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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「荒野の誘惑」 2024年2月18日の礼拝

2024年03月18日 | 2023年度
出エジプト記17章3~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
  「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
  モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。
  「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
  モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。


マタイによる福音書4章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。



  教会の暦では、今年は2月14日(水)が「灰の水曜日」で、この日から受難節(レント)に入っています。受難節は、主イエスが荒野で40日間誘惑を受けたことにちなみ、復活日前の40日間を主イエスが受けた苦しみを思い、礼拝と祈りによって信仰と生活を整える期間とされてきました。
  さて、今日読んでいただいたマタイ福音書4章1~11節は、主イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けたことが記されています。この試練は、主イエスご自身の意志によるものでした。それは、どのようにして、キリストとしての、救い主としての使命を果たすかを明確にするために必要だったからです。それは、悪魔が第一と第二の誘惑で、「神の子なら」と唆していることから明らかです。
  第一の誘惑は石をパンに変えること、第二は高いところから飛び降りること、第三は悪魔を拝むことでした。第一と第二の誘惑は、飢えた人々に食べ物を与えること、奇跡を行い人々の関心を引くこと、神に守られていることを証明することによって、救い主としての使命を果たせると誘惑しているのです。主イエスはこれらの誘惑をすべて退けました。
  このことは、食糧問題の解決や奇跡によって救い主の使命を果たすのではないことを示しています。とは言え、主イエスは五千人の給食、四千人の給食と呼ばれるような奇跡やその他にも多くの奇跡を行ったこともありました。しかし、それは自分自身のためであったり、救い主であることを証明するための奇跡ではありませんでした。
  第三の誘惑は、富と権力を得るために悪魔に仕えることでした。悪魔は、「救い主としての務めを果たそうとするなら、強大な権力と莫大な富、大きな名声を用いてはどうか」と、誘っているのです。また、権力や富、名声は、いつの時代でも誰にとっても魅力的で、それを獲得しようとする人々は多いのです。しかし、主イエスはこれも退け、ただ神にのみ仕えることを宣言したのです。権威ということでは「罪を赦す権威」(マタイ9:1~8)をすでに持っておられるのです。しかし、これも見せびらかすための権威ではありません。主イエスは、ご自分のために権力を求めることをせず、むしろ全ての人々を救うために、父なる神から与えられた権威を用いられたのです。そして、父なる神にのみ仕える姿勢を示されたのです。
  それではキリストとしての使命は、どのようにして果たされるのでしょうか?
  ここではまだハッキリ示されていませんが、十字架と復活によってその使命が果たされるのです。それが父なる神の御計画であり、主イエスはその父なる神の御心に完全に従う意思を明確に示したのです。主イエスにとって、悪魔の誘惑は、ご自身の十字架の使命を明確にしていく第一歩だったのです。
  私たちも、同じような誘惑を受けます。主の祈りにあるように、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」を唱え、ただ神にのみ仕える決意を新たにすべきでしょう。これが悪魔を退ける力となるのです。


「奇跡を行うキリスト」 2024年2月11日の礼拝

2024年03月11日 | 2023年度
申命記8章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。
  あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。


ヨハネによる福音書6章1~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。


  申命記は、エジプトを脱出したイスラエルの人々が40年の時を経てようやく約束の地カナン(今のパレスチナ)を目の前にし、これまでの40年を振り返り、モーセは民に最後の教えと警告を与えています。申命記全体がそういう内容で、モーセの決別の説教となっているわけです。
  モーセは、この40年を神が与えた訓練だと言い、「人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」と諭しています。この神からの訓練は、神を信頼するようになるための訓練だったのです。
  さて、ヨハネ福音書6章1節以下は、主イエスが行った奇跡の一つで「五千人の給食」と呼ばれています。
  この奇跡は、エジプトを脱出したイスラエルの民が40年間マンナを与えられ、養われてきたことを思い起こさせます。今日の聖書の箇所では直接そのことは触れられていませんが、6章25節以下でそのことが触れられ、また「五千人の給食」についても触れられています。その場面では、ユダヤ人たちは「五千人の給食」の奇跡を体験していながら、さらに主イエスにしるしを求める不信仰をあらわにしています。
  その場面では、主イエスは「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」(6:49)と言い、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:51)と言いました。
  「五千人の給食」の奇跡は、神が人々を養われることを示す象徴でしたが、永遠の命にいたらせる主イエスに目を向けさせる目的もあったのです。すなわち、神が私たちを養うという御心を示す象徴的出来事から、私たちが主イエスと一体となり、永遠の命を受けるという約束へと、教えは進んでいっているのです。
  「五千人の給食」の奇跡が行われる時、主イエスが弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねています。ヨハネ福音書は、主イエスが「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられた」と記しています。この多くの人を養う奇跡は、その多くの人々のためだけではなく、弟子たちへの訓練としても行われていたということです。そして、先ほどの「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:51)という教えは、弟子たちにこそ伝えたい言葉だったのです。
  教会で行われる聖餐式は、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」という主イエスの言葉を思い起こさせてもいるのです。


