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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「天の国の秘密」 2017年7月30日の礼拝

2017年11月02日 | 2017年度
イザヤ書6章9~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は言われた。
 「行け、この民に言うがよい
 よく聞け、しかし理解するな
 よく見よ、しかし悟るな、と。
 この民の心をかたくなにし
 耳を鈍く、目を暗くせよ。
 目で見ることなく、耳で聞くことなく
 その心で理解することなく
 悔い改めていやされることのないために。」

マタイによる福音書13章10~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
 『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍り、
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
   耳で聞くことなく、
 心で理解せず、悔い改めない。
 わたしは彼らをいやさない。』


  「何故、彼らにたとえを用いて話すのか」と尋ねた弟子たちに対して、主イエスは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、彼らには許されていないからだ」とお答えになりました。「天の国」とは天にある場所という意味ではありません。「国」という言葉には、「支配」という意味があり、「天の国」は神の支配ということです。神の支配とは、人間と人間が住む世界に対する神の働きかけということです。言い換えれば、罪にとらわれている人間を救う神のご計画であり、その働きです。
  「秘密」は、口語訳聖書で「奥義」と訳されていました。ギリシア語のミュステーリオンで、現代の「ミステリー」という言葉の語源になりました。これは、人間には知ることのできない神のみが知る知恵や知識のことです。
  人間を救う神のご計画が、何故秘密にされるのでしょうか。それは、神のご計画や働きを、人間は自分の都合の良いようにゆがめて解釈をするからです。旧約聖書の時代、預言者たちが伝えた神の言葉を、時の権力者や有力者たちが、ゆがめて解釈をしたり、預言者を迫害しました。
  では、何故弟子たちには天の国の秘密を悟ることが許されているのでしょうか。それは、彼らが、神のご計画とその働きを宣べ伝えるためです。実は、悟ることが許されていない人々というのは、全ての人が悟ることができないというのではなく、その中には、後になって悟る人もいるのです。しかし、それは人間の知恵や経験によるのではありません。それもまた、神の働きによることであり、神の選びによると言って良いでしょう。それともう一つ、神が定めた時ということが重要です。このような「時」を強調しているのはヨハネ福音書で、そこでは弟子たちについても、主イエスに関わる出来事が起こった時、彼らはその意味を悟ることができず、後になって悟ったと記しています。マタイ福音書において、先に悟ることを許された弟子たちは、神のご計画と働きを伝える役目を担っており、後に、それを多くの人々に伝えていく使命が与えられています。主イエスの十字架と復活の後に、弟子たちは全世界へと派遣され、「全ての民を私の弟子にしなさい」と命じられているのは、そのことを指し示しているのです。


「種を蒔く人のたとえ」 2017年7月23日の礼拝

2017年10月31日 | 2017年度
申命記7章6~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

マタイによる福音書13章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

  新共同訳聖書には小さなタイトルが付いていて、今日の聖書の箇所には、「『種を蒔く人』のたとえ」とあります。そして、次の頁には、そのたとえの説明があります。このたとえとその説明は、少し視点を変えてそれぞれ見ていきたいと思います。今日の1節から9節までは、種をまく「人」に焦点を合わせ、18節以下は、種をまかれた「土地」に焦点を合わせていきます。
  種まきが種をまきに行く。ある種は、道端に落ち、別の種は土の薄い石地に落ち、また、茨の中に落ちる種もあり、さらにまた他の種は、良い地に落ちるというたとえです。このような種を蒔く方法は特別なことではなくて、当時のパレスチナでは、ごく普通に見ることのできる風景でした。
  道端に落ちた種は、鳥が来て食べてしまい、土の薄い石地に落ちた種は、やがてひからびてしまい、また茨の中に落ちた種は、茨がふさいで、成長することができない。そういう様子を、主イエスの言葉を聞きながら、人々は連想したことでしょう。そして、良い地に落ちた種が育ち、実を結び、30倍、60倍、100倍にもなり、畑いっぱいに実る麦畑を思い浮かべたことでしょう。
  このたとえでは、中心は種を蒔く人にあります。様々な理由から実らない種があります。しかし、農夫はあきらめることなく、種を蒔くということです。そして、種はついに豊かに実を実らせるというのです。
  どのようなたとえでもそうですが、たとえで話されていることが全ての事柄を説明しているとは限りません。不自然なところも出てきます。しかし、語り手が最も語りたいことを伝えるために、細かな描写や正確な説明を無視するということはよくあることです。このたとえもそういう面があります。たとえば、この農夫は、種を蒔く以外の努力をしないのかとか、種の生長は偶然に任せているのかなど、問題にすればいろいろ出てきそうです。しかし、農夫が種を蒔き続けるというところに、この話の中心があるのです。そして、この農夫は神であり、主イエス・キリストを指しているのです。
  マタイ福音書は10章で12人の弟子を選んで各地に派遣し、そのための心得を語っていました。11~12章では、主イエスに対して無関心であったり、敵意を持つ人などが多く登場していました。13章はそれに続いて語られているのです。しかし、伝道の困難さを語ることが中心ではありません。そのような困難があるにもかかわらず、なお種を蒔くことをあきらめない農夫のように、主イエスは人々に福音を語ることをあきらめないということです。
  旧約聖書においても、イスラエルの人々の不信仰にもかかわらず、神が全ての人々を救うことを諦めることなく、働き続けてこられたことが記されています。主イエスも、ご自身を取り巻く多くの人の不信仰、敵意にもかかわらず、福音を語り続けられるのです。
  神は、私たちを救うことを決して諦めることはありません。諦めることのない神によって、私たちは救われているのです。


