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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「ヨハネの弟子からイエスの弟子に」 2024年1月14日の礼拝

2024年02月05日 | 2023年度
サムエル記上3章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

  少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
  主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
  主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」


ヨハネによる福音書1章35~42節(日本聖書協会「新共同訳」)

  その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。



  二人の弟子たちと一緒に歩いていた洗礼者ヨハネは、主イエスを見た時、「見よ、神の小羊だ」と言いました。それを聞いた弟子たちは主イエスに従っていったと、ヨハネ福音書は記しています。洗礼者ヨハネの一言を聞いただけで弟子たちがすぐ主イエスに従っていったということには、少し違和感をおぼえます。私たちが同じ状況にあったら、そんなに簡単に主イエスに従っていくだろうかと、不思議に思えるのではないでしょうか。
 主イエスに従っていった弟子たちもおそらくこのヨハネの一言だけで主イエスに従うようになったというのではなく、ここに記されていないヨハネの教えが、今回の弟子たちの行動につながっていったとみるべきでしょう。
  ヨハネ福音書3章に、ヨハネが弟子たちに主イエスのことを話している場面が出てきます。弟子たちは「あなたが証しされたあの人が洗礼を授け、みんながあの人の方へ行っている」と報告すると、ヨハネは弟子たちに「自分はメシアではない。あの方の前に遣わされた者だ。そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と語ったと記されています。これが、ヨハネがずっと弟子たちに語ってきたことなのでしょう。主イエスに従った弟子たちも洗礼者ヨハネからずっとそのことを聞かされ、主イエスに従う決意をしたのでしょう。世俗的に見れば、先生を裏切り、先生のライバルの弟子になったと見られても仕方がないと言えます。しかし、弟子たちの行為はむしろヨハネが望んでいたことであり、弟子たちはヨハネに忠実であったがゆえに、主イエスに従う決意を固めたとみるべきでしょう。結果的に、この弟子たちは洗礼者ヨハネが受けていたキリストを証しするという使命を継承したと言えるでしょう。
  ヨハネの弟子であった二人のうち一人は、アンデレという人物でした。彼はシモン・ペトロの兄弟です。他の福音書ではペトロの方が有名で、アンデレの方はあまり表に出てきません。ヨハネ福音書ではアンデレは兄弟のペトロを主イエスに紹介した人物として描かれています。さらに、ヨハネ福音書12章には、主イエスに会いたいと言ってきたギリシア人を主イエスに取り次いだと記されています。こうして、洗礼者ヨハネとは違った形ではありましたが、アンデレは人々を主イエスに向かわせる使命を引き継いだのです。
  アンデレは洗礼者ヨハネのように人々に影響を与えるような言葉や行為はしていません。しかし、どれだけ大きな働きをしたかではなく、洗礼者ヨハネの言葉を信頼し、主イエスに従ったことが大切なのです。その意味では、ペトロがアンデレを信頼し、主イエスの弟子になったことも重要なことでした。
  アンデレやペトロと反対の例がヨハネ福音書に出てきます。弟子のトマスです。主イエスが復活し、弟子たちに現れましたが、その時、トマスはその場にいませんでした。他の弟子たちが復活した主イエスを見たと言いましたが、信じませんでした。トマスは実に常識的な人間で特別不信仰だったわけではありません。しかし、ヨハネ福音書は使徒たちの証言を信頼することの大切さを教えています。「見ないのに信じる人は、幸いだ」という主イエスの言葉は、使徒たちの証言を信頼し、主イエスに従うことの大切さを教えています。


「聖霊による洗礼」 2024年1月7日の礼拝

2024年02月01日 | 2023年度
イザヤ書42章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
 わたしが選び、喜び迎える者を。
 彼の上にわたしの霊は置かれ
 彼は国々の裁きを導き出す。
 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
 傷ついた葦を折ることなく
 暗くなってゆく灯心を消すことなく
 裁きを導き出して、確かなものとする。
 暗くなることも、傷つき果てることもない
 この地に裁きを置くときまでは。
 島々は彼の教えを待ち望む。

 主である神はこう言われる。
 神は天を創造して、これを広げ
 地とそこに生ずるものを繰り広げ
 その上に住む人々に息を与え
 そこを歩く者に霊を与えられる。
 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
 あなたの手を取った。
 民の契約、諸国の光として
 あなたを形づくり、あなたを立てた。
 見ることのできない目を開き
 捕らわれ人をその枷から
 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

 わたしは主、これがわたしの名。
 わたしは栄光をほかの神に渡さず
 わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
 見よ、初めのことは成就した。
 新しいことをわたしは告げよう。
 それが芽生えてくる前に
 わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。


