ホセア書13章14節(日本聖書協会「新共同訳」)
陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。
死から彼らを解き放つだろうか。
死よ、お前の呪いはどこにあるのか。
陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。
憐れみはわたしの目から消え去る。
マタイによる福音書28章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
毎年、イースターの時期になりますと、エルサレムにキリスト教の巡礼者や観光客でにぎわいます。イースターの二日前の金曜日に、主イエスがピラトの裁判を受け、鞭を打たれたと考えられる場所から聖墳墓教会までを、十字架を担いで行進する光景が見られます。
主イエスが葬られた墓は、現在のエルサレムの聖墳墓教会の場所にあったとされ、ふだんでも観光客が多く訪れますが、受難週からイースターにかけては、特に多くの人が集まります。
この聖墳墓教会は、4世紀半ば、コンスタンティヌス大帝が礼拝堂を建てたことがその始まりです。聖墳墓教会の大きなドーム状の建物の中央に、小さな立方体の建物が建っており、ここに主イエスの遺体が葬られたと考えられています。もともとは崖の一部に横穴を掘って作った墓でした。
2世紀半ばにユダヤの反乱が起こり、ローマ皇帝は、ユダヤ人にエルサレムに入ることを禁じ、キリスト者がゴルゴタに近づかないようにと、土で埋め、異教の神殿を建てました。それが、コンスタンティヌス大帝の時に墓を掘り起こし、キリスト教の礼拝堂を建てたのです。
墓跡は、全室と奥の部屋からなり、入り口は人一人が少しかがんで入ることが出来る大きさです。当時、ユダヤの墓は、その入り口を少し太めの円盤状の石を転がしてふさいでいました。マタイ28章2節の「石をわきへ転がし」とあるのは、墓の蓋の役目をする石の円盤のことです。この石の円盤は、とても重く、屈強な大人2~3人いなければ動かせないほどです。
マタイ福音書では、女性たちが何故墓へ行ったのか、その理由が記されていません。おそらく、マルコ福音書が記しているように、主イエスの遺体に香油を塗るためだったのでしょう。そのマルコ福音書は、墓へ急いでいた女性たちが「『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた」と、記しています。彼女たちは、心が急くばかりで、墓をふさいでいる重い石のことを忘れていたに違いありません。マタイ福音書は、その女性たちの言葉を省略し、代わりに、地震が起き、天使が石を脇に転がしたと記しています。ここでは、女性たちの言葉は一切出てきません。その代わり、天使が女性たちに語った言葉が記されています。
「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。急いで行って、弟子たちに『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』と告げなさい。」
ここで、三つのことが言われています。「あの方は、ここにはおられない」ということ。第二に、主イエスが復活されたということ。第三に、弟子たちに、ガリラヤへ行き、そこで主イエスにお会いすることが出来るということです。この天使の言葉どおり、弟子たちはガリラヤで主イエスに会い、ひれ伏しました。そして「全世界に宣教せよ」と命じられたのです。マタイ福音書には記されていませんが、その後、主イエスは天に昇って行かれ、父なる神の右に座しておられるのです。
主イエスは天に昇って行かれました。私たちは主イエスにお会いすることができないと諦めるしかないのでしょうか。それとも、エルサレムに巡礼すればお会いできるのでしょうか。否、たとえ、巡礼したとしても、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」とのメッセージが与えられるだけでしょう。
となると、やはり、主イエスにお会いすることは出来ないのでしょうか。
