暇に飽かさたな。

はまやわらかいブログ。

「かわいい」考

2007-03-30 11:41:32 | Weblog
 先日テレビで、タイにメイド喫茶ができた、というニュースをやっていた。もちろん働いていらっしゃる方は現地の人なのだが、来店時の挨拶は片言の日本語で


「オカエリナサイマセ、ゴシュジンサマ。」


どう見ても風俗です。本当にありがとうございました。


 それにしても、である。「かわいい」という言葉の不思議さを思い知らされる現象だ。安室奈美恵を見てもメイドさんを見てもお菓子の「ひよこ」を見ても、「かわいい」でくくれるのはものすごいことだと思う。


 ごく単純に考えれば、デフォルメを経たものはかわいらしいのかもしれない。ではスプラッター映画に出てくるグロテスクなシーンはかわいいのか。そんなわけはない。ということはむしろ「デフォルメを経た美」が「かわいらしさ」の源泉なのではないだろうか。


 以前、長州小力がかわいい、という話を聞いたことがある。あのぽってりと出た腹が、何か小動物に対するような慈愛を喚起するのだそうだ。腹が出ているのは、人間で言えば幼子の体型と類似する。そこに一種のアナロジーが働き、かわいいと思ったのだろう。そう思うと、デフォルメによって作られたかわいらしさは、以降アナロジーによって拡大解釈されその領域を広げていく。


 ついでながら語源的な追求もしてみよう。こちらを見ていただきたい。かわいいの語源が載っている。これによれば、本来「目も開けていられない」「かわいそう」の意味であったらしいが、いつの間にか今の意味になって行ったらしい。確かに、生まれたての赤ん坊は「かわいい」より「かわいそう」のほうがしっくり来る気がする。じゃあ生後何ヶ月までが「かわいそう」でそれから「かわいい」になるのかというのはあまり意味のない議論だろう。その二つは、きっと連続的なのだ。ちょうど、「水」と「お湯」の関係のように。



 そんな私も今、Hysteric blueを聞きながら記事を書いていましたが何か?

ぼうけんのしょ1

2007-03-25 23:30:46 | Weblog
 やっと普段の生活に戻ってきた。今日はランダウリフシッツの統計物理学をオカズに、数人で6時間ぐらいかけて議論した。やっぱ物理がある生活はいい。

 ここの所結構うだうだ悩んでいたのだが、結構吹っ切れた感がある。対等な関係で話を聞いてくれる人の存在ほど大きいものはないなぁ、とひしひしと感じてしまった。


 さて、旅の様子を思い出しながら書く。暇な人は読んでください。

初日:
 東海道線を一路西へ。その途中、いったん熱海で降りてみた。私の脳内には「熱海=温泉街=観光地」の等式があり、推移律を適用することによって「熱海には見るべき場所がある」という推論を立て下車したのだがここ何もねぇの。車の排気ガスでなんか臭いし工事してるし道は細いのに車ばしばし通ってるし。行こうと思っていた美術館も閉館日だし。これはmyミス。

 とはいえ、海はある。見るものがなくて人はいなくても、海があるのがうらやましい。埼玉には海がないから。浜辺のベンチに腰掛けて海を眺めていたら、なんだか世界が解体していく感じを得た。熱海ごときで自分を脱構築できてしまうのは、普段どれだけ束縛をかけていたのかということを思い知らされた。


 それから再び西へ進み、大垣に到着した。ここでは市内を観光した。「水の街」ということで、きれいな川が流れていたのを見て、ふと、水ということについて考えた。

 水は、古来人間の敵であった。水害、かんばつ、台風など、あるべきところにあり、ないほうがいいところからは除くべき対象として存在した水を手なずけることは治世の基本であった。
 しかし現代の我々にとって水は「ちょっとオモシロそうなもの」程度の意味しか持たない。テーマパークの言うところの「あなたの冒険心をくすぐる」ための舞台装置程度の意味しかない。駅前には噴水が設置され、この大垣の市街地を流れる川は淀まぬよう流量を少し多めに調整されているがそれはあくまで人間の手の内である。
 別の言い方をすれば、この水は動物園の動物とも思える。おりの向こうに大人しく飼いならされた水を見て、我々は喜ぶのだろう。このアナロジーから、私は「水には表情がある」、もっと言えば「水には人格がある」ということを感じる。水というものは、人間に負けず劣らず豊かな表情を見せてくれる。時に怒り狂う彼を鎮めるだけだった近代の我々は、水の楽しそうなせせらぎの表情さえもひょっとしたら忘れてしまったのかもしれない。


