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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「故郷の人々の不信仰」  2017年11月5日の礼拝

2018年01月01日 | 2017年度
イザヤ書6章9~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は言われた。
 「行け、この民に言うがよい
 よく聞け、しかし理解するな
 よく見よ、しかし悟るな、と。
 この民の心をかたくなにし
 耳を鈍く、目を暗くせよ。
 目で見ることなく、耳で聞くことなく
 その心で理解することなく
 悔い改めていやされることのないために。」


マタイによる福音書13章53~58節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。


  マタイ福音書4章1~11節に、主イエスがサタンから誘惑を受けた事が記されています。「神の子なら石をパンに変えてみろ」、「神の子なら高いところから飛び降りてみろ」などという誘惑です。これは神の子であることを証明できるかどうかということが目的ではなく、伝道するには、人々が満足するように食料を与え、奇跡を行う事が有効だと誘惑しているのです。それが人々の求める救い主だというのです。その誘惑を主イエスは退けられました。奇跡は人々の興味を集めることが出来るかも知れませんが、真実に人々を救うことにはならないからです。人々を救うには、神の独り子がすべての人間の罪の贖いとして十字架にかかる以外にはありません。これが神の御心であり、また神の独り子としての主イエスの決意でした。
  今日の聖書に出てくるナザレの人々の反応は、奇跡は必ずしも人々を救いへと導くとは限らないという実例です。彼らは主イエスが奇跡を行っていたことを知っていました。また、主イエスから直接教えを聞いたのです。しかも、彼らはそのすばらしさを認めているのです。しかし、信仰には至りませんでした。その事実をマタイ福音書が告げているのです。彼らと同じように奇跡を見、教えを聞きながら信仰に至らない人々が多くいることを、この福音書は語っています。もちろん、そういう人々ばかりではありませんが、マタイ福音書は人々の不信仰を繰り返し語っているのです。それほどに人間の罪は深く重いということを告げているのです。この罪の問題が解決されなければ、主イエスの力強い奇跡、教えも、彼らには届かないのです。
  マタイ11章20節以下で、主イエスが不信仰の町々を責められたことが記されています。また、12章22節以下で、主イエスが奇跡を起こしたのを見た人々の中に、奇跡は神の力によるのではなく悪霊の頭の力によると非難した人々がいたことを記しています。ナザレの人々は主イエスを非難したわけではありませんけれども、しかし、不信仰であったことに違いはありません。
  主イエスはサタンの誘いに乗って奇跡を行ったわけではありません。人々の苦しみを見かねて病を癒し、パンを与える奇跡をなさったことがあります。表面的にはサタンの誘惑に乗っているように見えます。しかし、人々の関心を集めたり、神の子であることを証明しようとしたのではありません。マタイ福音書は、サタンの主張が見当はずれで、神の子としての真の働きは、十字架にあることを訴えているのです。
  マタイ福音書では、ナザレの人々の不信仰は、天の国のたとえが記された後に配置されています。13章44~46節に、畑に隠されている宝を見つけた人、高価な真珠を一つ見つけた人が、自分の全財産を売り払ってでもその宝を獲得しようとすると記されています。ナザレの人々は、このたとえに登場する人々と真逆なのです。目の前に掛け替えのない宝があることを認めていながら、それを獲得しようとしない人々の様子、救い主の到来に対して傍観者に留まっている人々の様子を記し、この福音書を読んでいる私たちに、あなたはどうなのか?と、問うているのです。傍観者ではなく、到来した救い主のもとに来なさい。あなたが獲得すべき真の宝、救いがここにあると訴えているのです。


「天の国のことを学んだ学者」  2017年10月22日の礼拝

2017年12月26日 | 2017年度
エレミヤ書1章9~10節 (日本聖書協会「新共同訳」)

 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ
 主はわたしに言われた。
 「見よ、わたしはあなたの口に
 わたしの言葉を授ける。
 見よ、今日、あなたに
 諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
 抜き、壊し、滅ぼし、破壊し
 あるいは建て、植えるために。」

