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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「隠されていたこと」 2017年9月10日の礼拝

2017年11月16日 | 2017年度
申命記29章28節(日本聖書協会「新共同訳」)

  隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。

マタイによる福音書13章34~35節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「わたしは口を開いてたとえを用い、
 天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

  マタイ福音書13章は、5~7章の山上の説教、10章の弟子たちを伝道に派遣する際に語られた訓戒に続く第3の教えの部分になります。
  この13章の特徴は、たとえが多いことです。しかも、いくつかの例外を除けば、「天の国は次のようにたとえられる」とか「天の国は~に似ている」という言葉から始まっています。このことから、13章は「天の国のたとえ」と呼ばれています。
  34~35節はたとえそのものではなく、主イエスがたとえを用いて語る理由が記されています。たとえを語る理由ということでは、13章10~17節にもそれが記されていましたが、そこでは、主イエスご自身がその理由を語っているのに対し、34~35節は、福音書を記したマタイが説明しています。言い換えますと、たとえを語る主イエスを、福音書記者マタイがどのように解釈したかが記されているのです。マタイはマルコ福音書4章33~34節に記されている言葉を用いてもいるので、それと比較することで、マタイが福音書を読む読者に何を訴えようとしていたかがはっきりしてきます。
  マタイ福音書13章34節は、マルコと同じく主イエスがたとえを用いて語られたという事実を伝えています。それに続く35節は、マルコと違っています。マルコ福音書は、主イエスは弟子たちには語られたたとえの意味を全て説明されたと記しているのに対し、マタイ福音書は主イエスがたとえを語られた理由を記しています。そして、その理由というのが、預言者が語っていたことが実現するためだったということです。
  この「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉も、マタイ福音書に特徴的な言い方です。他の福音書でも旧約聖書の引用はありますが、「預言者の言葉が実現するため」という言葉はありません。
  予言や占いは古くからあり、現代でも週刊誌や朝のテレビ番組で占いがよく出てきます。これから起こることを事前に知っておきたいという人間の心理があるからでしょう。そして、予言や占いは、当たったかはずれたかが注目されます。
  しかし、マタイ福音書の「預言者の言葉が実現するため」という言葉は、予言が当たったということを告げているのではありません。神があらかじめ定めておられたことが実現したということを伝えているのです。これは、第一に、神がご計画されたということ、第二に、神がご計画通り実行され、実現されたということ、第三に、その実現の時は「今」であるということを示しているのです。
  35節の「天地創造の時から隠されていたこと」は、その神のご計画のことを意味しており、全ての人々を救うというご計画です。このご計画の中に、私たちも含まれているのです。私たちが救われることは、神のご計画なのです。そして「その実現の時は、今や来ている」と、マタイ福音書は訴えているのです。

「『からし種』と『パン種』のたとえ」 2017年9月3日の礼拝

2017年11月09日 | 2017年度
箴言4章18節(日本聖書協会「新共同訳」)

 神に従う人の道は輝き出る光
 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。

マタイによる福音書13章31~33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
  また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」


  主イエスが語られた二つのたとえは、どちらも「天の国は~に似ている」という言葉で始まっています。前に話しましたように、「天の国」は場所を指すのではなく、神の支配、また神の働きを指していると見るべきでしょう。また、「からし種」と「パン種」のたとえは、両方とも小さなものが大きくなるということを伝えています。これらのことから、神の働きは小さなものから始まり、大きな成果を上げること、あるいは大きな影響を与えることを伝えようとしているのが分かります。
  神の民イスラエルは、アブラハムという一人の老人から始まりました。イスラエルの人々のエジプト脱出は、老人となった一人の人モーセから始められました。それと同じように、全世界の人々を救う神の働きは、一人の人から始まりました。もっとも、この一人の人は、神の独り子が人間となられた方でした。しかし、そのことは誰も悟ることができませんでした。最も身近にいた弟子たちもです。そして、全世界の人々を救うという神の御業は、世界の中心ではなく、世界の片隅で、ひっそりと始まりました。華々しさはなく、多数の人間の力によるということもありません。
  主イエスのたとえは、小さなものから始まったと告げていますが、それで終わってはおりません。大きく成長すると宣言されています。しかし、「からし種」や「パン種」が自然に成長したり、ふくらんだりしますが、神の御業が自然現象と同じようだと言っているのではありません。神の御業は、人間の目には見えない力によって多くの人々を救うことになるのです。もちろん、その神の御業に、私たち人間も参与させられますが、しかし、人間の力を頼りにしているということではありません。人間の救いは人間が犯した罪からの救いです。ですから、その救いについて、人間が全く関わらないということはないのです。しかし、その人間の救いは、人間には全く不可能なことなので、神がその救いのみ業を行ってくださるのです。その神の御業について、人間が傍観者であってはならないのです。ですから、神は人間をお用いになるのです。
  そして、人間を救うという神の御業は、人間の理解をはるかに超えております。すなわち、誰も納得できない方法で人々を救うとお決めになったのです。使徒パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」と告げています。人間に理解できる方法ではなく、理解も納得もできない方法を用いて、全ての人々を救うと、神はお決めになったのです。それは、私たちの救いが、神の力によることを確かにするためでした。そして、私たち人間が、自分で自分を救ったと、自分自身を誇ることがないようにするためなのです。神の力による救いですから、これほど確かな救いはありません。それ故、ただ神を誇ることこそ、私たちにふさわしいことなのです。