確かに、肉体の目によって主イエスを見ることは出来ませんが、信仰によってキリストと出会い、キリストに結ばれ、キリストと一体となることが出来ます。それは聖霊の働きによると言った方がよいかも知れません。主イエス・キリストの名による洗礼を受けることは、十字架と復活のキリストに結ばれることだと、使徒パウロはローマの信徒への手紙6章において語っています。肉体の目や耳やあるいは手で触れることによって主イエスを確かめることが重要なことではありません。目や耳や手で感じることは出来なくとも、キリストに結ばれ一体となっている事実こそが大切なのです。そのことを私たち自身に証しするのが信仰の告白です。聖書は、主イエス・キリストを告白することは人間の知恵や力、経験によるのではなく、父なる神の恵みよるのであり、聖霊の働きによると告げているからです。主イエス・キリストを信じ、告白する者の群れとして、キリスト教会を神が建ててくださったのです。このキリストの教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭です。主イエスご自身も、ご自身と教会、また信仰者との関係をぶどうの木とその枝の関係になぞらえています。
キリストの体なる教会こそ、そして、神を礼拝するこの時こそ、キリストと出会う場所であり、出会いの時なのです。ある人は、この礼拝堂は、説教者と会衆とが聖餐台を囲む形だと説明しています。聖餐は、十字架と復活のキリストがここにおられることの目に見えるしるしであり、保証なのです。それは、聖餐式が行われない礼拝においても同じです。聖書とその解き明かしである説教が、十字架と復活のキリストを指し示すとき、聖餐と同じようにキリストの臨在のしるしとなり、保証となるのです。
さて、マタイ福音書28章9節に、女性たちが弟子たちのところへ行く途中、主イエスに出会ったと記されています。このとき、主イエスは「おはよう」とおっしゃいました。普通に行われる挨拶の言葉ですが、「恵み」という言葉と深く関係し、ルカ福音書の受胎告知の場面では「おめでとう」と訳されています。そのことから、主イエスは単なる朝の挨拶をしたのではなく、復活の朝、主イエスが「おめでとう」と、女性たちを祝福したのだと言ってよいでしょう。
この言葉を言う立場が逆のように見えます。しかし、主イエスが復活されたのは、この時の女性たちのためであったのです。ですから、主イエスは、彼女たちに「おめでとう」と祝福なさったのです。そして、主イエスが祝福されたのは彼女たちのためだけではありません。主イエスの復活は、全ての人々のための復活でした。全ての人々を祝福する出来事なのです。それ故、今、礼拝している私たちにも、主イエスは「私はあなたのために復活し、今、ここにいる。おめでとう」と祝福してくださっているのです。
陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。
死から彼らを解き放つだろうか。
死よ、お前の呪いはどこにあるのか。
陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。
憐れみはわたしの目から消え去る。
マタイによる福音書28章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
毎年、イースターの時期になりますと、エルサレムにキリスト教の巡礼者や観光客でにぎわいます。イースターの二日前の金曜日に、主イエスがピラトの裁判を受け、鞭を打たれたと考えられる場所から聖墳墓教会までを、十字架を担いで行進する光景が見られます。
主イエスが葬られた墓は、現在のエルサレムの聖墳墓教会の場所にあったとされ、ふだんでも観光客が多く訪れますが、受難週からイースターにかけては、特に多くの人が集まります。
この聖墳墓教会は、4世紀半ば、コンスタンティヌス大帝が礼拝堂を建てたことがその始まりです。聖墳墓教会の大きなドーム状の建物の中央に、小さな立方体の建物が建っており、ここに主イエスの遺体が葬られたと考えられています。もともとは崖の一部に横穴を掘って作った墓でした。
2世紀半ばにユダヤの反乱が起こり、ローマ皇帝は、ユダヤ人にエルサレムに入ることを禁じ、キリスト者がゴルゴタに近づかないようにと、土で埋め、異教の神殿を建てました。それが、コンスタンティヌス大帝の時に墓を掘り起こし、キリスト教の礼拝堂を建てたのです。
墓跡は、全室と奥の部屋からなり、入り口は人一人が少しかがんで入ることが出来る大きさです。当時、ユダヤの墓は、その入り口を少し太めの円盤状の石を転がしてふさいでいました。マタイ28章2節の「石をわきへ転がし」とあるのは、墓の蓋の役目をする石の円盤のことです。この石の円盤は、とても重く、屈強な大人2~3人いなければ動かせないほどです。
