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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「聖書はキリストを証しする」 2023年12月10日の礼拝

2024年01月01日 | 2023年度
列王記上22章6~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イスラエルの王は、約四百人の預言者を召集し、「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と問うた。彼らは、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えた。しかし、ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問うと、イスラエルの王はヨシャファトに答えた。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です。」ヨシャファトは、「王よ、そのように言ってはなりません」といさめた。そこでイスラエルの王は一人の宦官を呼び、「イムラの子ミカヤを急いで連れて来るように」と言った。
  イスラエルの王はユダの王ヨシャファトと共に、サマリアの城門の入り口にある麦打ち場で、それぞれ正装して王座に着いていた。預言者たちは皆、その前に出て預言していた。ケナアナの子ツィドキヤが数本の鉄の角を作って、「主はこう言われる。これをもってアラムを突き、殲滅せよ」と言うと、他の預言者たちも皆同様に預言して、「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言った。
  ミカヤを呼びに行った使いの者は、ミカヤにこう言い含めた。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」ミカヤは、「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と言って、王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた。そこで王が彼に、「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と言うと、彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」


ヨハネによる福音書5章36~47節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
  わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」



  主イエスは「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)とおっしゃいました。ここでの「聖書」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書は主イエスよりずっと前に書かれていますので、主イエスの事が直接出てくるわけではありません。しかし、神の重要な御計画とそれが主イエスによって果たされることが、旧約聖書の中に示されているのです。
  まず第一に、創世記12章に記されているアブラハムの選びです。神は「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と宣言され、すべての人を救う御計画が始まりました。マタイ福音書の最初にある主イエスの系図は、その御計画がアブラハムから始まり主イエスへと向かっていることを示しています。
  第二に、贖罪の信仰です。これは旧約のレビ記に詳しく記されています。罪を犯した人は罪の償いとして動物を献げるよう定められています。罪を犯した人は自分の命をもって償わなければならず、その人の代わりとして動物がささげられたのです。一年に一度、大祭司が神殿の至聖所に入り、イスラエル全体の罪の贖いの儀式をしました。しかし、毎年行わなければならないところに、この贖罪が不完全であることをも示していました。主イエスは動物の血ではなく、ご自身の十字架で流された血によって完全な贖罪の業を行いました。それゆえ、もはや動物を献げる必要はなくなったのです。
  第三に、契約です。出エジプト記24章に、シナイ山においてイスラエルの民が神と契約を結んだ様子が記されています。モーセが動物の血を鉢にとり、半分を祭壇に注ぎ、契約の書を読み上げました。民がこれを守ると約束すると、「これは主があなたたちと結ばれた契約の血である」と宣言し、鉢に残った動物の血を人々に振りかけたのです。血による契約、それは命を懸けて守ると誓った誓約です。しかし、長い年月の間に、イスラエルの民はこれを忘れてしまいました。預言者エレミヤ(31章)は、神が「彼らはこの契約を破った」と告げると共に「新しい契約を結ぶ日が来る」と宣言していると告げました。この新しい契約が主イエスによって私たちに与えられたのです。
  主イエスの十字架で流された「贖罪の血」は、「新しい契約の血」でもあったのです。私たちは直接この血を振りかけられたのではありませんが、主イエスの名による洗礼を受け、主イエスに結ばれたのです。この洗礼によってキリストの十字架の死にあずかる者となったのです。すなわち、キリストによって神との新しい契約を結んだのです。パウロの言葉を借りて言うならば「キリストと共に死に、キリストと共に生きている。・・・罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きる」(ローマ6章)のです。
  私たちが神に祝福されて生きるようにと、神が御計画し、神から遣わされた神の独り子主イエスが真の人となって地上に来られたのです。なぜなら、すべての人は神に対して罪びとだったからです。神への献げ物は傷のないものでなければならないとされ、神に献げられる動物は入念な検査がされました。ですから、十字架にかかればどんな人間でも完全な献げ物になるかというと、そうではありません。すべての人は神への献げ物としては全く役にたたないのです。罪のない人が必要なのです。そこで、神は独り子を遣わし、罪のない人間に生まれさせ、完全な献げ物となさったのです。
  「父がお遣わしになった者を信じない」「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」の言葉は、悲しみに満ちて響いていますが、同時に、「私のもとへ来なさい」と招いてもいるのです。この招きに応え、主イエスと共に歩みましょう。


