出エジプト記17章3~7節(日本聖書協会「新共同訳」)
しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。
「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
マタイによる福音書4章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
教会の暦では、今年は2月14日(水)が「灰の水曜日」で、この日から受難節(レント)に入っています。受難節は、主イエスが荒野で40日間誘惑を受けたことにちなみ、復活日前の40日間を主イエスが受けた苦しみを思い、礼拝と祈りによって信仰と生活を整える期間とされてきました。
さて、今日読んでいただいたマタイ福音書4章1~11節は、主イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けたことが記されています。この試練は、主イエスご自身の意志によるものでした。それは、どのようにして、キリストとしての、救い主としての使命を果たすかを明確にするために必要だったからです。それは、悪魔が第一と第二の誘惑で、「神の子なら」と唆していることから明らかです。
第一の誘惑は石をパンに変えること、第二は高いところから飛び降りること、第三は悪魔を拝むことでした。第一と第二の誘惑は、飢えた人々に食べ物を与えること、奇跡を行い人々の関心を引くこと、神に守られていることを証明することによって、救い主としての使命を果たせると誘惑しているのです。主イエスはこれらの誘惑をすべて退けました。
このことは、食糧問題の解決や奇跡によって救い主の使命を果たすのではないことを示しています。とは言え、主イエスは五千人の給食、四千人の給食と呼ばれるような奇跡やその他にも多くの奇跡を行ったこともありました。しかし、それは自分自身のためであったり、救い主であることを証明するための奇跡ではありませんでした。
第三の誘惑は、富と権力を得るために悪魔に仕えることでした。悪魔は、「救い主としての務めを果たそうとするなら、強大な権力と莫大な富、大きな名声を用いてはどうか」と、誘っているのです。また、権力や富、名声は、いつの時代でも誰にとっても魅力的で、それを獲得しようとする人々は多いのです。しかし、主イエスはこれも退け、ただ神にのみ仕えることを宣言したのです。権威ということでは「罪を赦す権威」(マタイ9:1~8)をすでに持っておられるのです。しかし、これも見せびらかすための権威ではありません。主イエスは、ご自分のために権力を求めることをせず、むしろ全ての人々を救うために、父なる神から与えられた権威を用いられたのです。そして、父なる神にのみ仕える姿勢を示されたのです。
それではキリストとしての使命は、どのようにして果たされるのでしょうか?
ここではまだハッキリ示されていませんが、十字架と復活によってその使命が果たされるのです。それが父なる神の御計画であり、主イエスはその父なる神の御心に完全に従う意思を明確に示したのです。主イエスにとって、悪魔の誘惑は、ご自身の十字架の使命を明確にしていく第一歩だったのです。
私たちも、同じような誘惑を受けます。主の祈りにあるように、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」を唱え、ただ神にのみ仕える決意を新たにすべきでしょう。これが悪魔を退ける力となるのです。
しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。
「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
マタイによる福音書4章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
教会の暦では、今年は2月14日(水)が「灰の水曜日」で、この日から受難節(レント)に入っています。受難節は、主イエスが荒野で40日間誘惑を受けたことにちなみ、復活日前の40日間を主イエスが受けた苦しみを思い、礼拝と祈りによって信仰と生活を整える期間とされてきました。
さて、今日読んでいただいたマタイ福音書4章1~11節は、主イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けたことが記されています。この試練は、主イエスご自身の意志によるものでした。それは、どのようにして、キリストとしての、救い主としての使命を果たすかを明確にするために必要だったからです。それは、悪魔が第一と第二の誘惑で、「神の子なら」と唆していることから明らかです。
第一の誘惑は石をパンに変えること、第二は高いところから飛び降りること、第三は悪魔を拝むことでした。第一と第二の誘惑は、飢えた人々に食べ物を与えること、奇跡を行い人々の関心を引くこと、神に守られていることを証明することによって、救い主としての使命を果たせると誘惑しているのです。主イエスはこれらの誘惑をすべて退けました。
このことは、食糧問題の解決や奇跡によって救い主の使命を果たすのではないことを示しています。とは言え、主イエスは五千人の給食、四千人の給食と呼ばれるような奇跡やその他にも多くの奇跡を行ったこともありました。しかし、それは自分自身のためであったり、救い主であることを証明するための奇跡ではありませんでした。
第三の誘惑は、富と権力を得るために悪魔に仕えることでした。悪魔は、「救い主としての務めを果たそうとするなら、強大な権力と莫大な富、大きな名声を用いてはどうか」と、誘っているのです。また、権力や富、名声は、いつの時代でも誰にとっても魅力的で、それを獲得しようとする人々は多いのです。しかし、主イエスはこれも退け、ただ神にのみ仕えることを宣言したのです。権威ということでは「罪を赦す権威」(マタイ9:1~8)をすでに持っておられるのです。しかし、これも見せびらかすための権威ではありません。主イエスは、ご自分のために権力を求めることをせず、むしろ全ての人々を救うために、父なる神から与えられた権威を用いられたのです。そして、父なる神にのみ仕える姿勢を示されたのです。
それではキリストとしての使命は、どのようにして果たされるのでしょうか?
ここではまだハッキリ示されていませんが、十字架と復活によってその使命が果たされるのです。それが父なる神の御計画であり、主イエスはその父なる神の御心に完全に従う意思を明確に示したのです。主イエスにとって、悪魔の誘惑は、ご自身の十字架の使命を明確にしていく第一歩だったのです。
私たちも、同じような誘惑を受けます。主の祈りにあるように、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」を唱え、ただ神にのみ仕える決意を新たにすべきでしょう。これが悪魔を退ける力となるのです。