「信仰による神の家族」 2017年7月2日の礼拝

2017年10月30日 | 2017年度
詩編87編1d~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

 聖なる山に基を置き
 主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される
   シオンの城門よ。
 神の都よ
   あなたの栄光について人々は語る。
 「わたしはラハブとバビロンの名を
   わたしを知る者の名と共に挙げよう。
 見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも
   この都で生まれた、と書こう。
 シオンについて、人々は言うであろう
 この人もかの人もこの都で生まれた、と。」
 
 いと高き神御自身がこれを固く定められる。
 主は諸国の民を数え、書き記される
 この都で生まれた者、と。
 歌う者も踊る者も共に言う
 「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。

マタイによる福音書12章46~50節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」


  群衆に話しておられる主イエスのもとに、家族が訪ねてきました。「外に立っていた」とあるのは、家の外か群衆の外と考えられますが、それ以上に、主イエスの教えに聞き入っていた人々の中に入ろうとしなかったことを象徴していると言えます。ちょうど、人々をもてなすことに心を砕いていたマルタと同じです。彼女は、手伝わずに主イエスの話に聞き入っている妹マリアに不満を持ち、そのことを主イエスに訴えました。そのマルタに、主イエスは「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と、語られました。(ルカ10章38~42節)
  ご自身の家族が訪ねてきたことを聞いた主イエスは、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」と答えられ、そして、弟子たちの方を指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と、おっしゃったのです。一見、家族を蔑ろにする冷たい言葉に聞こえます。しかし、主イエスは家族を軽んじておられるのではありません。それを越えるものが到来したと告げておられるのです。
  ルカ11章27~28節に次のようなことが記されています。
  「ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』」。
  使徒パウロも次のように語っています。「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と。
  「わたしの天の父の御心を行う人」ということについては、主イエスが「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ福音書6章29節)と語っておられます。すなわち、主イエスを信じるということです。
  主イエスの教えを聞いていた人々は、特別優れた行動をしていたのではありません。しかし、主イエスはそれらの人々を指し示し、「ここに、私の家族がいる」とおっしゃったのです。「信仰による神の家族がここにいる」という宣言です。
  「信仰による」は、「キリストに結ばれて」ということです。キリストに結ばれる意味、大切さはローマの信徒への手紙6章やヨハネ福音書14章、15章にあるとおりです。主イエスは、私たちをご自身に結びあわせようと、「わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」とおっしゃってくださっています。そして、今、このキリストに結ばれて、私たちは神の家族とされているのです。この主イエスの招きは、周囲の人々にも向けられています。「キリストが、神の家族となるようにと、外に立って扉をたたいています。ぜひ、中に迎えてください」と伝えていきましょう。

「汚れた霊と空き家のたとえ」 2017年6月25日の礼拝

2017年10月27日 | 2017年度
箴言4章14~19節(日本聖書協会「新共同訳」)

 神に逆らう者の道を歩くな。
 悪事をはたらく者の道を進むな。
 それを避けよ、その道を通るな。
 そこからそれて、通り過ぎよ。
 彼らは悪事をはたらかずには床に就かず
 他人をつまずかせなければ熟睡できない。
 背信のパンを食べ、不法の酒を飲む。
 神に従う人の道は輝き出る光
 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。
 神に逆らう者の道は闇に閉ざされ
 何につまずいても、知ることはない

