八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「家は岩の上に建てなさい」 2015年11月15日の礼拝

2016年03月14日 | 2015年度
詩編118編22~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。


マタイによる福音書7章24~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

  約1年4ヶ月にわたって読んできた「山上の説教」の最後の部分になりました。
  「岩の上に家を建てる賢い人と、砂の上に家を建てる愚かな人」の譬えと言われ、よく知られている主イエスの教えの一つです。
  この譬えは、パレスチナの気候風土を背景にして語られています。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲う」というのは、パレスチナによく見られる水のない川、涸れ川とも呼ばれ、現地ではワジと呼ばれます。
  ワジは、ふだんに水が流れていませんが、雨が降ると、川に水が集まり、急流となります。
  ずいぶん前にイスラエルを旅行した時、現地のガイドが「しばらく前、ワジを走っていたバスが急流に巻き込まれ、転覆した」と、話してくれたことがありました。
  主イエスが語られた譬えは、このような自然環境を前提にしているのです。ですから、この譬えにおいて、土台が岩か砂かという地盤の強度は重要な要素ですが、家を襲う雨、洪水、強風も重要な要素となっています。
  このような災害で大きな被害を受けないために、岩の上に家を建てることが重要なのです。この「岩」は、岩山と考えた方がよいでしょう。実際、パレスチナでは、古い町の多くは、岩山に建設されました。エルサレムやベツレヘムなどもそうです。これは敵に襲われた時の防御のためと言うこともありますが、自然災害によって被害を最小限に留める意味もあったのです。

  「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」とあります。これらの言葉というのは、いわゆる山上の説教のことで、これまで主イエスが人々に語ってこられた教えと言って良いでしょう。
  これまで、山上の説教が、信仰者の生活の指針として読まれることが多く、そのため、律法であるかのように受けとめられることも多くあったようです。しかし、主イエスが語られたのは、救われるための条件としての律法ではなく、救いの中に入れられている人々のための生活の指針です。それは一言で言いますと、神を信頼して生活するようにということです。ですから、主イエスの言葉を聞いて行うというのは、神を信頼して生活をするということです。
  神を信頼して生活することにより、どのような困難や苦境にあっても、その人は倒れることはないというのです。
  主イエスの譬えは、この世での生活にはさまざまな困難や苦境があることが前提になっていると言って良いでしょう。それは、山上の説教の最初から言われていたことです。
  たとえば、「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5章10~12節)という言葉です。

  フィリポ・カイサリアという町の近くでの出来事です。
  「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』 シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』」(マタイ16章15~18節)
  主イエスがおっしゃった「この岩の上にわたしの教会を建てる」という言葉には、二つの解釈があります。一つはローマ・カトリック教会の解釈で、もう一つはプロテスタント教会の解釈です。
  ローマ・カトリックでは、この「岩」というのは、シモン・ペトロのことだと解釈しています。ペトロというのは主イエスが付けたあだ名で、「岩」という意味です。彼の本名はシモンですが、これは旧約時代からの良くある名前です。聖書の中にもこの名の人が多く登場します。主イエスの弟子にも「熱心党のシモン」と呼ばれた人がいます。ですから、他のシモンと区別するため、一人ひとりひとりにあだ名を付けられたのです。そして、主イエスは、最初に弟子となったシモンにペトロ(岩)という名前をつけられました。
  そこで、「岩の上に教会を建てる」というのは、ペトロという使徒の上に教会を建てるという意味だと、ローマ・カトリック教会では考えられているのです。ペトロは、ローマの教会の初代の監督であり、代々のローマ教皇は使徒ペトロの使徒権を継承しているというのが、彼らの信仰です。
  それに対し、プロテスタントの諸教会は、主イエスがおっしゃった「岩」とは、ペトロという人間ではなく、彼が言った「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白のことだと考えています。
  とは言いましても、信仰を告白するという人間の行為の上に教会が建つということではありません。その告白の内容である「生ける神の子キリスト(メシア)」こそ、教会が建っている岩なのです。
  使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中で、次のように語っています。
  「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(Ⅰコリント3章10~11節)
  キリスト以外を土台として教会を建てることはできません。私たちが「教会とは何か」ということを考える時、これらの言葉はいつも重要です。
  詩編118編22~23節に、次のような言葉があります。
  「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」
  隅の親石というのは、建物を建てる時の重要な石で、これの善し悪しはその建物に大きな影響を与えると言われます。「家を建てる者」とは、建築の専門家です。その専門家が「これは役に立たない」と言って捨てた石が、隅の親石という重要な石となったというのです。そして、それは神の働きに他ならないと言うのです。
  新約聖書の中でもこの言葉が良く引用されますが、これは主イエス・キリストを指していると説明されます。
  律法学者や祭司たちという専門家たちが、神を冒涜しているとして、主イエスを裁判にかけ、異邦人に引き渡し、殺させました。まさに、彼らは主イエスを捨てたのです。しかし、神は、主イエスを三日目によみがえらせ、救い主としてお遣わしになったメシア(キリスト)であることを、明らかにされたのです。このキリストこそ、神が教会を建てる土台、岩、隅の親石だったのです。
  主イエスは、岩の上に家を建てよとおっしゃいました。キリストという岩の上に家を建てることにより、どのような困窮や苦況にあろうとも、立ち続けることのできるとおっしゃっておられるのです。
  今年度の私たちの教会の年間標語は「キリストの勝利に生きる」。聖句はヨハネ福音書16章33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」です。
  「岩の上に家を建てよ」との教えは、山上の説教の最後の言葉ですが、それは、私たちが喜んで主イエスを「私の神、私の救い主」と信じるようにということを、私たちに伝え、またこれこそが山上の説教が人々に語られた目的であることを示しているのです。