列王記上22章6~17節(日本聖書協会「新共同訳」)
イスラエルの王は、約四百人の預言者を召集し、「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と問うた。彼らは、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えた。しかし、ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問うと、イスラエルの王はヨシャファトに答えた。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です。」ヨシャファトは、「王よ、そのように言ってはなりません」といさめた。そこでイスラエルの王は一人の宦官を呼び、「イムラの子ミカヤを急いで連れて来るように」と言った。
イスラエルの王はユダの王ヨシャファトと共に、サマリアの城門の入り口にある麦打ち場で、それぞれ正装して王座に着いていた。預言者たちは皆、その前に出て預言していた。ケナアナの子ツィドキヤが数本の鉄の角を作って、「主はこう言われる。これをもってアラムを突き、殲滅せよ」と言うと、他の預言者たちも皆同様に預言して、「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言った。
ミカヤを呼びに行った使いの者は、ミカヤにこう言い含めた。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」ミカヤは、「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と言って、王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた。そこで王が彼に、「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と言うと、彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」
ヨハネによる福音書5章36~47節(日本聖書協会「新共同訳」)
しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」
主イエスは「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)とおっしゃいました。ここでの「聖書」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書は主イエスよりずっと前に書かれていますので、主イエスの事が直接出てくるわけではありません。しかし、神の重要な御計画とそれが主イエスによって果たされることが、旧約聖書の中に示されているのです。
まず第一に、創世記12章に記されているアブラハムの選びです。神は「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と宣言され、すべての人を救う御計画が始まりました。マタイ福音書の最初にある主イエスの系図は、その御計画がアブラハムから始まり主イエスへと向かっていることを示しています。
第二に、贖罪の信仰です。これは旧約のレビ記に詳しく記されています。罪を犯した人は罪の償いとして動物を献げるよう定められています。罪を犯した人は自分の命をもって償わなければならず、その人の代わりとして動物がささげられたのです。一年に一度、大祭司が神殿の至聖所に入り、イスラエル全体の罪の贖いの儀式をしました。しかし、毎年行わなければならないところに、この贖罪が不完全であることをも示していました。主イエスは動物の血ではなく、ご自身の十字架で流された血によって完全な贖罪の業を行いました。それゆえ、もはや動物を献げる必要はなくなったのです。
第三に、契約です。出エジプト記24章に、シナイ山においてイスラエルの民が神と契約を結んだ様子が記されています。モーセが動物の血を鉢にとり、半分を祭壇に注ぎ、契約の書を読み上げました。民がこれを守ると約束すると、「これは主があなたたちと結ばれた契約の血である」と宣言し、鉢に残った動物の血を人々に振りかけたのです。血による契約、それは命を懸けて守ると誓った誓約です。しかし、長い年月の間に、イスラエルの民はこれを忘れてしまいました。預言者エレミヤ(31章)は、神が「彼らはこの契約を破った」と告げると共に「新しい契約を結ぶ日が来る」と宣言していると告げました。この新しい契約が主イエスによって私たちに与えられたのです。
主イエスの十字架で流された「贖罪の血」は、「新しい契約の血」でもあったのです。私たちは直接この血を振りかけられたのではありませんが、主イエスの名による洗礼を受け、主イエスに結ばれたのです。この洗礼によってキリストの十字架の死にあずかる者となったのです。すなわち、キリストによって神との新しい契約を結んだのです。パウロの言葉を借りて言うならば「キリストと共に死に、キリストと共に生きている。・・・罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きる」(ローマ6章)のです。
私たちが神に祝福されて生きるようにと、神が御計画し、神から遣わされた神の独り子主イエスが真の人となって地上に来られたのです。なぜなら、すべての人は神に対して罪びとだったからです。神への献げ物は傷のないものでなければならないとされ、神に献げられる動物は入念な検査がされました。ですから、十字架にかかればどんな人間でも完全な献げ物になるかというと、そうではありません。すべての人は神への献げ物としては全く役にたたないのです。罪のない人が必要なのです。そこで、神は独り子を遣わし、罪のない人間に生まれさせ、完全な献げ物となさったのです。
「父がお遣わしになった者を信じない」「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」の言葉は、悲しみに満ちて響いていますが、同時に、「私のもとへ来なさい」と招いてもいるのです。この招きに応え、主イエスと共に歩みましょう。