「メシアを待望する人々」 2023年12月3日の礼拝

2023年12月28日 | 2023年度
イザヤ書52章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 奮い立て、奮い立て
 力をまとえ、シオンよ。
 輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。
 無割礼の汚れた者が
 あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
 立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。
 首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。
 主はこう言われる。
 「ただ同然で売られたあなたたちは
 銀によらずに買い戻される」と。
  主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

 いかに美しいことか
 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
 救いを告げ
 あなたの神は王となられた、と
   シオンに向かって呼ばわる。
 その声に、あなたの見張りは声をあげ
 皆共に、喜び歌う。
 彼らは目の当たりに見る
   主がシオンに帰られるのを。
 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。
 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
 主は聖なる御腕の力を
   国々の民の目にあらわにされた。
 地の果てまで、すべての人が
   わたしたちの神の救いを仰ぐ。


ヨハネによる福音書7章25~31節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。


  イザヤ書52章は、バビロン捕囚、すなわち、ユダヤ人がバビロンに捕らえられていた時代に語られた言葉です。「ただ同然で売られたあなたたち」という言葉で、そのみじめさがあらわされ、しかもユダヤ人の神である主もバビロンに侮られていると言います。その状況を変えるべく、神はユダヤ人をエルサレムの地へ帰らせるというのです。この預言者の言葉の中に「その日には」という言葉が出てきます。ユダヤ人をバビロンから解放する日という意味です。それがいつであるかははっきり言われていませんが、神は必ずユダヤ人を解放するという約束をしているのです。この約束通り、神はユダヤ人を解放し、エルサレムに帰らせました。具体的には、ペルシア帝国がバビロンの支配領域をすべて領有し、バビロンに囚われていた人々をそれぞれ故国に帰らせたのですが、これを神の御業として受け止めたのです。こうして、イザヤ書52章は、神の約束が確かである証拠として、重んじられていきました。後の時代には、この言葉は、新たな神の救いの約束の言葉として理解されるようになり、特にメシアが遣わされる約束としても受け止められるようになったのです。
  さて、ヨハネ福音書7章25節以下は、仮庵祭の時、主イエスがエルサレムに行った時の出来事で、人々が主イエスを受け入れようとしない様子を記しています。彼らの「私たちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」は、主イエスを拒否する言葉です。そして、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」とヨハネ福音書は記すのです。
  ヨハネ福音書は「イエスの時」という言葉を多く使っています。主イエスが十字架にかかる時ということです。そして、神が定めた「時」という意味もあります。主イエスが十字架にかかることになったのは、弟子のイスカリオテのユダの裏切りによるとか、ユダヤ人たちが主イエスをユダヤ総督ピラトに引き渡したからだとか、ピラトがユダヤ人の圧力に負け、死刑の判決を下したからだと見ることができますが、ヨハネ福音書は、主イエスの十字架はすべての人を罪とその悲惨から救うために計画されていたことだと告げるのです。それを示すのが「イエスの時」という言葉です。主イエスが危険の状況から逃れたことを、ヨハネ福音書は「イエスの時はまだ来ていなかった」と何度も記し、十字架にかかる前夜、弟子たちの前で祈られた主イエスは「父よ、時が来ました」と言い、十字架にかけられる時が目前に迫っていると祈ったのです。
  人々はメシアを待ち望んでいました。しかし、彼らは自分たちが欲するメシアを待ち望んだのであって、それは神のご計画からは程遠かったのです。それが彼らが主イエスを殺害しようとした動機でもありました。
  ガラテヤ書に「時が満ちると、神は、その御子を女から生まれさせた」と記しています。クリスマスの出来事です。主イエスが地上に来られたのは、神が定めた時であり、十字架にかかられたのも神が定めた時でした。そして、私たちが教会に来るようになった時も、洗礼を受けた時も、神が私たちの救いの時を定めてくださった「時」なのです。私たちを救う御計画によって、主イエスによる救いにあずからせてくださったのです。


「王の職務」 2023年11月26日の礼拝

2023年12月25日 | 2023年度
エレミヤ書23章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。
  「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
  「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

 見よ、このような日が来る、と主は言われる。
 わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
 王は治め、栄え
 この国に正義と恵みの業を行う。
 彼の代にユダは救われ
 イスラエルは安らかに住む。
 彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。