マタイによる福音書13章51~52節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

  マタイ福音書13章の天の国のたとえと呼ばれる主イエスの教えの最後の部分になります。
  主イエスは弟子たちに今まで語られたことを理解したかどうかを確認し、「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」とおっしゃいました。
  「天の国」は、神の支配と理解して良いと思います。それは権力と言っても良いのですが、全ての人々を救う神のご計画であり、それを遂行する神の力と言った方がより良いでしょう。
  マタイ13章では、全ての人々を救うために神がたゆまず働き続けておられることが、たとえで語られてきました。13章だけではありません。マタイ福音書全体が、そのことを伝えようとしています。
  マタイ福音書は、主イエスが伝道を開始された時、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と語られたと記し、主イエスによる神の救いが実現しようとしていると伝えています。また、たびたび預言者の言葉が引用され、これらの言葉が実現するためであったと記しています。旧約時代から、全ての人を救うという神のご計画が続いており、主イエスの到来によって、それは今まさに実現しようとしていると伝えているのです。
  マタイ福音書にとって、旧約聖書は、主イエス・キリストを指し示し、また全ての人を救うという神のご計画が予告されたものとして、重要な意味を持っていました。それは、マタイ5章17~18節の主イエスの言葉「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」にも現れています。主イエスのこの言葉は、初代のキリスト教会の中には、旧約聖書を不要なものと考えていた人々がいたことを暗示しているのかも知れません。
  また、福音書に登場するファリサイ派の人々が、旧約聖書の律法よりも人々が作った言い伝えを大切にしたり、律法をゆがめて解釈していました。主イエスは律法をゆがめてしまった律法学者やファリサイ派の人々と対決せざるを得ませんでした。
  以上のように、旧約聖書を排除したり、ゆがめたりすることは、主イエスの御心に適いません。旧約聖書の教えと主イエスの御言葉は調和するものとして理解し、扱うべきです。今日の御言葉の「新しいものと古いもの」は主イエスの教えと旧約聖書の教えと考えて良いでしょう。主イエスの教えを受けた弟子たちがその両方を正しく受け止めたならば、それを正しく人々に伝えることが出来るのです。ちなみに、「学ぶ」と訳されている言葉は、「弟子になる」という意味があり、「全ての国民を私の弟子にしなさい」(28章19~20節)と関係してきます。




「世の終わりにおける審き」  2017年10月15日の礼拝

2017年12月18日 | 2017年度
エゼキエル書32章1~3節(日本聖書協会「新共同訳」)

  第十二年の十二月一日に、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、エジプトの王ファラオに向かって嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。
 国々の中で若獅子である者よ
 お前は滅びに定められた。
 お前は水中のわにのようだ。
 川の中であばれ回り
 足で水をかき混ぜ、流れを濁らせた。
 主なる神はこう言われる。
 わたしは多くの民を集め
 お前の上に網として広げる。
 彼らはこの地引き網でお前を引き上げる。

マタイによる福音書13章47~50節(日本聖書協会「新共同訳」)

  また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

  マタイ福音書13章47~50節は、13章に記されている主イエスの最後のたとえであり、終末の出来事、最後の審判についてです。最後の審判については、13章37~43節に既に出てきています。その37~43節では、最後の審判について滅びる人々だけでなく、「正しい人々はその日父の国で太陽のように輝く」という言葉がありました。しかし、今日の47~50節では、悪い人々の滅びだけが語られています。最後の審判の恐ろしさを強調していると言えるでしょう。
  終末と最後の審判については、マタイ福音書24~25章で、特に最後の審判は、25章31~46節で多く語られていますので、その部分で、詳しく取り上げることになります。ただ、その中で一つ注目したいのは、24章3節に「世の終わり」という言葉があることです。この言葉は、新約聖書で6回しか出てこず、6回中5回はマタイ福音書で使われているのです。その内の1回は24章で、3回は13章39、40、49節に出てきます。そして残りの1回は28章20節に出てくるのです。復活された主イエスが、弟子たちを世界中に福音を宣べ伝えるようにと命じておられる場所です。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」となっており、原文では、この「世の終わり」という言葉で、マタイ福音書が閉じられております。
  ところで、13章47節以下のたとえは、13章の他のたとえと同じように「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始まっています。最後の審判が語られる、しかも悪人が滅ぼされると語られるだけのたとえで、それが天の国だと教えられるわけです。天の国をたとえるのであれば、もっと楽しいことなどが語られてもよいのではないかと、とても違和感を感じます。マタイ福音書にある「天の国」は楽園という意味ではありません。この言葉はマルコ福音書では「神の国」となっていることがよくあります。聖書の「国」という言葉には、「支配」という意味もあり、神の国も天の国も、「神の支配」と理解した方がよいでしょう。
  47~50節は、神の支配について語られているのであり、最後の審判が神の支配の決定的な力であると告げているのです。
  悪人の滅びは、当然と言えば当然ですが、しかし、私たちが神の目からは、滅ぼされるべき悪人と見られていると考えた時、最後の審判のあまりの恐ろしさに慄然とさせられます。
  主イエスがこの最後の審判を語るのは、私たちをただ恐怖に陥れるためではありません。私たちの罪を裁く方は、私たちを罪から救ってくださる方なのです。主イエスは、私たちの救いのために神から遣わされました。十字架と復活のキリストこそ私たちを罪と滅びから救ってくださる方なのです。そしてその救い主は、全ての人々にその救いを宣べ伝えよと、私たちを世の人々へと遣わすのです。そして、世の終わりまで共にいて守り、導いてくださるのです。