マタイ福音書では、女性たちが何故墓へ行ったのか、その理由が記されていません。おそらく、マルコ福音書が記しているように、主イエスの遺体に香油を塗るためだったのでしょう。そのマルコ福音書は、墓へ急いでいた女性たちが「『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた」と、記しています。彼女たちは、心が急くばかりで、墓をふさいでいる重い石のことを忘れていたに違いありません。マタイ福音書は、その女性たちの言葉を省略し、代わりに、地震が起き、天使が石を脇に転がしたと記しています。ここでは、女性たちの言葉は一切出てきません。その代わり、天使が女性たちに語った言葉が記されています。
「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。急いで行って、弟子たちに『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』と告げなさい。」
ここで、三つのことが言われています。「あの方は、ここにはおられない」ということ。第二に、主イエスが復活されたということ。第三に、弟子たちに、ガリラヤへ行き、そこで主イエスにお会いすることが出来るということです。この天使の言葉どおり、弟子たちはガリラヤで主イエスに会い、ひれ伏しました。そして「全世界に宣教せよ」と命じられたのです。マタイ福音書には記されていませんが、その後、主イエスは天に昇って行かれ、父なる神の右に座しておられるのです。
主イエスは天に昇って行かれました。私たちは主イエスにお会いすることができないと諦めるしかないのでしょうか。それとも、エルサレムに巡礼すればお会いできるのでしょうか。否、たとえ、巡礼したとしても、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」とのメッセージが与えられるだけでしょう。
となると、やはり、主イエスにお会いすることは出来ないのでしょうか。
確かに、肉体の目によって主イエスを見ることは出来ませんが、信仰によってキリストと出会い、キリストに結ばれ、キリストと一体となることが出来ます。それは聖霊の働きによると言った方がよいかも知れません。主イエス・キリストの名による洗礼を受けることは、十字架と復活のキリストに結ばれることだと、使徒パウロはローマの信徒への手紙6章において語っています。肉体の目や耳やあるいは手で触れることによって主イエスを確かめることが重要なことではありません。目や耳や手で感じることは出来なくとも、キリストに結ばれ一体となっている事実こそが大切なのです。そのことを私たち自身に証しするのが信仰の告白です。聖書は、主イエス・キリストを告白することは人間の知恵や力、経験によるのではなく、父なる神の恵みよるのであり、聖霊の働きによると告げているからです。主イエス・キリストを信じ、告白する者の群れとして、キリスト教会を神が建ててくださったのです。このキリストの教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭です。主イエスご自身も、ご自身と教会、また信仰者との関係をぶどうの木とその枝の関係になぞらえています。
キリストの体なる教会こそ、そして、神を礼拝するこの時こそ、キリストと出会う場所であり、出会いの時なのです。ある人は、この礼拝堂は、説教者と会衆とが聖餐台を囲む形だと説明しています。聖餐は、十字架と復活のキリストがここにおられることの目に見えるしるしであり、保証なのです。それは、聖餐式が行われない礼拝においても同じです。聖書とその解き明かしである説教が、十字架と復活のキリストを指し示すとき、聖餐と同じようにキリストの臨在のしるしとなり、保証となるのです。
さて、マタイ福音書28章9節に、女性たちが弟子たちのところへ行く途中、主イエスに出会ったと記されています。このとき、主イエスは「おはよう」とおっしゃいました。普通に行われる挨拶の言葉ですが、「恵み」という言葉と深く関係し、ルカ福音書の受胎告知の場面では「おめでとう」と訳されています。そのことから、主イエスは単なる朝の挨拶をしたのではなく、復活の朝、主イエスが「おめでとう」と、女性たちを祝福したのだと言ってよいでしょう。
この言葉を言う立場が逆のように見えます。しかし、主イエスが復活されたのは、この時の女性たちのためであったのです。ですから、主イエスは、彼女たちに「おめでとう」と祝福なさったのです。そして、主イエスが祝福されたのは彼女たちのためだけではありません。主イエスの復活は、全ての人々のための復活でした。全ての人々を祝福する出来事なのです。それ故、今、礼拝している私たちにも、主イエスは「私はあなたのために復活し、今、ここにいる。おめでとう」と祝福してくださっているのです。