ヨハネによる福音書18章33~40節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。



 主イエス・キリストの働きの特徴を言い表す言葉として「キリストの三職」という言葉があります。「王職」「祭司職」「預言者職」です。主イエスは、地上において王や祭司であったことはありません。預言者ということについても正式に預言者の職にあったわけではありませんが、人々からそのように見られたことはあったようです。
  主イエスが十字架にかかり、すべての人の罪をあがなったので、真の大祭司であったと理解し、「キリストの祭司職」と言われます。そして、主イエスは真の神の独り子であり、父なる神の御心をだれよりも正しく伝えたという意味で「キリストの預言者職」と言われます。
  さて、「キリストの王職」はどうでしょうか。ヨハネ福音書18~19章は、主イエスがユダヤ人たちに捕らえられ、ローマから派遣されたユダヤ総督ピラトに訴えられ、裁判にかけられるという場面です。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねています。これはユダヤ人たちが「イエスはユダヤ人の王と称して、人々を扇動している」と訴えたので、ピラトが確認をしたわけです。無実の罪で訴えられたことを知ったピラトでしたが、ユダヤ人たちの圧力に負け、十字架刑に処することになりました。その時「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きを掲げさせました。もちろん、ピラトが本気でイエスを王だと思ったわけではありません。ユダヤ人に対するピラトの精一杯の嫌がらせです。
  神は王であるという信仰は、旧約聖書の時代からありました。新約の時代に入り、弟子たちが主イエスをメシアと信じるようになり、地上に王国を建てると期待していました。ゼカリヤ書9章9節の「あなたの王がくる」やイザヤ書を根拠に主イエスを神から遣わされたメシア、王として立てられた方と受け止めるようになったのです。特に、十字架の死の後、よみがえられた主イエスに会った弟子たちは、地上に王国を建てるためではなく、全世界を神の救いにあずからせるために支配する王と理解するようになったのです。新約聖書はそのような信仰に立って記されているのです。
  ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねました。キリストを信じる人々、すなわちキリスト教会は、十字架にかかられた主イエスにこそ真の王の姿を見たのです。
  マタイ福音書には「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにおられるか」と尋ねられた当時のユダヤの王であったヘロデが、自分の地位を守ろうとして、多くの幼子を殺したと記されています。自分の地位を守るために多く人々殺すのが真の王なのか、むしろ、多くの人々を救うために自ら十字架にかかられた主イエスこそ真の王であると主張しているのです。権力を手中にするためではなく、すべての人を救うために十字架にかかられた主イエスを、真のメシアとして世に遣わし、死すらも支配する権威を、神は主イエスに与えたのです。この主イエスが私たちの王なのです。



「イエスは命のパン」 2023年11月19日の礼拝

2023年12月18日 | 2023年度
出エジプト記2章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

  レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
  その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」
「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」


ヨハネによる福音書6章27~35節(日本聖書協会「新共同訳」)

  朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
  そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。




  ヨハネ福音書には、主イエスがご自身を指していろいろの言葉を使って説明するという特徴があります。「わたしは世の光である」とか「わたしは良い羊飼いである」などで、今日の聖書の箇所の「わたしが命のパンである」もそのひとつです。これらの言葉を使って主イエスがどのような存在なのか、どのような働きをしているかを示しているのです。
  「命のパン」という言葉が出てきたきっかけは、ユダヤ人たちが「モーセの時代、自分たちの先祖が荒野においてマンナ、すなわち天からのパンを食べ、荒れ野で四十年もの間、養われた」と言ってきたことでした。これは、主イエスがモーセよりも偉いのかというユダヤ人たちの非難が根底にあるのです。そして、モーセ以上のしるし、すなわち奇跡を起こせるのかと詰め寄りました。
  それに対し、主イエスはまず、ユダヤ人たちの祖先が荒れ野で受けたパンはモーセではなく、神が与えたのだと指摘しました。その時、神を「わたしの父」と言い、神とご自身との関係を語りました。ユダヤ人たちはその時、その言葉を聞き流しましたが、このことは後に、神への冒涜だとして、主イエスを殺す動機となっていきます。
  主イエスは言葉を続けて「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と告げ、さらに「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と宣言されました。ユダヤ人たちはこの言葉を理解することができず、その心の中に、悪意が膨れ上がっていきました。
  それでは、私たちはどうなのでしょうか。私たちにとっても主イエスが「命のパン」であることを、しっかり心に留めておくべきでしょう。
  「主イエスがパン」であるということで真っ先に思い浮かぶことは聖餐式で配られるパンではないでしょうか。聖餐式は主イエスが十字架にかかる前の夜、弟子たちと食事をした時に、パンをとって「これは私の体である」と言われたことを再現しています。聖餐式のパンは主イエスの体に変化するわけではありませんが、この聖餐式のパンを受けることによって、私たちが主イエスと一体となっていることを思い起こすのです。とは言え、この聖餐式のパンを受けることによって私たちが主イエスと一体となるのではありません。すでに一体になっていることを思い起こさせ、確認させるのです。それでは、いつ私たちは主イエスと一体とされたのでしょうか。それは主イエスの名による洗礼を受けた時です。ローマ書6章に、その洗礼によって私たちが主イエスと一体となったと強調されています。聖餐式は、そのことを思い起こさせ、確認させる大切な事なのです。実際に日常でパンを食べることは、パンが私たちの体の中で私たちと一体になっていきます。その感覚を用いて、聖餐のパンを食することによって、主イエスと一体とされていることを信仰によって受け止めるのです。こうして、私たちは主イエスから命を与えられていること、主イエスに結ばれて生きていることを信仰によって受け止めるのです。