「安息日のいやし」 2024年2月4日の礼拝

2024年03月07日 | 2023年度
ヨブ記23章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 ヨブは答えた。
 今日も、わたしは苦しみ嘆き
 呻きのために、わたしの手は重い。
 どうしたら、その方を見いだせるのか。
 おられるところに行けるのか。
 その方にわたしの訴えを差し出し
 思う存分わたしの言い分を述べたいのに。
 答えてくださるなら、それを悟り
 話しかけてくださるなら、理解しよう。
 その方は強い力を振るって
   わたしと争われるだろうか。
 いや、わたしを顧みてくださるだろう。
 そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ
 わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう。
 だが、東に行ってもその方はおられず
 西に行っても見定められない。
 北にひそんでおられて、とらえることはできず
 南に身を覆っておられて、見いだせない。

 しかし、神はわたしの歩む道を
   知っておられるはずだ。
 わたしを試してくだされば
   金のようであることが分かるはずだ。


ヨハネによる福音書5章8~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
  その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。



  ヨハネ福音書5章には、主イエスが足の不自由な人を癒した出来事が記されています。8~18節は癒しの奇跡そのものではなく、奇跡の後に起こった出来事が記されています。
  主イエスが足の不自由な人を癒した時、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言いました。この言葉の瞬間、足の不自由な人の足は良くなり、床を担いで歩きだしました。主イエスの言葉にはそれを現実にする力があることを示しています。しかしこの時、別の問題が生じていました。その奇跡の瞬間を直接見ておらず、ただ癒された人が床を担いでいるのを見たユダヤ人が、「今日は安息日だ。床を担ぐことは、律法で許されていない」と咎めたのです。
  安息日を守ることは十戒にも出てくる重要な戒めです。その安息日には「いかなる仕事もしてはならない」とあり、癒された人が床を担いで歩いていることも仕事とみなされ、咎められたのです。
  癒された人は足が良くなった喜びも吹き飛んでしまい、思わず「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えてしまいました。もちろん、悪気はありません。床を担ぐことを咎められたので、「床を担いで歩きなさい」と言われたからそれに従ったまでと、言い訳をしただけでした。
  それは誰だと尋ねられましたが、癒してくださったのが主イエスだと知らなかったので、答えることができませんでしたが、後で、主イエスだと知って、癒された人は「自分をいやしたのはイエスだ」と答えてしまいました。
  ユダヤ人たちは攻撃の矛先を主イエスに変え、迫害し始めました。安息日に癒しを行ったからというのがその理由でした。今の私たちからすると非常に理解しがたいことですが、当時のユダヤ人はそこまで徹底して安息日の戒めを守ろうとしたのです。ルカ福音書13章にはその徹底ぶりが示され、ユダヤの会堂長が「安息日以外の日に治してもらえ。安息日はいけない」と、主イエスと癒しを求めてきた人々を咎めたとあります。
  当時のユダヤ人たちは、命にかかわる場合は命を落とさない程度に治療をすることは許されており、命にかかわらないのであれば、安息日が終わってから治療すべきだと考えていたようです。
  このように、安息日は何もしてはないと考えられていましたが、安息日の本来の目的は神を礼拝することであり、そのために仕事をしてはならないと戒められたのです。その本来の意味を見失ってしまったために、安息日には何もしてはならないと考えられるようになってしまったのです。
  主イエスは、咎めてきたユダヤ人に「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と答えました。この答えによって、安息日に癒しを行った理由を告げただけでなく、主イエスは父なる神とご自身との関係を明らかにしたのです。しかし、このことは、ユダヤ人たちの主イエス殺害の動機になりました。主イエスが父なる神の真の独り子だとは理解できず、神を冒涜することだと考えたからです。
  主イエスが告げたように、父なる神は安息日であっても世界とそこに住む私たちのために働いてくださり、私たちはその恩恵を受けているのです。


「あなたはどなたですか」 2024年1月28日の礼拝

2024年03月05日 | 2023年度
出エジプト記3章13~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセは神に尋ねた。
  「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
  神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」


ヨハネによる福音書8章21~36節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。
  イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。