マタイによる福音書12章43~45節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」


  汚れた霊と空き家のたとえにある「汚れた霊が人から出ていく」というのは、自発的に出て行ったのではなく、追い出したと理解して良いでしょう。悪霊を追い出すだけでは十分ではなく、再び入り込まないように警戒せよという教えと考えることができます。
  このたとえは、12章38節以下の出来事から続いています。主イエスの言葉は律法学者とファリサイ派の人々に向けられていますが、それだけではなく、主イエスと一緒にいたであろう弟子たちにも向けられていたことでしょう。12章46節に、「イエスがなお群衆に話しておられたとき」とありますから、12章22節以下に登場していた群衆に向けても語っておられると考えてよいでしょう。
  そのマタイ12章22節以下には、主イエスが悪霊を追い出されたことが記されています。群衆は主イエスが悪霊を追い払われたのを見て驚き、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言い出し始めました。「ダビデの子」というのは、ダビデの子孫から現れると考えられていたメシアのことです。それを聞いたファリサイ派の人々はそれ打ち消して「悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」と主張しました。そのファリサイ派の人々に対して主イエスも反論し、今日の43節以下の教えにつながってくるのです。
  さて、22節以下から、当時の人々が汚れた霊に取りつかれると病気になると考えていたことがわかります。また、33節以下の警告も、悪霊が入り込んでいる時、人は悪霊によって言動が悪い状態になるとの警告もされています。また、いっそう深刻なのは、神の霊の働きを認めることができず、悪霊の仕業であると考えるようになることです。ちょうど、これまで登場してきた律法学者やファリサイ派の人々のようにです。
  聖霊の働きか、それとも悪霊の働きかを見分けることが大切です。使徒パウロも「サタンでさえ光の天使を装うのです。」(Ⅱコリント11章14節)と、警告しています。ヨハネの手紙一4章1節以下にも「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。・・・イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」とあります。
  さて、使徒パウロは、私たち信仰者を「聖霊が宿る神の神殿」(Ⅰコリント3章16~17節、6章19節、Ⅱコリント6章16節)と呼んでいます。私たちが聖霊の宿る神の神殿であるならば、私たち自身を悪霊のすみかとしないようにすべきであり、聖霊がいつも私たちの内に満たされているようにすることが大切です。具体的には、神に愛されていること、神の恵みを受けていること、神に守られ導かれていることを繰り返し確認し、神に感謝しつつ生活することです。そのためには、私たちの目が、いつも神に向けられていることが肝要です。
  聖霊が私たちに宿ることにより、その聖霊の力により、信仰による喜びと平和に満たされ、希望に満ちあふれるようになります。このように喜び、平和、希望が満たされることにより、私たちの言動は、人々を慰め、力づけることになり、私たち自身が人々を恵みの神へ導く道標となるのです。


「神の保証としてのしるし」 2017年6月18日の礼拝

2017年10月26日 | 2017年度
イザヤ書7章10~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
 しかし、アハズは言った。
 「わたしは求めない。
 主を試すようなことはしない。」
  イザヤは言った。
 「ダビデの家よ聞け。
 あなたたちは人間に
   もどかしい思いをさせるだけでは足りず
 わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
 それゆえ、わたしの主が御自ら
   あなたたちにしるしを与えられる。
 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
 その名をインマヌエルと呼ぶ。

マタイによる福音書12章38~42節(日本聖書協会「新共同訳」)

  すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」


  38節に「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った。」とあります。
  「すると」と訳されている言葉は、「その時」と訳すことができます。どちらにしても、前の出来事に引き続いて、次のことが起こったということをあらわしています。
  前の出来事とは、12章22節以下に記されている出来事です。すなわち、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を、主イエスが癒しましたが、ファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだ」と中傷しています。その直後に、律法学者とファリサイ派の人々が、「先生、しるしを見せてください」と要求したのです。

  彼らが求める「しるし」とは、神から遣わされたことのしるしということです。また、神の御心が示され、それが確かであることを保証するという意味もありました。先ほど司式者に読んでいただいたイザヤ書に出てきたしるしも、神の保証の意味で使われています。他にも、旧約聖書に多くのしるしが与えられた人々のことが出てきます。たとえば、エジプトに遣わされる時のモーセには、杖を蛇に変えたり、手を懐に入れると重い皮膚病にかかり、再び懐に入れると元に戻るなどの奇跡です。また、民数記には、エジプトを脱出したイスラエルの人々が約束の地に入る前に偵察を送った出来事が記されています。帰ってきた人々の報告を聞いたイスラエルの人々は、その地に入っていくことを拒みます。その時、神がモーセに向かって怒りをあらわにし、「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。・・・わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。わたしをないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない。」
  エジプトを脱出したイスラエルの人々は、敵の攻撃を受けた時に守られ、水や食料がない時にはそれらが与えられてきました。そのようにして、神はイスラエルの人々を守り、導いてこられたのです。そして、それを神が共にいてくださり、必ず守り導くしるしでもあったのです。しかし、約束の地に入ろうとする時、そこで経験するであろう困難が予想された時、彼らはその地に入っていくことを拒んだのです。神が見捨てるはずがないにもかかわらず、彼らは神を信頼することができなかったのです。信頼のないところには、しるしはしるしとしては働きません。信頼関係があればこそ、しるしは意味を持つのです。