2日目:
 琵琶湖・彦根城セットを見てきた。琵琶湖は風が吹くと波が立っているように見える。不思議発見。あと、彦根城内の庭のベンチでボケーっと座っていたとき、素敵なお姉さまに写真を頼まれお取りして差し上げた。そのとき「ずっとそこに座ってらしたのでお願いしてしまいました。」と言われたのだが、時間を確認すればなるほど確かに10分以上座って眺めていた。いやぁ、頭を空っぽにする経験、ここの所とんとなかったからなぁ。心地よかったです。いやもちろんお姉さまの声が。。

 その後金沢に移動。はじめ、琵琶湖の西を回ると勘違いしていたのだが、東を回って北上した。このあたりの電車や駅は琵琶湖基準で作られていることを知る。琵琶湖の西回りの線路と東回りの線路が交わるところにある駅(近江塩津駅と言いました)で次の電車の待ち合わせをしたのだが、驚くほど小さな駅だった。駅前に自販機が一台あるだけというのは、軽いカルチャーショックを受けた。


3日目:
 金沢市内観光。まず兼六園に行った。3月と言うのに雪が降り出しむちゃくちゃ寒かったけれど、梅と雪を同時に見られたのはすごく得をした気がした。しかし何より人が多すぎる。観光客が多いだけならまだいいのだが、ご年配の方がツアー的な何かで大挙してやってきて、「右手に見えますのは」式のガイドを聞きながら足早に庭を歩くのはどうも風情に合わない。

 その後市内の21世紀美術館というところに行った。いわゆる現代美術というやつが展示されている美術館なのだが、現代芸術は自分から主体的に考えないとわけがわからない。しかしその中にはどんなに考えてもわけの分からないものがある。そしてそういうものに限って、やたら存在感ばかりある。だから頭に残る。だから時々考える。そうするといつか自分の中で腑に落ちる。ただ無為に胃もたれするわけじゃないんだな、と思う。個人的には、タコ足配線用の三叉タップをたくさん接続して(三叉だから立体が構成できる)ウサギを作り、その頭に電球を一つ接続して(タップだからちゃんと点灯してる)作ったオブジェ「ワカメちゃん大ピンチ(木村太陽・作)」が好きでした。あと、なぜかゴダールの映画もやっていたのだけれど、奇跡的に観たことのあるものだった。ちょっと疲れてたから観ようと思ったのに・・・。


4日目:
富山県高岡発一日中電車を乗り継ぎ埼玉県戸田公園に着く。この日は、旅の反省会みたいになったのでよかった。



 各駅の旅は楽しい。18切符は5日分なので、あと一日残っているから、鎌倉あたりの日帰りスポットへまた行ってこようと思う。




 なんだか春休みの宿題みたいだなぁ。。。

ただいまかえりました。

2007-03-18 22:14:00 | Weblog
 8:59富山県高岡発の電車に始まりそれ以降ひたすら乗り継ぐことで19時ごろ自宅に着いた。今日は寝ていた時間よりも陸に立っていた時間よりも電車に揺られていた時間が長かった。


 3泊4日、細々とした事件はいくつかあったのだが、それらを散文的に書き連ねてしまえばそれは「旅の最中の日記」であって旅日記でないと思った。後日、まとめて書きたいと思う。


