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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「聖霊で証印を押されている」 2017年6月4日の礼拝

2017年10月26日 | 2017年度
エゼキエル書9章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。主はまた彼らに言われた。「神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ。」彼らは出て行き、都の人々を打った。彼らが打っているとき、わたしはひとり残され、顔を伏せ、助けを求めて言った。「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか。」主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」そのとき、亜麻布をまとい腰に筆入れを着けている者が報告して言った。「わたしは、あなたが命じられたとおりにいたしました。」

エフェソの信徒への手紙1章13~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

  エフェソ書1章13節に「あなたがたは・・・聖霊で証印を押されたのです。」とあります。簡単に言いますと、はんこを押されているということです。この「証印」ということについて「印(しるし)」、「保証」、「所有」という三つの面を見ておきましょう。
  「しるし」。エゼキエル書9章には、神の使いの一人が人々に印を付け、他の使いはその印が付いていない人々を殺していくという神の裁きの様子が記されています。そのほかにも、しるしということでは、創世記4章のカインの額に付けられたしるし、また出エジプト記に記されている、イスラエルの人々の言えにしるしを付けることにより災いを免れたという出来事を思い起こすと良いでしょう。これらの目印のように、私たちも聖霊により証印を押され、神に属する者、神の保護を受けているという目印を身に受けているのです。
  「保証」。現代でも公式文書に判を押すことにより、内容の確かさを保証することがありますが、古代では粘土に印章を押したり、ヨーロッパでは蝋を溶かして印章を押して証印にしました。公式文書には、この印ロウがないと、本物とは認められず、効力は発揮されません。このロウを溶かして印を押すことは、封印する時にも使われました。そのため、「証印を押す」と訳されている言葉は「封印する」と翻訳されることもあります。封印されているものは、その中身が本物であることを保証しています。そこで、14節で「聖霊は、私たちのための保証である」と言われているのです。神は救いが確かであることの保証として、聖霊による証印を押してくださっているということです。その保証の目に見える印として、洗礼と聖餐があるのです。また、礼拝における聖書と説教も、私たちの救いの確かさを示しています。これもまた、しるしであると言って良いでしょう。洗礼と聖餐、また聖書が目に見えるしるしということが出来るのに対し、説教は目に見えないしるしと言うことが出来ます。いずれにしても、救いを確信させるために、神から与えられた保証です。
  「所有」。14節に「わたしたちは贖われて神のものとなった」とあります。私たちが神の所有であり、その支配下にあるということは、私たちの生き方を大きく変えてしまいます。すなわち、もはや自分のために生きるのではなく、私たちを所有しておられる神のために生きるということです。使徒パウロが「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14章7~8節)と断言しているとおりです。
  神は私たちを救い、愛してくださっています。その神を愛すること、神のために生きること、神と共に生きることは、単なる義務ではありません。私たちは自分の人生の意味、生きる意味をそこに見いだします。自分の人生の確かさを神との関係の中で確かめることができます。それ故、神と共に生きることは、私たちとって、欠くことのできない喜びなのです。




「言葉は、心にあふれていることが」 2017年5月28日の礼拝

2017年10月24日 | 2017年度
箴言16章23節(日本聖書協会「新共同訳」)