ヨハネによる福音書1章29~34節(日本聖書協会「新共同訳」)

  その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」



  洗礼者ヨハネが主イエスを見かけた時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。この言葉が洗礼者ヨハネを説明する最も重要な特徴と言えます。この言葉によって、イエスが世の罪を取り除くために来られたこと、これまで罪の償いのためにささげられてきた小羊に勝るいけにえであると証しします。このように証しすることこそ、洗礼者ヨハネが神から与えられた使命であり、どの福音書も洗礼者ヨハネを告げる理由なのです。
  洗礼者ヨハネがイエスについて語ったもう一つの重要な言葉が、この後出てきます。それが33節にある「聖霊によって洗礼を授ける」という言葉です。この言い方は、洗礼者ヨハネが水で洗礼を授けていることと比較する形で表現されています。
  ヨハネ福音書20章22節に「(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」とあります。直接、「聖霊による洗礼」とは言われていませんが、とても重要な出来事です。原文では「息」という言葉は省略されていますが、ギリシア語の「息」は「霊」と同じ言葉で、ヨハネ3章8節で律法学者ニコデモに語ったイエスの「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いてもそれがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」にある「風」と「霊」も同じ言葉です。3章では霊は目には見えないけれども確実に働いていることを教えています。
  20章22節は、主イエスが息を吹きかける行為で聖霊を弟子たちに与えたと告げているのです。これは使徒言行録2章のペンテコステの出来事を連想させます。そして、20章21節には「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とあります。これはマタイ福音書28章19~20節にある弟子たちを派遣する言葉を連想させます。ヨハネ福音書は、マタイ福音書や使徒言行録とは違う出来事によって、弟子たちの派遣と聖霊の降臨の出来事を記しているのです。
  さて、主イエスは弟子たちに聖霊をお与えになったわけですが、私たちはどうなのでしょうか。聖霊を受けるという特別な体験はしていないように見えます。しかし、私たちも聖霊をすでに受けているのです。ヨハネ福音書3章で主イエスが語ったように、聖霊の働きは私たちの目には見えませんし、肌で感じるというのでもありません。しかし、聖霊は確かに私たちに注がれているのです。その確かなしるしが、主イエスを神の子・救い主と信じる信仰です。
  使徒パウロはⅠコリント1章18節で「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と語り、「それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」(2:5)と語ったように、私たちの信仰は神の力によるのであり、聖霊の働きによるのです。それゆえ、パウロは私たちを「聖霊が宿ってくださる神殿」(Ⅰコリント6:19)とも告げているのです。
  聖霊の神殿にふさわしく、主イエスへの信仰を守り、その救いを伝え、神の栄光をあらわす者として、歩みましょう


「東方からの学者たち」 2023年12月31日の礼拝

2024年01月31日 | 2023年度
イザヤ書11章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
 その根からひとつの若枝が育ち
 その上に主の霊がとどまる。
 知恵と識別の霊
 思慮と勇気の霊
 主を知り、畏れ敬う霊。
 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
 目に見えるところによって裁きを行わず
 耳にするところによって弁護することはない。
 弱い人のために正当な裁きを行い
 この地の貧しい人を公平に弁護する。
 その口の鞭をもって地を打ち
 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
 正義をその腰の帯とし
 真実をその身に帯びる。

 狼は小羊と共に宿り
 豹は子山羊と共に伏す。
 子牛は若獅子と共に育ち
 小さい子供がそれらを導く。
 牛も熊も共に草をはみ
 その子らは共に伏し
 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
 幼子は蝮の巣に手を入れる。
 わたしの聖なる山においては
 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
 水が海を覆っているように
 大地は主を知る知識で満たされる。
 その日が来れば
 エッサイの根は
   すべての民の旗印として立てられ
 国々はそれを求めて集う。
 そのとどまるところは栄光に輝く。


マタイによる福音書2章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
  そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。




