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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「あの方は復活された」 2017年4月16日の礼拝

2017年10月19日 | 2017年度
ホセア書13章14節(日本聖書協会「新共同訳」)

 陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。
 死から彼らを解き放つだろうか。
 死よ、お前の呪いはどこにあるのか。
 陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。
 憐れみはわたしの目から消え去る。


マタイによる福音書28章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

  毎年、イースターの時期になりますと、エルサレムにキリスト教の巡礼者や観光客でにぎわいます。イースターの二日前の金曜日に、主イエスがピラトの裁判を受け、鞭を打たれたと考えられる場所から聖墳墓教会までを、十字架を担いで行進する光景が見られます。
  主イエスが葬られた墓は、現在のエルサレムの聖墳墓教会の場所にあったとされ、ふだんでも観光客が多く訪れますが、受難週からイースターにかけては、特に多くの人が集まります。
  この聖墳墓教会は、4世紀半ば、コンスタンティヌス大帝が礼拝堂を建てたことがその始まりです。聖墳墓教会の大きなドーム状の建物の中央に、小さな立方体の建物が建っており、ここに主イエスの遺体が葬られたと考えられています。もともとは崖の一部に横穴を掘って作った墓でした。
  2世紀半ばにユダヤの反乱が起こり、ローマ皇帝は、ユダヤ人にエルサレムに入ることを禁じ、キリスト者がゴルゴタに近づかないようにと、土で埋め、異教の神殿を建てました。それが、コンスタンティヌス大帝の時に墓を掘り起こし、キリスト教の礼拝堂を建てたのです。
  墓跡は、全室と奥の部屋からなり、入り口は人一人が少しかがんで入ることが出来る大きさです。当時、ユダヤの墓は、その入り口を少し太めの円盤状の石を転がしてふさいでいました。マタイ28章2節の「石をわきへ転がし」とあるのは、墓の蓋の役目をする石の円盤のことです。この石の円盤は、とても重く、屈強な大人2~3人いなければ動かせないほどです。

  マタイ福音書では、女性たちが何故墓へ行ったのか、その理由が記されていません。おそらく、マルコ福音書が記しているように、主イエスの遺体に香油を塗るためだったのでしょう。そのマルコ福音書は、墓へ急いでいた女性たちが「『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた」と、記しています。彼女たちは、心が急くばかりで、墓をふさいでいる重い石のことを忘れていたに違いありません。マタイ福音書は、その女性たちの言葉を省略し、代わりに、地震が起き、天使が石を脇に転がしたと記しています。ここでは、女性たちの言葉は一切出てきません。その代わり、天使が女性たちに語った言葉が記されています。
  「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。急いで行って、弟子たちに『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』と告げなさい。」
  ここで、三つのことが言われています。「あの方は、ここにはおられない」ということ。第二に、主イエスが復活されたということ。第三に、弟子たちに、ガリラヤへ行き、そこで主イエスにお会いすることが出来るということです。この天使の言葉どおり、弟子たちはガリラヤで主イエスに会い、ひれ伏しました。そして「全世界に宣教せよ」と命じられたのです。マタイ福音書には記されていませんが、その後、主イエスは天に昇って行かれ、父なる神の右に座しておられるのです。
  主イエスは天に昇って行かれました。私たちは主イエスにお会いすることができないと諦めるしかないのでしょうか。それとも、エルサレムに巡礼すればお会いできるのでしょうか。否、たとえ、巡礼したとしても、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」とのメッセージが与えられるだけでしょう。
  となると、やはり、主イエスにお会いすることは出来ないのでしょうか。
  確かに、肉体の目によって主イエスを見ることは出来ませんが、信仰によってキリストと出会い、キリストに結ばれ、キリストと一体となることが出来ます。それは聖霊の働きによると言った方がよいかも知れません。主イエス・キリストの名による洗礼を受けることは、十字架と復活のキリストに結ばれることだと、使徒パウロはローマの信徒への手紙6章において語っています。肉体の目や耳やあるいは手で触れることによって主イエスを確かめることが重要なことではありません。目や耳や手で感じることは出来なくとも、キリストに結ばれ一体となっている事実こそが大切なのです。そのことを私たち自身に証しするのが信仰の告白です。聖書は、主イエス・キリストを告白することは人間の知恵や力、経験によるのではなく、父なる神の恵みよるのであり、聖霊の働きによると告げているからです。主イエス・キリストを信じ、告白する者の群れとして、キリスト教会を神が建ててくださったのです。このキリストの教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭です。主イエスご自身も、ご自身と教会、また信仰者との関係をぶどうの木とその枝の関係になぞらえています。
  キリストの体なる教会こそ、そして、神を礼拝するこの時こそ、キリストと出会う場所であり、出会いの時なのです。ある人は、この礼拝堂は、説教者と会衆とが聖餐台を囲む形だと説明しています。聖餐は、十字架と復活のキリストがここにおられることの目に見えるしるしであり、保証なのです。それは、聖餐式が行われない礼拝においても同じです。聖書とその解き明かしである説教が、十字架と復活のキリストを指し示すとき、聖餐と同じようにキリストの臨在のしるしとなり、保証となるのです。
  さて、マタイ福音書28章9節に、女性たちが弟子たちのところへ行く途中、主イエスに出会ったと記されています。このとき、主イエスは「おはよう」とおっしゃいました。普通に行われる挨拶の言葉ですが、「恵み」という言葉と深く関係し、ルカ福音書の受胎告知の場面では「おめでとう」と訳されています。そのことから、主イエスは単なる朝の挨拶をしたのではなく、復活の朝、主イエスが「おめでとう」と、女性たちを祝福したのだと言ってよいでしょう。
  この言葉を言う立場が逆のように見えます。しかし、主イエスが復活されたのは、この時の女性たちのためであったのです。ですから、主イエスは、彼女たちに「おめでとう」と祝福なさったのです。そして、主イエスが祝福されたのは彼女たちのためだけではありません。主イエスの復活は、全ての人々のための復活でした。全ての人々を祝福する出来事なのです。それ故、今、礼拝している私たちにも、主イエスは「私はあなたのために復活し、今、ここにいる。おめでとう」と祝福してくださっているのです。