 知恵ある心は口の言葉を成功させ
 その唇に説得力を加える。


マタイによる福音書12章33~37節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

  箴言16章23節に、言葉を使うことについての教訓が記されていますが、その他にも多くの教訓や警告が、聖書の中に出てきます。それほど、言葉の使い方、あるいは言葉を制することが難しいということでしょう。
  マタイ福音書12章33~37節もそのような言葉についての教訓と見ることができますが、それだけではありません。この部分は、12章22節からの続きです。すなわち、悪霊に取りつかれている人を癒した主イエスの行為を、ファリサイ派の人々は悪霊の頭の力によるものだと批判したのです。これに対して、主イエスが反論されました。すなわち、その批判が誤っていること、聖霊の働きを見分けることができないばかりか、それを悪霊の働きだと非難することは、赦されることがないほどの大きな罪であるとおっしゃったのです。それに続いて、今日の主イエスの警告があるのです。
  木と実、倉とその中のものは、いずれも人の心と言葉の関係を指しています。中心部分は、34節の「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来る」です。
  ファリサイ派の人々が行った主イエスへの非難は、単なる言い間違いとか軽率だったということではありません。人間的に見れば、彼らが不信仰だったからとか、主イエスを嫉んだからと言うことができるでしょう。しかし、それは彼らの心から出た言葉であり、彼らの邪悪さが現れているのです。それは、罪を指摘された時のアダムが、言い逃れのためとは言え、その責任は神の方にあるとか、弟を殺したカインが「わたしは弟の番人でしょうか」と言って、神に「わたしに関わるな」とでも言いたげな態度をとる罪深さと言えます。これは、決してファリサイ派の人々だけの問題ではありません。全ての人間の問題なのです。ですから、この福音書を読んでいる私たちに対する警告として、主イエスの言葉を聞くことが大切です。
  私たちの言葉が邪悪なものとならないためには、口先だけを気にするとか、言葉の用い方という技術だけでは本当の解決にはなりません。言葉が心からあふれてくるものであるならば、私たちの心の中に良いもので満たしておくことが重要になってきます。詩編51編9節でうたわれているように、「わたしが清くなるように、洗ってください」と祈ることが大切です。そして、神の恵みの出来事に絶えず目を向け、恵みの言葉を聞き続けることです。そうすることにより、私たちは神から愛され守られているとの確信を持つことができるようになるのです。イスラエルの人々はエジプト脱出の後、荒野で40年間生活をしました。ただ神に養われ、守られての40年でした。彼らはその間、神の恵みを見、聞き続けたのです。そのような信仰の訓練を経て、約束の地に導かれて行ったのです。私たちの地上の生活も、このような信仰の訓練を受ける生活です。周囲の中には、神に逆らう人や邪悪な人が多くいることもあるでしょう。しかし、そのような人々に目を奪われ、心に邪悪なものを入れてはいけません。神の愛と恵みに目を向け、それを心に入れ、感謝しつつ生活すべきです。




「神の霊の力か? 悪霊の力か?」 2017年5月21日の礼拝

2017年10月23日 | 2017年度
イザヤ書49章24~25節(日本聖書協会「新共同訳」)

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。
 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

マタイによる福音書12章22~32節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」


  悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、主イエスによっていやされました。それを見た群衆が驚き、感嘆の声を上げた時、ファリサイ派の人々は「あれは悪霊の頭の力によって、悪霊を追い出している」と非難しました。ファリサイ派の人々は、主イエスが奇跡を起こさなかったと否定することはできませんでした。奇跡を認めざるを得なかったのです。その上で、その奇跡は悪霊の頭の力によると主張したのです。このような非難は、以前にもなされています。(9章32~34節) ファリサイ派の人々のこのような非難は1度や2度ではないということでしょう。
  福音書の中ではほとんどの場合、ファリサイ派の人々は、主イエスに敵対する人々として登場しています。このことから、彼らが不信仰な人々であると考えやすいのではないかと思いますが、決してそうではありません。彼らは律法を守ることに熱心であり、また、人々にも律法に従って生活させようと熱心だったのです。主イエスも「彼らの言うことを守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない」とおっしゃっています。(マタイ23章3節) 
  ファリサイ派の人々は、信仰熱心な人々でした。ただ、それはゆがんでおり、神の御心から遠く離れていたのです。それが、神の霊の力を悪霊の頭の力だと見誤らせていたのです。しかし、このことはファリサイ派の人々だけの問題ではありません。全ての人々の問題でもあります。
  悪霊を追い出した主イエスを見た群衆は「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったとあります。この群衆の反応は、ファリサイ派の人々よりもまだ良いように見えますが、その言葉には政治的メシアを求める人々の欲求が表れています。そのような期待に対して、主イエスは「誰にも言いふらさないように」(マタイ12章16節)と言って、退けてこられたのです。後に弟子たちは、主イエスを「神の子」(マタイ14章33節、16章16節)と告白しますが、この時の彼らも群衆と同じ期待を持っていました。ですから、彼らにも同じ警告がなされます。(マタイ16章21~24節、17章9節)
  主イエスが悪霊を追い出した出来事は、単に病気をいやしたということではありません。その出来事は、罪との戦いを象徴しており、またその罪に対する神の勝利を明らかにしています。その勝利は、主イエス・キリストが十字架にかかり、全ての人々の罪のあがないとなられたことによって成就しました。ですから、主イエスの地上での歩みは、悪霊払いと癒しで終わるのではなく、十字架と復活へと向かっているのです。主イエスは、「神の国はすでに来ている」と宣言されました。このように、福音書は、罪に対する神の勝利を告げる書として記され、伝えられてきたのです。