イスラエルの王は、約四百人の預言者を召集し、「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と問うた。彼らは、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えた。しかし、ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問うと、イスラエルの王はヨシャファトに答えた。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です。」ヨシャファトは、「王よ、そのように言ってはなりません」といさめた。そこでイスラエルの王は一人の宦官を呼び、「イムラの子ミカヤを急いで連れて来るように」と言った。
イスラエルの王はユダの王ヨシャファトと共に、サマリアの城門の入り口にある麦打ち場で、それぞれ正装して王座に着いていた。預言者たちは皆、その前に出て預言していた。ケナアナの子ツィドキヤが数本の鉄の角を作って、「主はこう言われる。これをもってアラムを突き、殲滅せよ」と言うと、他の預言者たちも皆同様に預言して、「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言った。
ミカヤを呼びに行った使いの者は、ミカヤにこう言い含めた。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」ミカヤは、「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と言って、王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた。そこで王が彼に、「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と言うと、彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」
ヨハネによる福音書5章36~47節(日本聖書協会「新共同訳」)
しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」
主イエスは「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)とおっしゃいました。ここでの「聖書」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書は主イエスよりずっと前に書かれていますので、主イエスの事が直接出てくるわけではありません。しかし、神の重要な御計画とそれが主イエスによって果たされることが、旧約聖書の中に示されているのです。
まず第一に、創世記12章に記されているアブラハムの選びです。神は「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と宣言され、すべての人を救う御計画が始まりました。マタイ福音書の最初にある主イエスの系図は、その御計画がアブラハムから始まり主イエスへと向かっていることを示しています。
第二に、贖罪の信仰です。これは旧約のレビ記に詳しく記されています。罪を犯した人は罪の償いとして動物を献げるよう定められています。罪を犯した人は自分の命をもって償わなければならず、その人の代わりとして動物がささげられたのです。一年に一度、大祭司が神殿の至聖所に入り、イスラエル全体の罪の贖いの儀式をしました。しかし、毎年行わなければならないところに、この贖罪が不完全であることをも示していました。主イエスは動物の血ではなく、ご自身の十字架で流された血によって完全な贖罪の業を行いました。それゆえ、もはや動物を献げる必要はなくなったのです。
第三に、契約です。出エジプト記24章に、シナイ山においてイスラエルの民が神と契約を結んだ様子が記されています。モーセが動物の血を鉢にとり、半分を祭壇に注ぎ、契約の書を読み上げました。民がこれを守ると約束すると、「これは主があなたたちと結ばれた契約の血である」と宣言し、鉢に残った動物の血を人々に振りかけたのです。血による契約、それは命を懸けて守ると誓った誓約です。しかし、長い年月の間に、イスラエルの民はこれを忘れてしまいました。預言者エレミヤ(31章)は、神が「彼らはこの契約を破った」と告げると共に「新しい契約を結ぶ日が来る」と宣言していると告げました。この新しい契約が主イエスによって私たちに与えられたのです。
主イエスの十字架で流された「贖罪の血」は、「新しい契約の血」でもあったのです。私たちは直接この血を振りかけられたのではありませんが、主イエスの名による洗礼を受け、主イエスに結ばれたのです。この洗礼によってキリストの十字架の死にあずかる者となったのです。すなわち、キリストによって神との新しい契約を結んだのです。パウロの言葉を借りて言うならば「キリストと共に死に、キリストと共に生きている。・・・罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きる」(ローマ6章)のです。
私たちが神に祝福されて生きるようにと、神が御計画し、神から遣わされた神の独り子主イエスが真の人となって地上に来られたのです。なぜなら、すべての人は神に対して罪びとだったからです。神への献げ物は傷のないものでなければならないとされ、神に献げられる動物は入念な検査がされました。ですから、十字架にかかればどんな人間でも完全な献げ物になるかというと、そうではありません。すべての人は神への献げ物としては全く役にたたないのです。罪のない人が必要なのです。そこで、神は独り子を遣わし、罪のない人間に生まれさせ、完全な献げ物となさったのです。
「父がお遣わしになった者を信じない」「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」の言葉は、悲しみに満ちて響いていますが、同時に、「私のもとへ来なさい」と招いてもいるのです。この招きに応え、主イエスと共に歩みましょう。