「人々を罪から救うために」 2017年4月9日の礼拝

2017年10月18日 | 2017年度
詩篇130編7~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

 イスラエルよ、主を待ち望め。
 慈しみは主のもとに
 豊かな贖いも主のもとに。
 主は、イスラエルを
   すべての罪から贖ってくださる。

マタイによる福音書27章27~43節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
  兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」


  マタイ福音書には、形式的に整っているという特徴があります。たとえば、全体の構成が、物語の部分と主イエスの教えの部分とにはっきり区分されています。ここでは、主イエスの教えの部分を「説教」と呼んでおきます。
  物語の部分は6つに分かれており、それぞれの物語の部分の間に、主イエスの教え、5つの説教を挟み込んでいます。
  最初の物語の部分は1~4章で、主イエスの降誕から伝道開始までが扱われています。最後の物語の部分は26~28章で、主イエスの死と復活が扱われています。物語の最初が主イエスの降誕、最後が死と復活というように、内容が対称的になっています。
  この福音書が形式に整っているというのは、それだけではありません。最初と最後の物語は、同じキーワードによって関連づけられており、今日の聖書の箇所でも、いくつか出てきています。「ユダヤ人の王」と「神の子」という言葉です。
  まず「ユダヤ人の王」という言葉を見ていきましょう。
  マタイ福音書27章11節で、ピラトが、主イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねています。彼自身がそう思っているのではなく、ユダヤ人の指導者たちがそのように訴えたということでしょう。ピラトはそれを確認したに過ぎません。
  今日の聖書の箇所では、死刑を言い渡された主イエスが、ローマの兵士たちに取り囲まれている場面でこの言葉が出てきます。ローマの兵士たちは、主イエスを本当の王として扱ったわけではありません。主イエスを侮辱すると共に、ユダヤ人を侮辱しているのです。
  「ユダヤ人の王」という言葉が出てくる三つ目の場所は、十字架に掲げられていた「これはユダヤ人の王イエス」という罪状書きです。以上が、マタイ福音書の最後の物語の部分です。
  最初の物語の部分では、2章に出てきます。
  東から来た占星術の学者たちが、「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにおられますか」と尋ねたとあります。これを聞いたヘロデ大王は、主イエスを密かに殺そうと画策し、それがもとでベツレヘムの幼子たちが殺害されるという事件が起こりました。
  マタイ福音書は、「ユダヤ人の王はどこに?」と問いかけ、「それは十字架の上に」と、私たちの目を十字架のキリストへと向けさせるのです。