「信仰を持って、力強く生きよう」 2017年5月7日の礼拝

2017年10月21日 | 2017年度
ヨシュア記1章5~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

ヨハネによる福音書16章33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

  去る5月5日は八幡鉄町教会の創立96周年記念日で、今日は創立を記念しての礼拝となっています。毎年、この創立記念礼拝では、その年の教会標語、年間聖句によって礼拝を守っています。そのため、説教題は「信仰を持って、力強く生きよう」に、聖書の箇所はヨシュア記1章5~6節としました。
  「神が我々と共におられる」で、私たちが真っ先に思い起こすのは、主イエスの御降誕に際して、マタイ福音書がインマヌエル(神が我々と共におられる)という言葉を紹介しているところだろうと思います。「神が我々と共におられる」は、旧約から新約を貫いている信仰で、頻繁に出てくるわけではありませんが、大切な信仰の言葉です。ユダヤ人の祖先ヤコブやヨシュアが仕えていたモーセに対して、神ご自身が語られた言葉です。
  今日の聖書の箇所は、モーセが死に、後継者となったヨシュアに、神が語られた言葉です。
  民数記に、約束の地に近づいたイスラエルの人々が各部族から一人ずつ、全部で12人を偵察に出しました。40日後に帰ってきた彼らは、10人が「ここにすむ人々は強い人々が住んでいるから入っていくと滅ぼされる」と報告し、ヨシュアとカレブの二人は「この地は、確かに神が約束された土地に間違いないので、入っていくべきだ」主張しました。イスラエルの人々は、引き返すべきだという人0の言葉を聞き入れ、約束の地に入ろうとしませんでした。これまで、水や食べ物がないときに、神が食べ物や水を与えてきました。敵がおそってきたときにも神が守ってくださいました。そのような経験をしてきたにもかかわらず、彼らは神を信頼せず、約束の地に入ろうとしなかったのです。そこで、神は40年の間、荒野に住むように命じました。何もないところで、ただ神の恵みによって生きることを経験させ、神を信頼するという訓練をするためでした。その40年の時が過ぎ、いよいよ約束の地に入っていくこととなりました。この時、モーセは死に、ヨシュアが後継者となったのです。ヨシュアの心には、不安が満ちていたことでしょう。あのモーセでさえも、イスラエルの人々に悩まされていました。その後を引き継ぐことに不安を感じないわけにはいかなかったことでしょう。そのヨシュアに対して、神が「私があなた共にいる」とおっしゃってくださったのです。神がヨシュアを指導者としてたてた。だから、神がその使命を果たせるように、必要な力を与え、守り、導くとおっしゃっておられるのです。モーセもヨシュアも偉大な働きをしましたが、聖書は、彼らが優れていたからだとは言いません。神が彼らと共にいて、その使命を果たさせてくださったと、告げているのです。
  「信仰を持って、力強く生きる」とは、信仰者の知恵や力によってということではありません。人間の可能性を頼りにするのではなく、全能の神の可能性を見て生きることです。それ故、使命を果たしたとき、自分の力を誇ることは誤りですし、また、自分の弱さ罪深さを見て絶望することも誤りなのです。そのような弱く、罪深い私たちを愛し、救い、使命を与えてくださっているのは、私たちと共にいてくださる神なのです。ですから、私たちは、自分の弱さ、罪深さを語り、そのような私たちを愛し、救ってくださる神を喜び、誇ることが大切なのです。神の恵みと力によって、信仰生活をしましょう。