「神の民の始まりアブラハム」 2023年11月12日の礼拝

2023年12月11日 | 2023年度
創世記12章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主はアブラムに言われた。
 「あなたは生まれ故郷
 父の家を離れて
 わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし
 あなたを祝福し、あなたの名を高める
 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。
 地上の氏族はすべて
 あなたによって祝福に入る。」
  アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
  アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
  主はアブラムに現れて、言われた。
 「あなたの子孫にこの土地を与える。」
  アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
  アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。


ヨハネによる福音書8章51~59節(日本聖書協会「新共同訳」)

  はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。



  創世記は、3章から11章にかけて人間の罪がどんどん深刻になっていく様子を記しています。その罪に対して神が人類に厳しい罰を下したことも記していますが、その厳しい罰では、人間の罪の完全な解決にはならなかったことも明らかにしています。あたかも神がなさったことは無意味であったとか神が罪に勝つことができなかったように見えますが、厳しい罰では、罪の問題は根本的に解決することができないという罪の恐ろしさを告げているのです。
  罪と罪の悲惨さとが全地に広がっていった状況に対して、神は根本的な解決のために新たな行動を開始されます。それがアブラハムの選びです。神はアブラハムを祝福し、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と宣言しました。そして、アブラハムの子であるイサクと孫のヤコブにも同じような言葉が語られています。特にイサクとヤコブには「地上の諸族は、あなたの子孫によって祝福に入る」と言われていることから、彼らの子孫であるイスラエルにもこの言葉が与えられたと言えます。すべての人々が祝福されることは、神のご計画であり、そのためにイスラエルが神の民とされたことを示しているのです。
  旧約聖書には神の民イスラエルの歴史が記されていますが、彼らが神のご計画を成就させたとは記されていません。イスラエルは他の人々と同じように罪深く、また失敗を何度も繰り返しています。神がすべての人々を祝福するためにアブラハムを選んだことも無意味であったかのように見えます。しかし、神はイスラエルという民族そのものによって計画を成就させようとしたのではなく、彼らから救い主が現れるように計画なさったのです。その救い主がイエス・キリストです。
  マタイ福音書はイエス・キリストの系図を示すことから始めていますが、これは、キリストの血筋の良さを示すことを目的にはしていません。この系図はヨセフにつながっており、マリアにはつながっていないことから明らかです。マタイにある系図は血筋のつながりではなく、すべての人を祝福する神の計画がアブラハムから始まり、キリストに至ること、そのキリストによってすべての人が救われることを示しているのです。
  さて、ヨハネ福音書8章に、イエスとユダヤ人との論争が記されています。そこではユダヤ民族の父アブラハムとイエスとはどちらが立場が上なのかが争点となっています。ユダヤ人たちは自分たちがアブラハムの子孫であることを誇りにしていたので、当然、アブラハムの方が上で、そのアブラハムをないがしろにするかのようなイエスの言葉に我慢がならなかったのです。もちろん、イエスはアブラハムをないがしろにしたのではありません。ただ、アブラハムは自分の使命を心得ていたので、キリストが現れるのを待ち望んでいたと言ったのです。そして、その話の流れの中で、イエスはご自分が神の独り子であり、すべての人を救うために遣わされたことを匂わせたのです。そのときのユダヤ人たちは、イエスの言葉の意味を理解することができませんでした。そのユダヤ人たちによって、キリストは十字架にかけられることになり、キリストを信じる者は救われることになりました。この意味でも、ユダヤ人たちは神の計画を担ったと言えるでしょう。