  次に、「神の子」という言葉を見てみましょう。
  マタイ福音書は、全体を通して、主イエス・キリストが神の独り子であることを告げています。また、それを前提に、福音書を記しているのです。ですから、主イエスが語られた教えや数々の奇跡に、神の独り子としての権威が現れていると告げているのです。ですから、この福音書の最初と最後の物語の部分で「神の子」という言葉が出てくるのも、偶然ではありません。
  マタイ福音書の最後の物語の部分で「神の子」という言葉が出てくるのは、人々が主イエスをののしる場面と、主イエスが息を引き取ったとき、ローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と呟いたという場面です。
  特に注目したいのは、十字架につけられた主イエスを罵った人々が「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」とか、「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」と、ののしっていることです。
  マタイ福音書の最初の物語の部分で「神の子」という言葉が出てくるのは、4章に記されているサタンの誘惑の場面です。そこでは3つの誘惑が記されており、最初の2つの誘惑で、「神の子なら、石をパンに変えろ」とか「神の子なら、高いところから飛び降りて見ろ」と、サタンがそそのかしています。
  ここで、サタンが意図していることは、「自分が神の子であることを示すために、食料を与えたり、普通の人間には出来ない奇跡を行って、人々の心を引きつけたらどうだ」ということです。すなわち、神の子として、何をするかという問題です。サタンは、人々の要求を満たすことで、神の子としての働きをしたら良いと唆しているのです。
  しかし、主イエスはサタンの誘惑を退けました。誘惑してきた相手がサタンだからというだけではありません。その言葉が神の御心から遠くはなれていたからです。
  サタンや十字架のキリストを罵る人々は、神の子であることを証明しろと唆します。しかし、その証明は、神ご自身がなさっておられるのです。洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時(3:17)と山上の変貌の出来事の時(17:5)に、「これは、わたしの愛する子」との宣言がなされています。17章5節では、それに加えて「これに聞け」との言葉が続いています。それは、主イエスに従えという意味で語られたのです。
  主イエスは、その後エルサレムへ向かいます。弟子たちには、そこで起きること、すなわちご自分が人々に殺され、よみがえることを告げられたのです。それは単に未来を予言したというのではなく、神のご計画を明らかにされたのです。
  では、神の御心はどうだったのでしょうか。それは、マタイ福音書1章で、天使がヨセフに告げた言葉に示されています。
  「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
  これこそ、主イエスが神の独り子として果たすべき使命だったのです。その罪からの救いという使命は、十字架で流されたキリストの血によって全ての人々の罪を贖うための犠牲となり、果たされたのです。これこそ、神の独り子が真の人間となられ、地上に来られた目的だったのです。このことの故に、主イエスはサタンの誘惑を退けたのです。そして、同じ誘惑が、十字架の時、再び主イエスに投げかけられたと、マタイ福音書は告げているのです。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」という、ののしる声がそれです。しかし、主イエスは人々を罪から救うために、その誘惑を退け、十字架による死をお受けになり、その使命を全うされたのです。

「キリストの血の責任」 2017年4月2日の礼拝

2017年10月17日 | 2017年度
創世記28章13~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  見よ、主が傍らに立って言われた。
  「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

マタイによる福音書27章15~26節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

  昔から、主イエスの十字架の死に責任があるのは誰かと議論されてきました。十字架にかけたローマに責任がある。無実の罪で訴えたユダヤ人にある。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダに責任があるなど、さまざまです。
  今日の聖書の箇所で、ユダヤ人たちが「その血の責任は、我々と子孫にある。」と言っています。この言葉には、ユダヤ人を迫害する口実として利用されてきたという歴史があります。南ドイツのある村で行われる受難劇の中で、この言葉が使われるのですが、ユダヤ人たちがこの劇からこの言葉を削除するよう、毎回抗議しています。それほどに、この言葉がユダヤ人たちを苦しめたということです。
  この言葉を根拠にユダヤ人を迫害することは、間違いであることは確かです。それは、神の御言葉を悪用しているに過ぎません。しかし、それでは、ユダヤ人たちのこの言葉をどう受けとめればよいのでしょうか。
  ユダヤ人は旧約以来の神の民です。彼らの言葉は、神の民として言葉なのです。キリストの十字架の死は、誰に責任があるのか。それは全ての人間にあるのです。神の民であるユダヤ人たちは、全人類の代表として宣言したのです。
  神は、全ての人間を救うために、神の独り子である主イエスを地上にお遣わしになりました。それは、罪の贖いとして十字架にかけ、全ての人間を罪から救うためだったのです。言いかえますと、全ての人々のために、主イエス・キリストが十字架にかかってくださったのです。ですから、主イエス・キリストの十字架の死の責任は、全人類にあるのです。もし、キリストの十字架の死に責任がないと言い張るならば、キリストの十字架の贖罪、神の救いにも無関係であると宣言していることになるのです。
  全ての人間に、「キリストの血の責任がある」。ユダヤ人は全人類の代表として、神の民の責任として、そのように宣言したのです。聖書はそのように私たちに告げているのです。ですから、この言葉を根拠に、ユダヤ人を迫害することは、全くの誤りです。「キリストの血の責任は、我々にある」という宣言が、神の民としての宣言であるならば、新しい神の民、新約の神の民、信仰による神の民であるキリスト教会もまた、同じように宣言をし、全ての人々に証をしなければなりません。それこそが、人々を神の救いに招くことになるのです。キリストの救いを先に受けた者として、人間の罪を語ると共に、その人々を罪から救って下さる神の恵みを語る責任があるのです。
  悪意からではなく、心からの感謝を込めて、「キリストの血の責任は、我々にある」と告白しましょう。