「主イエスについての預言者の証言」 2017年4月23日の礼拝

2017年10月20日 | 2017年度
イザヤ書42章1~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
 わたしが選び、喜び迎える者を。
 彼の上にわたしの霊は置かれ
 彼は国々の裁きを導き出す。
 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
 傷ついた葦を折ることなく
 暗くなってゆく灯心を消すことなく
 裁きを導き出して、確かなものとする。
 暗くなることも、傷つき果てることもない
 この地に裁きを置くときまでは。
 島々は彼の教えを待ち望む。

マタイによる福音書12章15~21節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、わたしの選んだ僕。
 わたしの心に適った愛する者。
 この僕にわたしの霊を授ける。
 彼は異邦人に正義を知らせる。
 彼は争わず、叫ばず、
 その声を聞く者は大通りにはいない。
 正義を勝利に導くまで、
 彼は傷ついた葦を折らず、
 くすぶる灯心を消さない。
 異邦人は彼の名に望みをかける。」

  14節に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」とあります。それを知った主イエスは、その場を立ち去られました。(15節) しかし、それは彼らから逃げたというよりは、彼らのためにいつまでも時間を割くつもりが無いということです。そして、病の人々の癒しに専念したのです。この時、主イエスは、自分のことを言いふらさないようにと戒めておられます。(16節) 福音書には、主イエスが、たびたびこのように戒められたことが記されています。おそらく、人々が、自分勝手な期待をふくらませることを警戒したのだろうと思われます。当時、メシア(キリスト)を待ち望む人々は多くいましたが、それは、ローマ帝国から独立し、王国を建設する王を期待していたのです。主イエスは、そのような政治的メシアとしてこられたのではありませんでした。全ての人々を罪から救うために、十字架への道を歩まれたのです。
  他の福音書と同じように、マタイ福音書も旧約聖書を引用しています。その引用の時、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉が付け加えられ、この福音書の特徴となっています。主イエスの出来事と旧約聖書に記されている言葉とが、深い関係にあることを告げているのですが、それだけではなく、主イエスの出来事が、神の御計画であると強調しているのです。
  マタイ12章18~21節は、イザヤ書42章1~4節の引用で、「僕(しもべ)の詩」と呼ばれるものの一つです。ここでの「僕」は、神に忠実に仕える召使いということで、その使命は、異邦人に正義を知らせることだというのです。これは社会正義ということではなく、神の義ということです。使徒パウロは、そのことについて次のように教えています。「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。・・・この神は、割礼のある者(ユダヤ人)を信仰のゆえに義とし、割礼のない者(異邦人)をも信仰によって義としてくださるのです。」(ローマ3:22、30) それ故、「異邦人は彼(イエス)の名に望みをかける」(マタイ12:21)のです。
  マタイ12章20節の「正義を勝利に導く」は、神の義が罪に勝利することであり、主イエスの十字架の贖いにより、それが実現されたのです。
  マタイ12章1~14節は、敵対する人々が主イエスを殺そうとの意志を固めたとあり、12章22~32節で、敵対する人々が、主イエスの御業を悪霊の頭の力によると非難したという出来事が記されています。マタイ福音書は、このような敵対する人々に囲まれながらも、主イエスが人々の救いのために、十字架への道を歩まれたと告げているのです。
  「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス)のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)と、使徒ペトロが告げたように、主イエスこそ唯一の救いであり、まことの望みなのです。それは、旧約聖書の時代から預言者を通して告げられ、今、私たちに与えられている救いであり、望みであり、神の恵みなのです。