  話をもとに戻しましょう。
  主イエスが悪霊を追い出した時、ファリサイ派の人々は、その奇跡を否定することはできませんでした。そこで彼らは、奇跡は神の力によってではなく、悪霊の頭の力によっておきたと中傷したのです。彼らは奇跡を見た目撃者です。しかし、その彼らが奇跡をしるしであると認めようとしないのです。そして、新たなしるしを求めたのです。
  彼らは主イエスを「先生」と呼んでいますが、心から尊敬しているのではなく、罠にかけようという意図を覆い隠す見せかけの飾りにすぎません。その彼らがしるしを求めるのは、信じるためではなく、信じない言い訳のためなのです。彼らは、たとえしるしを見せられても、それを認めようとはせず、また別のしるしを求めるだけです。そして、それが際限なく繰り返されていくのです。彼らのように、いたずらにしるしを求めることは、自らの不信仰を明らかにするだけです。ですから、主イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」と、おっしゃるのです。
  「よこしまで神に背いた時代の者たち」というのは、主イエスの時代の律法学者やファリサイ派の人々を指すだけではありません。いつの時代も、どの人々もよこしまで神に背いているのです。そのことについては、私たちも例外ではありません。私たちも民数記に記されているイスラエルの人々と同様に、神から救われ、守られ、導かれてきたにもかかわらず、新たな困難が生じると神に不平を言ってはいないでしょうか。
  いつの時代の人々も、よこしまで神に背いた時代の者たちなのです。しかし、それは、神の独り子がこの地上に来られた理由でもありました。すなわち、よこしまで神に背く人々を救おうと、御子イエス・キリストが来られたのです。
  マタイ福音書は、主イエスがお生まれになった時から命をねらわれていたと記し、伝道を開始された時には悪魔から誘惑を受けたと記しています。特に悪魔の誘惑は「神の子なら・・・」と言って、神の独り子であることを人々に証明するようにと誘っていました。人々にしるしを見せ、神の子であることを証明させようという誘惑です。
  主イエスが十字架におかかりになった時、罵る人々が悪魔と同じように神の子であることを証明しろと叫んでいます。
  「祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。「わたしは神の子だ」と言っていたのだから。』一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ27:41~44)
  皮肉なことに、彼らは主イエスが他人を救ったことを認めています。他人を救ったことは、彼らにとってしるしとはならなかったのです。もはや彼らが求めるしるしには、何の意味もないことは明らかです。
  しかし、それにもかかわらず、主イエスは、しるしを求めた律法学者やファリサイ派の人々に、しるしを与えないとはおっしゃいませんでした。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」と、おっしゃったのです。
  律法学者やファリサイ派の人々には、謎めいた言葉であったろうと思います。しかし、主イエスに救われ、この福音書を読んでいる私たちには明らかです。マタイ福音書が、主イエスが十字架にかかられ、三日目によみがえられたことを告げているからです。
  私たちは、ここで、使徒パウロが告げている言葉を思い起こすべきでしょう。
  「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。・・・なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(Ⅰコリント1章22節~2章2節)
  この手紙に記されている「十字架」には、キリストの復活も含まれています。主イエス・キリストの十字架と復活によって、神は人々を救うと定めてくださったのです。(Ⅰコリント1章18~21節)
  教会は、いつでも、誰に対しても十字架と復活のキリストを宣べ伝えます。それが、神から託された使命だからです。この宣教によって、私たちの救いが人間の知恵や力によるのではなく、神の力によることを明らかにするのです。そして、それは、私たちの救いが確かであることをも示しています。
  私たちの救いのために十字架にかかり、よみがえってくださったキリストは、私たちの隣人のためにも十字架にかかり、よみがえってくださいました。そして、この救いを宣べ伝えよと、その光栄ある使命を、私たちに託してくださったのです。