「麦の中の毒麦」 2017年8月27日の礼拝

2017年11月08日 | 2017年度
マラキ書3章17~19節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしが備えているその日に
 彼らはわたしにとって宝となると
 万軍の主は言われる。
 人が自分に仕える子を憐れむように
 わたしは彼らを憐れむ。
 そのとき、あなたたちはもう一度
 正しい人と神に逆らう人
 神に仕える者と仕えない者との
 区別を見るであろう。
 見よ、その日が来る
 炉のように燃える日が。
 高慢な者、悪を行う者は
 すべてわらのようになる。
 到来するその日は、と万軍の主は言われる。
 彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

マタイによる福音書13章24~30節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」


  マタイ福音書13章には、主イエスが語られた多くのたとえが出てきます。全てのたとえがそうだというのではありませんが、今日の「麦の中の毒麦」のたとえのように、「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始まるものがいくつかあるため、13章全体を「天の国のたとえ」と呼ぶことがあります。
  「天の国のたとえ」という言葉だけを聞きますと、天の国がいかにすばらしいものであるかが語られているのではないかと期待するところですが、しかし、実際には天の国のすばらしさが語られているわけではありません。今日の「麦の中の毒麦」もそうです。畑に蒔かれた良い麦の間にいつの間にか毒麦が混じっている様子が描かれています。このたとえを理解するために、まず、「天の国」という言葉の意味を理解しなくてはなりません。マタイ福音書で「天の国」となっているところは、他の福音書では「神の国」となっています。そして、聖書の中で「国」と訳されている言葉には、「支配」という意味もあります。ですから、「天の国」という言葉には「神の支配」という意味があるのです。
  良い種が蒔かれた畑に、いつの間にか毒麦が混じっていました。麦と毒麦は良い人間と悪い人間、救われる人間と滅びるべき人間を指していると理解することができるかも知れません。しかし、人間をそのように単純に二種類に分けることができるでしょうか。正しい人間であっても悪に染まることはありますし、悪人であっても悔い改めて神の御心に応えて生きていこうとする人間もあります。人間を単純に正しい人間と悪い人間に分けることはできないこと、また悪い人間が悔い改めて正しく生きることを、神が望んでおられることは、旧約聖書のエゼキエル書18章に記されています。
  もう一つ気になることは、このたとえの中の僕(しもべ)たちの言葉にある「どこから毒麦が入ったのか」ということです。すなわち、悪の起源ということです。しかし、このたとえでは「敵の仕業」と言われているだけです。サタンの仕業だと言うことです。それでは、サタンはどこから生じたのでしょうか。全ての被造物は、神が造られたと聖書は教えています。そうすると、サタンも神が造ったのかという疑問が起こります。このような悪の起源を議論することは昔からありました。しかし、今日のたとえは、悪の起源を論じてはいません。むしろ、私たちの周りは悪が満ちているという現実を指摘しているのです。そして、このたとえの中心は、「毒麦を抜くことは刈り入れの時まで待て」という主人の言葉です。
  この主人の言葉の重要性は、悪を見過ごしにすることにあるではありません。「毒麦を抜こうとして、良い麦まで抜いてしまうかも知れないから、今しばらくは待て。」という言葉こそ重要なのです。神は悪を見過ごしにすることはなさいません。神は少しでも多くの人を救おうとして忍耐しておられるのです。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペトロ3章9節)とあるとおりです。
  神の支配は、人を滅ぼすための支配ではありません。少しでも多くの人を救うための支配であり、忍耐なのです。そして、その神の忍耐によって、私たちは悔い改めの機会が与えられ、救われたのです。


「蒔かれた種のたとえ」 2017年8月20日の礼拝

2017年11月06日 | 2017年度
ホセア書10章11~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 エフライムは飼い馴らされた雌の子牛
 わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ。
 わたしはその美しい首の傍らに来た。
 エフライムに働く支度をさせよう。
 ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く。
 恵みの業をもたらす種を蒔け
 愛の実りを刈り入れよ。
 新しい土地を耕せ。
 主を求める時が来た。
 ついに主が訪れて
 恵みの雨を注いでくださるように。