  東から来た学者たちがエルサレムに来て、ヘロデ大王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねました。ヘロデ大王は彼らをベツレヘムへ送り出しましたが、それは彼らを利用して、幼子を探し出し、殺そうと計画しているのです。そういう殺意があったことは、後にベツレヘム近くの子どもたちが殺害されたことで明らかになります。
  救い主が生まれたにもかかわらず、その救い主を受け入れようとしない人間の姿がここに示されているのです。救い主を受け入れようとしないのはヘロデ大王だけではないことは、学者たちの言葉を聞いたエルサレムの住民たちも不安を覚えたとあることで明らかにされています。
  マタイ福音書は、夜寝ているヨセフが夢で天使からお告げを受けたと記しています。また、学者たちは星に導かれてエルサレムに、さらにベツレヘムへと旅をしています。このようなことから、マタイが伝えるクリスマスの出来事に夜のイメージがあります。風景が暗いというだけでなく、生まれたばかりの救い主を殺そうとする様子にもまた、闇のイメージがあります。こうして、世界が罪によって作り出されている闇の中にあることを暗示しているのです。その闇の中に救い主が静かにお生まれになったと聖書が告げます。そして、神の民であるイスラエルはその救い主を受け入れようとしないことを、ヘロデ大王やエルサレムの住民たちの不安を抱く様子で伝えます。反対に、救い主を求めて幼子の所に来たのは、遠い東方の地から来た異邦人の学者たちだけだったとも告げているのです。
  主イエスの救い主としての働きは、十字架にかかることによって果たされました。十字架上のイエスが息を引き取った時、十字架のそばにいたローマの百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」との言葉で、それを言い表しています。彼もまた異邦人でした。そして、復活された主イエスは弟子たちに会うと、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい」と言って世界へと派遣するのです。天使が告げた「自分の民を罪から救う」というのは、ユダヤ人だけを救うという意味ではなく、すべての民を救うという意味だったのです。それが神の御心であると告げているのです。
  主イエスがお生まれになった時、救い主を求めて、学者たちは遠い東からやって来ました。主イエスが復活した後は、救いが到来したことを告げ知らせるため、主イエスが弟子たちを遠い地に送り出す場面へと続きます。送り出された後の弟子たちの物語は、私たちの時代へと続き、私たちも主イエス・キリストの救いを宣べ伝えていくのです。


「神の子が人となって」 2023年12月24日の礼拝

2024年01月29日 | 2023年度
ゼカリヤ書2章14~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

 娘シオンよ、声をあげて喜べ。
 わたしは来て
 あなたのただ中に住まう、と主は言われる。
 その日、多くの国々は主に帰依して
 わたしの民となり
 わたしはあなたのただ中に住まう。
 こうして、あなたは万軍の主がわたしを
   あなたに遣わされたことを知るようになる。
 主は聖なる地の領地として
 ユダを譲り受け
 エルサレムを再び選ばれる。
 すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。
 主はその聖なる住まいから立ち上がられる。」


ヨハネによる福音書1章1~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
  神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
  言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。



  新約聖書には四つの福音書があり、そのどれもが独特の特徴があり、その始まりも様々です。
  作品の名前を隠されていてもその最初の言葉を聞くだけで誰の作品であり本の題が何であるかがすぐ分かるということもあります。四つの福音書もそれと同じで、その最初の言葉で、それがどの福音書であるかすぐ分かります。特にヨハネ福音書は、他の福音書以上にそれを読む私たちに強い印象を与えています。
  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」というこの言葉は、初めて読んだ時、何を言っている全く意味が分からないと思う人は多いと思います。しかし、聖書を読みなれてくると、最初の「言」が主イエス・キリストのことであることがわかるようになります。すなわち、「主イエス・キリストは神である」ということからこの福音書が始まっているということです。そして、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」で、神である主イエス・キリストは人間になられたと告げているのです。これによって、ヨハネ福音書はクリスマスの出来事を語っているのです。
  クリスマスの出来事と言っても、ヨセフやマリアは登場しませんし、ベツレヘムでの様子も全く出てきません。しかし、主イエスが生まれた出来事はいったい何であったのかということを告げているのです。そして、「初めに言があった」という象徴的な表現を用いて、主イエスは神であったということから始めるのです。そして、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」で、神が人間になったと告げるのです。
  ヨハネ福音書はなぜこのようにキリストの降誕を記したのでしょうか。
  当時、教養ある人々はギリシア哲学や神話をよく知っていました。そこでは、完全な神が不完全な人間になるはずがないとされ、せいぜい人間のように姿を変えたとか、幻であったとされていました。キリスト教会がイエス・キリストを宣べ伝えたとき、イエスは単なる人であったとか、人間のように見えただけだとする人々が現れたようです。そのような考え方を強く否定する目的でヨハネ福音書が書かれたのです。
  ヨハネ福音書は、主イエスは完全な神であり、完全な人間であったと告げているのです。神に近い存在とか、人間のように見えたという考え方を否定しているのです。
  主イエスが完全な人間になられたということには、もう一つ重要な意味がありました。それは罪のない人間であったということです。
  主イエスが地上にお出でになった目的は、すべての人間を罪から救うため、罪の贖いとしてのいけにえになることでした。旧約聖書には罪を犯した人は罪の償いとして、動物をささげなければならないとされています。その時の動物は傷のない完全なものでなければならないとされています。すべての人間は神に対して罪を犯しており、罪の償いとしては全く役に立たないのです。そこで、神は罪のない人間を十字架にかけ、すべての人の罪の償いとすることを計画されたのです。罪のない人間を地上に送るため、神は独り子なる神を地上に送り、人間に生まれさせたのです。これがクリスマスの意味なのです。
  ヨハネ福音書には、主イエスがお生まれになった様子は記されていません。ただ、私たちの救いのために主イエスが遣わされ、罪の贖いのために十字架への道を歩まれたと告げているのです。ヨハネ福音書の冒頭の言葉は、キリストに救われた私たち全ての者の信仰告白として記されているのです。


