八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「命に通じる門は狭い」 2015年10月18日の礼拝

2016年03月07日 | 2015年度
申命記30章15~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。

マタイによる福音書7章13~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

  今日の聖句は、いろいろな文学作品で引用されたり、本の表題になることも多く、多くの人々によく知られているといって良いと思います。
  今日の聖句が、救われるための条件であるとすれば、これほど難しいことはありません。どの宗教でも、救われるためには修行をしなければならないと、よく言われます。時には、難行苦行が必要だと言われます。それと同じように、今日の聖句は、そのような救われるための条件が語られているのでしょうか。
  そうではありません。今日の聖句は、主イエスが教えられた山上の説教の最後の部分に属します。主要な教えが語られた後に続く警告の言葉なのです。
  とは言いましても、今日の警告の御言葉を聞きました時、私たちが救われていることを確信できるか、それとも救われていないと絶望するかは、とても重大なことであることには違いありません。はたして、私たちは、この御言葉によって、救われていると確信することができるのでしょうか。
  そもそも、山上の説教の中で主イエスがくり返し教えておられたことは、神の国に入るためにはどうしたらよいかということではありませんでした。そうではなく、神はあなたがたを子として扱っておられるということ、神を心から信頼しなさいということでした。それらの教えの最後で、神の国に入る条件が語られるはずがありません。
  そうであれば、今日、語られている警告は、神の国に入るための警告というよりは、神の国に入っている私たちに語られている警告ということになります。それは、すなわち、この警告は、私たち自身の姿を映し出す鏡であり、私たちが救われている者としてふさわしく歩んでいるかを確認させようとしているのです。

  さて、今日の御言葉に「門」とか「道」という言葉が出てきます。これらの言葉で思い起こされるのが、主イエスが別のところで語られた「私は門である。私を通って入る者は救われる。」(ヨハネ10章9節)、「わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の元に行くことができない。」(ヨハネ14章6節)の御言葉です。
  主イエスという「門」や「道」以外に、神に至ることはできないのです。主イエスこそ、救われるための唯一の門であり、神に至る唯一の道なのです。
  この主イエスという門は狭く、その道は窮屈なほどに細いというのが、今日告げられていることなのです。なぜ、この門が狭く、道が細いのでしょうか。
  主イエス・キリストという門を通り、その道を進むということは、主イエス・キリストを私たちの救い主と信じるということです。その門が狭く、道が細いということは、主イエスを信じることが難しいということを意味しています。
  マルコ福音書に金持ちの青年が主イエスを訪ねてきて、永遠の命を受けるにはどうしたらよいかと質問したことが記されています。主イエスは、十戒の言葉を告げますが、青年は「若い時からそれを実行してきた。他に何をすべきか」と重ねて問うと、主イエスは「全ての財産を売り払い、それを貧しい人に分け与え、あなたは私に従いなさい」と答えられました。すると、その青年は悲しみながら去っていったというのです。
  聖書は、青年が去っていったことについて、多くの財産を持っていたからだと説明しています。
  財産を全て売り払うことが主イエスの言葉の中心ではありません。主イエスに従うということが中心なのです。主イエスに従うとき、財産を捨てざるを得ないこともあるでしょう。そのような時でも、主イエスに従う覚悟があるかと問われているのです。
  主イエスは、全ての人々が救われるために、十字架におかかりになろうとして、この地上に来られました。それが神の御計画であったのです。この十字架による以外、全ての人を救う方法はないと神が判断され、決意なさったのです。それは、また、それ以外に救われることはないという、人間の罪の大きさを表してもいるのです。
  この地上は、そのような罪人が満ちている世界です。全ての罪人は、神に敵対しています。それ故、神に救われた人々が神の側に立つようになると、神の側に立つ人々も、周囲の人々から憎まれ、嫌われることがあるのです。したがって、地上でキリスト従う者として生きる時、得をするようなことがあるとは限らず、むしろ損をするようなこともあれば、財産を全て捨てざるを得ないこともあるのです。それでも、主イエスに従うかと、その覚悟を問われているのです。
  先ほどの金持ちの青年の話に戻ります。青年が去った後、主イエスは弟子たちに次のように語られました。
  「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。』弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」(マルコ10章23~27節)
  使徒パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1章18、21~25節)と告げています。
  使徒パウロは、人間の知恵や力によるのではなく、ただ神の力によって、私たちを救うと、神がお定めになったというのです。したがって、キリストを信じることは、人の力によるのではなく、神の力によるのだと断言しました。
  この世の知恵では、だれひとり、十字架につけられたナザレのイエスを、神の独り子であるとか、救い主であると認めることが出来ません。それこそが、神の御計画だというのです。人間が救われるのは、人間の知恵や努力によるのではなく、ただ神の力によるということが、神の御計画なのです。ここに、神にいたる門が誰も通れないほど狭く、命に至る道が細い理由があります。
  しかし、ここに、その狭き門、細い道という神にいたる道が、私たちの目の前に開かれています。それが神の力による救いです。主イエスは、「人が救われるより、らくだが針の穴を通る方が易しい」とおっしゃいましたが、さらにそれを聞いて驚く人々に「人間にはできないが、神にはできる」ともおっしゃいました。(マルコ10章23~27節)私たちは、神の力によって、狭き門を通り、細い道を進んでいるのです。
  十字架にかかられたナザレのイエスは、神の独り子であり、私たちの救い主であると信じる時、それは、神の力、聖霊の働きによって、その信仰が与えられているのです。この信仰を持つことは、私たちが救われており、命に至る狭き門を通り、神にいたる道を既に歩んでいることを証明しているのです。