イザヤ書6章9~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」
マタイによる福音書13章53~58節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
マタイ福音書4章1~11節に、主イエスがサタンから誘惑を受けた事が記されています。「神の子なら石をパンに変えてみろ」、「神の子なら高いところから飛び降りてみろ」などという誘惑です。これは神の子であることを証明できるかどうかということが目的ではなく、伝道するには、人々が満足するように食料を与え、奇跡を行う事が有効だと誘惑しているのです。それが人々の求める救い主だというのです。その誘惑を主イエスは退けられました。奇跡は人々の興味を集めることが出来るかも知れませんが、真実に人々を救うことにはならないからです。人々を救うには、神の独り子がすべての人間の罪の贖いとして十字架にかかる以外にはありません。これが神の御心であり、また神の独り子としての主イエスの決意でした。
今日の聖書に出てくるナザレの人々の反応は、奇跡は必ずしも人々を救いへと導くとは限らないという実例です。彼らは主イエスが奇跡を行っていたことを知っていました。また、主イエスから直接教えを聞いたのです。しかも、彼らはそのすばらしさを認めているのです。しかし、信仰には至りませんでした。その事実をマタイ福音書が告げているのです。彼らと同じように奇跡を見、教えを聞きながら信仰に至らない人々が多くいることを、この福音書は語っています。もちろん、そういう人々ばかりではありませんが、マタイ福音書は人々の不信仰を繰り返し語っているのです。それほどに人間の罪は深く重いということを告げているのです。この罪の問題が解決されなければ、主イエスの力強い奇跡、教えも、彼らには届かないのです。
マタイ11章20節以下で、主イエスが不信仰の町々を責められたことが記されています。また、12章22節以下で、主イエスが奇跡を起こしたのを見た人々の中に、奇跡は神の力によるのではなく悪霊の頭の力によると非難した人々がいたことを記しています。ナザレの人々は主イエスを非難したわけではありませんけれども、しかし、不信仰であったことに違いはありません。
主イエスはサタンの誘いに乗って奇跡を行ったわけではありません。人々の苦しみを見かねて病を癒し、パンを与える奇跡をなさったことがあります。表面的にはサタンの誘惑に乗っているように見えます。しかし、人々の関心を集めたり、神の子であることを証明しようとしたのではありません。マタイ福音書は、サタンの主張が見当はずれで、神の子としての真の働きは、十字架にあることを訴えているのです。
マタイ福音書では、ナザレの人々の不信仰は、天の国のたとえが記された後に配置されています。13章44~46節に、畑に隠されている宝を見つけた人、高価な真珠を一つ見つけた人が、自分の全財産を売り払ってでもその宝を獲得しようとすると記されています。ナザレの人々は、このたとえに登場する人々と真逆なのです。目の前に掛け替えのない宝があることを認めていながら、それを獲得しようとしない人々の様子、救い主の到来に対して傍観者に留まっている人々の様子を記し、この福音書を読んでいる私たちに、あなたはどうなのか?と、問うているのです。傍観者ではなく、到来した救い主のもとに来なさい。あなたが獲得すべき真の宝、救いがここにあると訴えているのです。
主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」
マタイによる福音書13章53~58節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
マタイ福音書4章1~11節に、主イエスがサタンから誘惑を受けた事が記されています。「神の子なら石をパンに変えてみろ」、「神の子なら高いところから飛び降りてみろ」などという誘惑です。これは神の子であることを証明できるかどうかということが目的ではなく、伝道するには、人々が満足するように食料を与え、奇跡を行う事が有効だと誘惑しているのです。それが人々の求める救い主だというのです。その誘惑を主イエスは退けられました。奇跡は人々の興味を集めることが出来るかも知れませんが、真実に人々を救うことにはならないからです。人々を救うには、神の独り子がすべての人間の罪の贖いとして十字架にかかる以外にはありません。これが神の御心であり、また神の独り子としての主イエスの決意でした。
今日の聖書に出てくるナザレの人々の反応は、奇跡は必ずしも人々を救いへと導くとは限らないという実例です。彼らは主イエスが奇跡を行っていたことを知っていました。また、主イエスから直接教えを聞いたのです。しかも、彼らはそのすばらしさを認めているのです。しかし、信仰には至りませんでした。その事実をマタイ福音書が告げているのです。彼らと同じように奇跡を見、教えを聞きながら信仰に至らない人々が多くいることを、この福音書は語っています。もちろん、そういう人々ばかりではありませんが、マタイ福音書は人々の不信仰を繰り返し語っているのです。それほどに人間の罪は深く重いということを告げているのです。この罪の問題が解決されなければ、主イエスの力強い奇跡、教えも、彼らには届かないのです。
マタイ11章20節以下で、主イエスが不信仰の町々を責められたことが記されています。また、12章22節以下で、主イエスが奇跡を起こしたのを見た人々の中に、奇跡は神の力によるのではなく悪霊の頭の力によると非難した人々がいたことを記しています。ナザレの人々は主イエスを非難したわけではありませんけれども、しかし、不信仰であったことに違いはありません。
主イエスはサタンの誘いに乗って奇跡を行ったわけではありません。人々の苦しみを見かねて病を癒し、パンを与える奇跡をなさったことがあります。表面的にはサタンの誘惑に乗っているように見えます。しかし、人々の関心を集めたり、神の子であることを証明しようとしたのではありません。マタイ福音書は、サタンの主張が見当はずれで、神の子としての真の働きは、十字架にあることを訴えているのです。
マタイ福音書では、ナザレの人々の不信仰は、天の国のたとえが記された後に配置されています。13章44~46節に、畑に隠されている宝を見つけた人、高価な真珠を一つ見つけた人が、自分の全財産を売り払ってでもその宝を獲得しようとすると記されています。ナザレの人々は、このたとえに登場する人々と真逆なのです。目の前に掛け替えのない宝があることを認めていながら、それを獲得しようとしない人々の様子、救い主の到来に対して傍観者に留まっている人々の様子を記し、この福音書を読んでいる私たちに、あなたはどうなのか?と、問うているのです。傍観者ではなく、到来した救い主のもとに来なさい。あなたが獲得すべき真の宝、救いがここにあると訴えているのです。