「絶大な宝の故に」 2017年10月1日の礼拝

2017年12月09日 | 2017年度
ヨブ記28章20~28節(日本聖書協会「新共同訳」)

 では、知恵はどこから来るのか
 分別はどこにあるのか。
 すべて命あるものの目にそれは隠されている。
 空の鳥にすら、それは姿を隠している。
 滅びの国や死は言う
 「それについて耳にしたことはある。」
 その道を知っているのは神。
 神こそ、その場所を知っておられる。
 神は地の果てまで見渡し
 天の下、すべてのものを見ておられる。
 風を測って送り出し
 水を量って与え
 雨にはその降る時を定め
 稲妻にはその道を備えられる。
 神は知恵を見、それを計り
 それを確かめ、吟味し
 そして、人間に言われた。
 「主を畏れ敬うこと、それが知恵
 悪を遠ざけること、それが分別。」

マタイによる福音書13章44~46節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
  また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

  マタイ福音書13章44~46節に、主イエスが語られた二つのたとえが記されています。一つは、畑に埋められている宝を畑ごと買い取って自分の所有物にするという話で、もう一つは、高価な真珠を見つけた商人が自分の持ち物を全部売り払って買い取るという話です。両方のたとえは、主題が同じです。本当に価値ある物を獲得するために、それまで持っていた全ての財産を売り払ってしまうということです。
  このたとえの中の宝や高価な真珠は、神の救い、あるいは永遠の命を指しています。それを獲得するためには他の全ての物を棄てる覚悟が必要だと教えているのです。
  これらのたとえで、私たちの目は全ての財産を全て売り払ってしまうというところに向いてしまうのではないでしょうか。このたとえで言いたいことは分かっているつもりであっても、実際に全財産を売り払ってしまうことが、自分に出来るだろうかと疑問に思わずにはいられないのではないでしょうか。
  マタイ福音書19章16節以下に、金持ちの青年が永遠の命を得るためにはどうしたらよいかと訪ねて来たという話が記されています。主イエスは、彼に「自分の持ち物を売り払って、私に従いなさい」とお答えになりました。すると、その青年は立ち去ってしまいました。福音書は、彼がたくさんの財産を持っていたからだと説明しています。財産を棄てることは難しいということが、強く印象づけられる出来事です。
  また、マタイ福音書10章37節に「私よりも父や母、息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない」という主イエスの言葉があります。財産だけでなく、家族をも棄てなければならないのかと、心を痛めてしまいます。
  このようなことを考えると、先ほどの金持ちの青年のように、主の前から立ち去ってしまうしかないのかと、暗澹たる気持ちになります。
  主イエスは、「思い悩むな」と教えられた時(マタイ6章25~34)、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」とおっしゃいました。神は、私たちに必要な物をご存じなのです。決して、家族や財産を無用だとはおっしゃってはいません。必要だとご存じなので、それらの物は全て「加えて与えられる」のです。何よりもまず、神の国と神の義を求めることが大切なのです。すなわち、本当に求めなければならない順序が示されているのです。
  今日のたとえの注目すべきところは、棄てることにあるのではなく、目の前にある宝がどんなにすばらしい物であるかということです。使徒パウロはフィリピ3章5~11節で、それまで価値あると思われていた物が、キリストのあまりのすばらしさの前では色あせてしまい、塵あくたと見なしていると語っています。
  今日のたとえについて、今まで私たちが宝を獲得するという視点から見てきました。すなわち、神の救いが宝で、それを獲得する商人が私たち、という視点です。しかし、このたとえについてはもう一つ別の視点から見ることが大切です。すなわち、宝は私たちでそれを獲得する商人は神、という視点です。
  私たちが宝というのは、とんでもないことのように思えるかも知れません。それも当然かと思います。しかし、神が私たちをお救いくださるために、御子をさえ惜しまず十字架の死へと差し出してくださったことを思い起こしましょう。私たちがあたかも宝であるかのようにして、神は全てを投げ出して、私たちを御自分の所有としてくださったのです。このたとえの商人は、まさしく神ご自身であり、大切な独り子を、私たちを御自分の所有とするための贖い金とされたのです。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(Ⅰペトロ1章18~19節)とあるとおりです。