マタイによる福音書13章18~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」


  マタイ13章18~23節は、マタイ13章3~9節にあるたとえの解説という形を取っています。しかし、3~9節が種を蒔く人に焦点が合わせているのに対し、18~23節は蒔かれた種に焦点が合わされています。
  18~23節では、「種」は「御言葉」であり、種が蒔かれた道端、石だらけの所、茨の中、良い土地というのは、御言葉を聞いた人々であると言われています。そして、御言葉を聞いた人がどういう生活をすべきかを教えています。
  この18~23節の言葉はマルコ福音書にもあり、マタイ福音書はそのマルコ福音書の言葉を利用したと考えられます。マタイ福音書がこのたとえを記したのは、マルコ福音書にあるからという理由だけではなく、信仰者が信仰生活をする上でとても重要だと考えたからに違いありません。マタイ福音書は特に信仰教育的な性格を持った福音書です。それは、具体的にどのような生活をすべきか、またどういう試練があるかを警告しているところからそのように言われています。18~23節は、そのような信仰生活についての教訓、また警告として重要な意味があるのです。
  蒔かれた種のたとえは、4つの場所が取り上げられています。これは4種類の人間ということではありません。御言葉を聞いても信仰に至らなかった人や、信仰を持った人がいつしかそれを失ってしまっているという現実を告げているのです。しかし、その人たちを非難したり、見下したりすることに目的があるのではありません。むしろ、私たちが住む世界は、御言葉を取り去ったり、枯らしたり、覆い塞いだりするもので満ちているという警告なのです。
  この教えを聞いた時、百倍、六十倍、三十倍もの実を結ぶ良い土地になるにはどうしたらよいのかを知りたいと思わずにはいられません。しかし、今日の教えの中に具体的なことは何も告げられていません。様々な試練があることを警告することに目的があるからでしょう。とは言え、それは私たちを失望させることが目的ではありません。たとえの最後の部分で実を豊かに結ぶ情景を描くことにより、救われている私たちがいかに豊かであるかを語っているのです。重要なことは、これから良い土地になるためにはどうしたらよいのかということではなく、いま、信仰を持って生活をしている私たちは、実を豊かに結ぶ良い土地とされているということなのです。これは私たちの努力によるということではありません。神の恵みなのです。今日の教えは、それを告げることに目的があるわけではないので、そのことは直接語られてはいませんが、マタイ福音書全体で、それが告げられています。そのことは、キリストへの信仰告白をしたペトロに、主イエスが「あなたにこのことを現したのは、私の天の父なのだ」(マタイ16章17節)とおっしゃったことや、「誰が救われるだろうか」と絶望しかけた弟子たちに「人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19章25~26節)という主イエスの言葉に現れています。
  地上での信仰生活は、罪が満ちた世界の中での生活であり、御言葉を奪い去ろうとする力が働いてます。しかし、それにもかかわらず、神の恵みによって私たちは信仰が与えられ、守られているのです。マタイ福音書全体は、そのことを力強く告げているのです。


「あなたがたは真に幸いである」 2017年8月6日の礼拝

2017年11月04日 | 2017年度
創世記12章1~3節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主はアブラムに言われた。
 「あなたは生まれ故郷
 父の家を離れて
 わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし
 あなたを祝福し、あなたの名を高める
 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。
 地上の氏族はすべて
 あなたによって祝福に入る。」

マタイによる福音書13章16~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

  主イエスは、たとえで人々に教える理由を、彼らには天の国の秘密を悟ることが許されていないからだと説明されました。(マタイ13章11節)
  天の国の秘密とは、全ての人々を救う神のご計画のことです。そして、弟子たちには、それを悟ることが許されているともおっしゃっておられます。この言葉に続いて今日の言葉があります。「あなたがたは見ているから、聞いているから幸いだ」と。また、「多くの預言者や正しい人たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」。全ての人々を救う神のご計画を、弟子たちは見ているということです。それ故、幸いだと言うのです。
  全ての人々を救う神のご計画を、預言者たちや正しい人たちは見たかったとありますが、彼らの気持ちを知るすべはありません。主イエスがおっしゃっておられるのは、彼らが神のご計画に深く関わっていたことです。実は、旧約聖書は、全ての人を救おうとして、神が長い年月をかけ準備してこられたことを示しているのです。そして、主イエス・キリストの到来こそ、そのご計画の、その歴史の頂点なのです。旧約という歴史は、主イエス・キリストに向かって時を刻んでいたのです。
  主イエスは、弟子たちに、「あなたがたは神の救済の歴史の頂点に立っている。この時のために神が働いてこられた成果を、あなたがたは見ている」と宣言されたのです。なんと幸いなことでしょうか。
  私たち信仰者は、同じ時代を生きた弟子たちは幸いだを思い、また、主イエスの顔を拝み、その教えを直接聞くことができた弟子たちをうらやましく思います。しかし、同じ時代に生きた人々が皆幸いかというとそうではありません。なぜなら、同じ時代の人々の中には、主イエスに無関心であったり、敵対した人も多くいたからです。主イエスの弟子たちが特別優れていたというわけではありません。彼らは、主イエスを証しする者として選ばれたにすぎません。ただ単に同じ時代に生きたとか、人間的なつながりがあるとかが重要なのではありません。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12章50節)、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11章28節)と、主イエスはおっしゃいました。神は私たちを救おうと、長い年月をかけてその準備を整えてこられたのです。そして、主イエスの十字架と復活により、私たちをお救いくださいました。それ故に、主イエスを信じ、主イエスに結ばれている私たちこそ、まことに幸いなのです。