申命記29章28節(日本聖書協会「新共同訳」)
隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。
マタイによる福音書13章34~35節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
マタイ福音書13章は、5~7章の山上の説教、10章の弟子たちを伝道に派遣する際に語られた訓戒に続く第3の教えの部分になります。
この13章の特徴は、たとえが多いことです。しかも、いくつかの例外を除けば、「天の国は次のようにたとえられる」とか「天の国は~に似ている」という言葉から始まっています。このことから、13章は「天の国のたとえ」と呼ばれています。
34~35節はたとえそのものではなく、主イエスがたとえを用いて語る理由が記されています。たとえを語る理由ということでは、13章10~17節にもそれが記されていましたが、そこでは、主イエスご自身がその理由を語っているのに対し、34~35節は、福音書を記したマタイが説明しています。言い換えますと、たとえを語る主イエスを、福音書記者マタイがどのように解釈したかが記されているのです。マタイはマルコ福音書4章33~34節に記されている言葉を用いてもいるので、それと比較することで、マタイが福音書を読む読者に何を訴えようとしていたかがはっきりしてきます。
マタイ福音書13章34節は、マルコと同じく主イエスがたとえを用いて語られたという事実を伝えています。それに続く35節は、マルコと違っています。マルコ福音書は、主イエスは弟子たちには語られたたとえの意味を全て説明されたと記しているのに対し、マタイ福音書は主イエスがたとえを語られた理由を記しています。そして、その理由というのが、預言者が語っていたことが実現するためだったということです。
この「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉も、マタイ福音書に特徴的な言い方です。他の福音書でも旧約聖書の引用はありますが、「預言者の言葉が実現するため」という言葉はありません。
予言や占いは古くからあり、現代でも週刊誌や朝のテレビ番組で占いがよく出てきます。これから起こることを事前に知っておきたいという人間の心理があるからでしょう。そして、予言や占いは、当たったかはずれたかが注目されます。
しかし、マタイ福音書の「預言者の言葉が実現するため」という言葉は、予言が当たったということを告げているのではありません。神があらかじめ定めておられたことが実現したということを伝えているのです。これは、第一に、神がご計画されたということ、第二に、神がご計画通り実行され、実現されたということ、第三に、その実現の時は「今」であるということを示しているのです。
35節の「天地創造の時から隠されていたこと」は、その神のご計画のことを意味しており、全ての人々を救うというご計画です。このご計画の中に、私たちも含まれているのです。私たちが救われることは、神のご計画なのです。そして「その実現の時は、今や来ている」と、マタイ福音書は訴えているのです。
隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。
マタイによる福音書13章34~35節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
マタイ福音書13章は、5~7章の山上の説教、10章の弟子たちを伝道に派遣する際に語られた訓戒に続く第3の教えの部分になります。
この13章の特徴は、たとえが多いことです。しかも、いくつかの例外を除けば、「天の国は次のようにたとえられる」とか「天の国は~に似ている」という言葉から始まっています。このことから、13章は「天の国のたとえ」と呼ばれています。
34~35節はたとえそのものではなく、主イエスがたとえを用いて語る理由が記されています。たとえを語る理由ということでは、13章10~17節にもそれが記されていましたが、そこでは、主イエスご自身がその理由を語っているのに対し、34~35節は、福音書を記したマタイが説明しています。言い換えますと、たとえを語る主イエスを、福音書記者マタイがどのように解釈したかが記されているのです。マタイはマルコ福音書4章33~34節に記されている言葉を用いてもいるので、それと比較することで、マタイが福音書を読む読者に何を訴えようとしていたかがはっきりしてきます。
マタイ福音書13章34節は、マルコと同じく主イエスがたとえを用いて語られたという事実を伝えています。それに続く35節は、マルコと違っています。マルコ福音書は、主イエスは弟子たちには語られたたとえの意味を全て説明されたと記しているのに対し、マタイ福音書は主イエスがたとえを語られた理由を記しています。そして、その理由というのが、預言者が語っていたことが実現するためだったということです。
この「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉も、マタイ福音書に特徴的な言い方です。他の福音書でも旧約聖書の引用はありますが、「預言者の言葉が実現するため」という言葉はありません。
予言や占いは古くからあり、現代でも週刊誌や朝のテレビ番組で占いがよく出てきます。これから起こることを事前に知っておきたいという人間の心理があるからでしょう。そして、予言や占いは、当たったかはずれたかが注目されます。
しかし、マタイ福音書の「預言者の言葉が実現するため」という言葉は、予言が当たったということを告げているのではありません。神があらかじめ定めておられたことが実現したということを伝えているのです。これは、第一に、神がご計画されたということ、第二に、神がご計画通り実行され、実現されたということ、第三に、その実現の時は「今」であるということを示しているのです。
35節の「天地創造の時から隠されていたこと」は、その神のご計画のことを意味しており、全ての人々を救うというご計画です。このご計画の中に、私たちも含まれているのです。私たちが救われることは、神のご計画なのです。そして「その実現の時は、今や来ている」と、マタイ福音書は訴えているのです。