書」と呼びます)は「人間イエスは、実は神の独り子であった」という仕方で物語を進めていきますが、ヨハネ福音書は、初めから主イエス・キリストが神の独り子であることを示し、その神の独り子が人間となられたという仕方で、物語を進めていくのです。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が、私たちの目を地上から神の方へと向けさせていくのに対し、ヨハネは神の方から地上へと目を向けさせているのです。
  ヨハネ福音書でも主イエス・キリストがなさった奇跡を記していますが、それを神の独り子としての栄光があらわされた出来事として記しています。とは言え、主イエスが奇跡を見せびらかしていたというのではありません。共観福音書と同様、人々に対する憐れみの行為として行われていたことで、その奇跡を見た人々も、それで主イエスが神の独り子であると信じたわけではありませんでした。ただ、ヨハネ福音書は、主イエスが行われた数々の奇跡の中から七つの奇跡だけを記し、福音書を読む私たちに、ここに主イエスの神の独り子としての栄光があらわされたと告げているのです。ヨハネ福音書は、主イエスの地上での様子を伝えると言うよりも、主イエスの地上での活動の意味を伝えようとしているのです。それを一言で言うならば、神の独り子が十字架にかかって人々の罪を贖い、三日目によみがえられて永遠の命を約束してくださったということです。
  さて、ヨハネ福音書1章5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。また、1章10節には「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」とも記されています。
  ここで、人間の罪について語られています。それを「暗闇」という言葉で象徴的に表現しています。
  マタイ福音書でもルカ福音書でも、クリスマスの出来事は夜に起きたと記しています。このように、クリスマスは夜のイメージがありますが、ヨハネ福音書の「暗闇」という表現は、単に夜というのではなく、神を受け入れようとしない「人間の罪」と「罪の現実」を表しているのです。つまり、神の独り子は罪が満ちている世界にやってこられたこと、そして罪人である人間を救うため、すなわち光へと導くために来られたと、この福音書は告げているのです。
  先にも言いましたが、ヨハネ福音書はクリスマスの様子を語ってはいません。しかし、クリスマスがいったい何であったのか、神の独り子がお出でになった意味、その目的を語っているのです。そして、それは神の壮大な御計画であり、天地創造の時からそれは始まっていたと告げているのです。
  冒頭で、「神の到来は、神のアドベンチャーだ」と言った人がいると紹介しました。それは無謀な冒険という意味ではなく、思いがけない出来事が我々の前に現れたという意味だと申し上げました。確かにクリスマスの出来事は、神の天地創造以来の大きな出来事なのです。旧約聖書には、ノアの洪水やソドムの町の滅亡の物語が記され、預言者を遣わされたと記していますが、クリスマスはそれよりもはるかに重大な出来事なのです。クリスマスほどの大きな神の介入はありませんでした。その重大性を、ヨハネ福音書は強調しているのです。そして、これほどの大きな神の介入は、私たちのために起こされたのです。私たちを罪から救うために、暗闇で彷徨っている私たちを光へと導くために、神は力強く働きかけてくださったのです。そして、今も、ここで礼拝をしている私たちのために神は働いてくださっていることを悟るべきです。クリスマスは約二千年前に起きた出来事ですが、神の介入は今も私たちのために続いているのです。