「キリストを証しするヨハネ」 2023年12月17日の礼拝

2024年01月16日 | 2023年度
マラキ書3章19~24節(日本聖書協会「新共同訳」)

 見よ、その日が来る
 炉のように燃える日が。
 高慢な者、悪を行う者は
 すべてわらのようになる。
 到来するその日は、と万軍の主は言われる。
 彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには
 義の太陽が昇る。
 その翼にはいやす力がある。
 あなたたちは牛舎の子牛のように
 躍り出て跳び回る。
 わたしが備えているその日に
 あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。
 彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
 わが僕モーセの教えを思い起こせ。
 わたしは彼に、全イスラエルのため
 ホレブで掟と定めを命じておいた。
 見よ、わたしは
 大いなる恐るべき主の日が来る前に
 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
 彼は父の心を子に
 子の心を父に向けさせる。
 わたしが来て、破滅をもって
 この地を撃つことがないように。


ヨハネによる福音書1章19~28節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。



 今日の聖書の箇所には洗礼者ヨハネが登場しています。福音書は四つありますが、どの福音書にもこの洗礼者ヨハネが登場します。主イエスの御降誕の様子がマタイとルカにしか記されていないことを考えますと、洗礼者ヨハネがとても重要な人物だと想像できます。しかし、このヨハネが主イエスと直接関わることはほとんどなく、主イエスがこのヨハネから洗礼を受けたということぐらいしかありません。しかし、この出来事は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書には記されていますが、ヨハネ福音書にはありません。
  ちなみに、ヨハネ福音書と洗礼者ヨハネとは全く関係がありません。ヨハネという名前はユダヤ人の伝統的な名前で、無数の「ヨハネ」がいましたので、洗礼者ヨハネは他のヨハネと区別するため「洗礼者」と呼ばれています。
  このヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネについて他の福音書以上に多くのことを記していますが、イエス・キリストを証しする存在であることを強調しています。たとえば、主イエスを指さし、「見よ、神の小羊」(ヨハネ1:29、36)と言ったと記しています。それを聞いたヨハネの弟子の何人かが主イエスの弟子になりました。また、ヨハネの弟子たちが主イエスのことを報告すると「あの方は栄え、私は衰えねばならない」(3:30)とまで言っています。こうして、洗礼者ヨハネは徹底的に主イエスを証したと記しているのです。
  さて、今日の聖書の箇所は、洗礼者ヨハネがユダヤ人たちから問われている場面です。
  最初の質問は「あなたはどなたですか」でした。それに対しヨハネは「わたしはメシアではない」と答えています。続く質問にも「エリヤでもあの預言者でもない」と答えます。人々は「ではなぜ、洗礼を授けているのか」と問います。これにも直接答えないで、「わたしの後に来る方」について語り、主イエスを証しするのです。
  ある人は、このヨハネへの問いとヨハネの返答はキリスト教会への問いとキリスト教会の返答と似ていると言います。すなわち、教会もまた、「教会はメシアでもなく、エリヤでもあの預言者でもない」と答え、さらに「なぜ洗礼を授けるのか」と問われているというのです。その時、洗礼者ヨハネが主イエスを証ししたように、教会もまた証しをしなければならないというのです。洗礼者ヨハネは「わたしの後から来る方」と言って、主イエスの証しをしました。それでは教会は何と証しすべきなのでしょうか。私たちと共にいてくださる方、主イエスが「あなたがたは地の果てに至るまで、わたしの証人となれ」(使徒言行録1:8)、「すべての民に洗礼を授けよ」(マタイ28:19)と命じられました、と答えるべきでしょう。最後まで自分の栄光を求めることをしないで、ひたすら主イエスを証ししたヨハネは、証し人として私たちの先駆者でもあるのです。