「光に導く神」 2017年9月24日の礼拝

2017年11月20日 | 2017年度
ミカ書7章8~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。
 たとえ倒れても、わたしは起き上がる。
 たとえ闇の中に座っていても
 主こそわが光。
 わたしは主に罪を犯したので
 主の怒りを負わねばならない
 ついに、主がわたしの訴えを取り上げ
 わたしの求めを実現されるまで。
 主はわたしを光に導かれ
 わたしは主の恵みの御業を見る。
 「お前の神、主はどこにいるのか」と
 わたしに言っていた敵は
 このことを見て恥に覆われる。
 わたしの目はこの様を見る。
 今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる。

マタイによる福音書13章36~43節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

  マタイ福音書13章36~43節に、「『毒麦』のたとえの説明」という表題が付いているように、この部分は24~30節にある「『毒麦』のたとえ」の解説という形になっています。しかし、24~30節は、毒麦をすぐには抜かないで刈り入れの時を待って、それから毒麦を麦と選り分けて燃やすという話ですが、今日の36~43節は、このたとえが最後の審判を意味し、毒麦、すなわち悪人は最終的に滅ぼされると語られています。このたとえの説明では、最後の審判が特に強調されていると言えます。
  13章にある主イエスのたとえとしては、最後の審判が語られるのは、これが初めてです。13章47~50節でも最後の審判について教えられていますが、両者を比較すると、47~50節は悪人が滅ぼされるということのみが語られているのに対し、今日の36~43節は、悪人の滅びだけでなく、「正しい人々はその父の国(すなわち神の国)で太陽のように輝く」と語られ、これがこの部分の特徴と言えます。
  主イエスは、何故最後の審判を語られるのでしょうか。人々を恐れさせるためなのでしょうか。主イエスのたとえには、正しい人間と悪人が登場します。そもそも、人間を正しい人間と悪人というように単純に分けることが出来るのでしょうか。エゼキエル書18章には、次のようなことが記されています。悪人が悔い改め、正しい人間になれば、滅ぼされない。また、反対に、正しい人間が悪を行えば、滅びを免れない。人間が、善と悪との間を揺れ動いていることを指摘しています。エゼキエル書は「悔い改めよ」と強く戒めています。しかし、一時は悔い改めてもすぐ悪に戻ってしまうという現実を、私たちはよく知っているのではないでしょうか。使徒パウロも旧約聖書の言葉を引用して、「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)と語っています。そのパウロは、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」(ローマ3章20節)と宣言します。しかし、その律法は、新しい神の義、すなわち、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」を指し示しているというのです。主イエスが語る最後の審判のたとえは、この律法と同じ働きをしているのです。私たちの罪深さを自覚させ、その上で、唯一の救いである主イエス・キリストに目を向けさせることです。
  「正しい人々はその父の国(すなわち神の国)で太陽のように輝く」と語られている「正しい人」とは、主イエスに救われた人のことであり、それ以外に神から正しい人と認められる人間はいないのです。主イエスに救われた人は、主イエスの栄光あるからだと同じ形に変えられます。(フィリピ3章21節) それは将来というだけではなく、今すでに変えられつつあるのです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5章8節)とある通りです。