  ヨハネ福音書8章25節に、「あなたは、いったい、どなたですか」と人々が尋ねたとあります。この問いが、ヨハネ福音書全体の主題であると言っても過言ではありません。この福音書はこの問題に答えようと、いろいろの角度から主イエスについて語ります。この福音書の冒頭にある「初めに言葉があった」も、この問いに答えようとしており、主イエスがたびたびご自身について語る「わたしは良い羊飼い」、「世の光」、「命のパン」、「まことのぶどうの木」、「道であり、真理であり、命である」も、主イエスはどなたなのかという問いに対して答えているのです。上にあげた言葉はすべてではありませんが、主イエスのこれらの言葉は、ご自身と私たちがどのような関係にあるかを明らかにする大切な言葉です。
  さて、今日の「あなたは、どなたなのですか」という問いに対する主イエスの答えは「わたしはある」です。実に不思議な言葉であり、またその意味も謎めいています。この言葉が意味することは何かを考えることは大切かもしれませんが、今は、「わたしはある」という言葉が神の名前であることを知ることで十分です。
  「わたしはある」が神の名前であることは出エジプト記に記されており、神がモーセにそのことを告げたと記されています。
  主イエスが「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃったことは、「私が神であることを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」ということです。ヨハネ福音書は全体として、主イエスが真の神の独り子であることを証言する福音書なのです。
  主イエスはさらに、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かる」とおっしゃいました。「人の子を上げたとき」とは、主イエスが十字架にかけられたときということです。すなわち、主イエスはご自身が神の子であることを宣言するとともに、十字架にかけられると語り、しかもそれが神の御計画であるとも告げているのです。その御計画とは、十字架にかけられる神の独り子イエスによってのみ、信じるすべての人が救われるということです。
  私たちを罪と滅びより救ってくださる主イエスこそ、真の神の独り子であり、救い主であり、私たちにとっての「良い羊飼い」、「世の光」、「命のパン」、「まことのぶどうの木」、「道であり、真理であり、命」なのです。


「イエスの最初のしるし」 2024年1月21日の礼拝

2024年02月12日 | 2023年度
出エジプト記33章18~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」

ヨハネによる福音書2章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。



  ヨハネ福音書は、1章後半で主イエスのもとに弟子になる人々が集まりだしたことを記し、2章に入ると、カナという村での婚礼で最初の奇跡を行ったと記しています。
  ヨハネ福音書は、主イエスが行った奇跡を「しるし」と呼んでいます。これはヨハネ福音書の特徴で、奇跡を主イエスが神の独り子であり、救い主であることの「しるし」であると強調しているのです。
  「最初のしるし」という言葉があるということは第二のしるしがあるということになり、実際に、4章において、主イエスが役人の子の病をいやし、それを「二回目のしるし」と記しています。それ以降も主イエスは奇跡を行いますが、ヨハネ福音書はいちいち「何回目のしるし」という言い方はしていません。しかし、この福音書は主イエスがなさった奇跡を「しるし」と見ており、文章としては記していませんが、主イエスの行った奇跡の中から七回を選んでいます。
  ヨハネ福音書20章30節に「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」とことわっています。すなわち、数多くの奇跡が行われたが、この福音書はその中からいくつかを選んだというのです。ですから、「最初のしるし」「二回目のしるし」という言い方がされているということです。そして、回数こそ直接記されてはいませんが、主イエスの行った奇跡が七つ記されていることに気づかされます。この「7」という数字をヨハネ福音書は大切にしているようです。旧約聖書の時代から「7」には完全数という意味がありました。ヨハネ福音書も同じです。この福音書では、洗礼者ヨハネが登場してから七日が過ぎ、「最初のしるし」が行われたとなっています。そして、七つ目のしるしがラザロの蘇りなのですが、その日から七日目に主イエスが十字架にかけられたことになっています。直接「7」という数字は出てきませんが、この数字を意識していることは確かです。すべての奇跡を記すことよりも、主イエスの行った奇跡は完全であり、確かに神の子、救い主の「しるし」であったと言いたいのです。
  そこで、カナの婚礼の話に戻ります。主イエスは「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ六つ」に入っている水を、上等のぶどう酒に変えたわけですが、この「6」という数字は「7」という完全数に一つ足りない数で、不完全を象徴していると言えます。そして、「ユダヤ人が清めに用いた水」は律法に記されている定めで、ほかの福音書で、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わなかったことで律法学者やファリサイ派の人々から非難されたことが記されていましたが、その食事の前に手を洗うための水がヨハネ福音書に出てくる水がめの水なのです。ヨハネ福音書は律法の行いは完全ではなく、本当に完全なのは主イエスの御業であると言おうとしているのです。私たちを本当に救うのは律法ではなく、主イエスの御業、十字架にかかられたキリストこそ、私たちを完全に救うのであると言いたいのです。こうして見ると主イエスの「私の時」は主イエスが十字架にかかられる時を意味し、ぶどう酒の奇跡は十字架で流された主イエスの血を象徴していると理解できます。
  マタイ福音書とマルコ福音書は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」の言葉を主イエスの宣教の始まりとして記していますが、ヨハネ福音書はぶどう酒の奇跡を宣教の始まりとして記しているのです。すなわち、すべての人を救う主イエスの十字架へ向かう歩みが、ここから始まったと伝えているのです。