サムエル記上3章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
ヨハネによる福音書1章35~42節(日本聖書協会「新共同訳」)
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
二人の弟子たちと一緒に歩いていた洗礼者ヨハネは、主イエスを見た時、「見よ、神の小羊だ」と言いました。それを聞いた弟子たちは主イエスに従っていったと、ヨハネ福音書は記しています。洗礼者ヨハネの一言を聞いただけで弟子たちがすぐ主イエスに従っていったということには、少し違和感をおぼえます。私たちが同じ状況にあったら、そんなに簡単に主イエスに従っていくだろうかと、不思議に思えるのではないでしょうか。
主イエスに従っていった弟子たちもおそらくこのヨハネの一言だけで主イエスに従うようになったというのではなく、ここに記されていないヨハネの教えが、今回の弟子たちの行動につながっていったとみるべきでしょう。
ヨハネ福音書3章に、ヨハネが弟子たちに主イエスのことを話している場面が出てきます。弟子たちは「あなたが証しされたあの人が洗礼を授け、みんながあの人の方へ行っている」と報告すると、ヨハネは弟子たちに「自分はメシアではない。あの方の前に遣わされた者だ。そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と語ったと記されています。これが、ヨハネがずっと弟子たちに語ってきたことなのでしょう。主イエスに従った弟子たちも洗礼者ヨハネからずっとそのことを聞かされ、主イエスに従う決意をしたのでしょう。世俗的に見れば、先生を裏切り、先生のライバルの弟子になったと見られても仕方がないと言えます。しかし、弟子たちの行為はむしろヨハネが望んでいたことであり、弟子たちはヨハネに忠実であったがゆえに、主イエスに従う決意を固めたとみるべきでしょう。結果的に、この弟子たちは洗礼者ヨハネが受けていたキリストを証しするという使命を継承したと言えるでしょう。
ヨハネの弟子であった二人のうち一人は、アンデレという人物でした。彼はシモン・ペトロの兄弟です。他の福音書ではペトロの方が有名で、アンデレの方はあまり表に出てきません。ヨハネ福音書ではアンデレは兄弟のペトロを主イエスに紹介した人物として描かれています。さらに、ヨハネ福音書12章には、主イエスに会いたいと言ってきたギリシア人を主イエスに取り次いだと記されています。こうして、洗礼者ヨハネとは違った形ではありましたが、アンデレは人々を主イエスに向かわせる使命を引き継いだのです。
アンデレは洗礼者ヨハネのように人々に影響を与えるような言葉や行為はしていません。しかし、どれだけ大きな働きをしたかではなく、洗礼者ヨハネの言葉を信頼し、主イエスに従ったことが大切なのです。その意味では、ペトロがアンデレを信頼し、主イエスの弟子になったことも重要なことでした。
アンデレやペトロと反対の例がヨハネ福音書に出てきます。弟子のトマスです。主イエスが復活し、弟子たちに現れましたが、その時、トマスはその場にいませんでした。他の弟子たちが復活した主イエスを見たと言いましたが、信じませんでした。トマスは実に常識的な人間で特別不信仰だったわけではありません。しかし、ヨハネ福音書は使徒たちの証言を信頼することの大切さを教えています。「見ないのに信じる人は、幸いだ」という主イエスの言葉は、使徒たちの証言を信頼し、主イエスに従うことの大切さを教えています。
少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
ヨハネによる福音書1章35~42節(日本聖書協会「新共同訳」)
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
二人の弟子たちと一緒に歩いていた洗礼者ヨハネは、主イエスを見た時、「見よ、神の小羊だ」と言いました。それを聞いた弟子たちは主イエスに従っていったと、ヨハネ福音書は記しています。洗礼者ヨハネの一言を聞いただけで弟子たちがすぐ主イエスに従っていったということには、少し違和感をおぼえます。私たちが同じ状況にあったら、そんなに簡単に主イエスに従っていくだろうかと、不思議に思えるのではないでしょうか。
主イエスに従っていった弟子たちもおそらくこのヨハネの一言だけで主イエスに従うようになったというのではなく、ここに記されていないヨハネの教えが、今回の弟子たちの行動につながっていったとみるべきでしょう。
ヨハネ福音書3章に、ヨハネが弟子たちに主イエスのことを話している場面が出てきます。弟子たちは「あなたが証しされたあの人が洗礼を授け、みんながあの人の方へ行っている」と報告すると、ヨハネは弟子たちに「自分はメシアではない。あの方の前に遣わされた者だ。そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と語ったと記されています。これが、ヨハネがずっと弟子たちに語ってきたことなのでしょう。主イエスに従った弟子たちも洗礼者ヨハネからずっとそのことを聞かされ、主イエスに従う決意をしたのでしょう。世俗的に見れば、先生を裏切り、先生のライバルの弟子になったと見られても仕方がないと言えます。しかし、弟子たちの行為はむしろヨハネが望んでいたことであり、弟子たちはヨハネに忠実であったがゆえに、主イエスに従う決意を固めたとみるべきでしょう。結果的に、この弟子たちは洗礼者ヨハネが受けていたキリストを証しするという使命を継承したと言えるでしょう。
ヨハネの弟子であった二人のうち一人は、アンデレという人物でした。彼はシモン・ペトロの兄弟です。他の福音書ではペトロの方が有名で、アンデレの方はあまり表に出てきません。ヨハネ福音書ではアンデレは兄弟のペトロを主イエスに紹介した人物として描かれています。さらに、ヨハネ福音書12章には、主イエスに会いたいと言ってきたギリシア人を主イエスに取り次いだと記されています。こうして、洗礼者ヨハネとは違った形ではありましたが、アンデレは人々を主イエスに向かわせる使命を引き継いだのです。
アンデレは洗礼者ヨハネのように人々に影響を与えるような言葉や行為はしていません。しかし、どれだけ大きな働きをしたかではなく、洗礼者ヨハネの言葉を信頼し、主イエスに従ったことが大切なのです。その意味では、ペトロがアンデレを信頼し、主イエスの弟子になったことも重要なことでした。
アンデレやペトロと反対の例がヨハネ福音書に出てきます。弟子のトマスです。主イエスが復活し、弟子たちに現れましたが、その時、トマスはその場にいませんでした。他の弟子たちが復活した主イエスを見たと言いましたが、信じませんでした。トマスは実に常識的な人間で特別不信仰だったわけではありません。しかし、ヨハネ福音書は使徒たちの証言を信頼することの大切さを教えています。「見ないのに信じる人は、幸いだ」という主イエスの言葉は、使徒たちの証言を信頼し、主イエスに従うことの大切さを教えています。