 結局、カントも谷崎も読まなかった。代わりにあさのあつこの「バッテリー」を3巻まで読んだ。あの本を読んで共感するような小中学生がいたとしても、それでもなお読ませないほうがいい気がしてしまった。私にとってはそれぐらい刺激的だった。あんな本を13・4の時に読んでしまったら、人生が劇的に変わってしまう。それがいいことなのだ、と私は思いたい。けれども、本当にいいことなのかはわからない。そんなことも含めこの本についての私の感想も、後日書きたいと思う。



 まぁ結局、旅をして、間違えなく分かったと思えたこと。それは:


「自由にぶらっと旅にでる」という概念は、すでに不自由な思考の産物である。そしてその既成概念からの自由を手に入れたとき、私はきっとひどい不自由を感じてしまう。

不自由な自由と自由な不自由。たとえ私が軽いめまいをもよおしても、電車は私を運ぶ。どこかに。「今ここ」から放射状に伸びた可能性の総体と、背景の不可能性に身を任せてしまえばいい。

それが私を解体して、また戻ってきたときにはすでに元の私ではない。

旅は道連れ、ということで

2007-03-14 17:35:26 | Weblog
 明日から、カントと谷崎と私の3人で旅に出ることにした。


 全行程中半分近くが電車移動という、心はいつまでも18歳切符各駅停車の旅。琵琶湖の西を回って石川、富山に行って来る。日本海を見たことがないので、ちょっと楽しみにしている。しかも最近雪が降ってきているらしいから、そういうもの悲しい感じを味わってきたい。


 一人で居たい気持ちと、みんなで居たい気持ち。きっと、どっちも忘れてはいけないんだろうな。

「ウン

2007-03-08 23:41:04 | Weblog
コな議論」という本を読んだ。(様々な制約からタイトルを分割したことをお詫びしたい。)ちなみにこちら。犯人は山形浩生です。


 あの、その、なんだ、以下では、人間の固形排泄物の名を関したこの本をUNKOと表記しようかとも思ったのだが、こうしてしまうとなにやら国連の下部組織の略称に見えなくもないため、非礼を承知で直球勝負に出させてもらう。


 世の中にはびこる、詭弁とも言うもおこがましい無数の言説に対して哲学的分析を加えた本文。タイトルは「ウンコな議論」であって、「ホラ」や「ウソ」ではないのが話のポイント。筆者はこの点を、あえて持って回ったような言い方で(そしてそれは「ウンコな議論」がしばしば満たす条件でもあるのだが)指摘していく。単なる怪文書的な感覚で読めば、それで終わってしまう話なのかもしれない。


 しかしそんな筆者の主張を、果たして私は人ごととして消化しうるのか?というのは、やはり心に引っかかった。たとえば今議論が始まる。始めは確信に満ちて話を進めるのだが、だんだん怪しくなってきたときに、本当に「わからない」と言えるのか?もっと言えば「それは、ある種の方法を用いれば解決できるような問題だろうと思う」という類の台詞をはかずにいられるか?「その点は、今の議論では些細な点に過ぎない」と言わずに済むか?


 実際、「ある種の方法」を見つけることを横文字でソリューションといったりするわけだし、「些細な点」であったとしても修復不可能なミスならばそれは決して些細な点ではない。「ウンコな議論」の「ウンコ」たる所以は、それが価値を生まぬ点にある、と筆者は指摘する。すなわち、その議論によって何の有益な情報も伝達されないのであれば、それは「ウンコ」なのだ。(注:本書とは焦点をずらして書いている。これはウンコでないといいな。)その意味において「ウンコな主張」でも「ウンコな意見」でもなく「ウンコな議論」なのである。主張や意見ならまだいい。それは議論でしかないのだ。しかもウンコな。



 いやぁ、この言葉をこんなに連呼したのは小学生以来だよ。学級文庫、学級文庫、学級文庫…。

ゴーゴリって聞くとまず

2007-03-05 23:29:14 | Weblog
 戦車から変形するロボット(変形後も足はキャタピラ)を想像しますがロシアの作家です。念のため。


 光文社古典新訳文庫「鼻/外套/査察官」を読んだ。確か、大学生協で岩波のラルボー「幼なごころ」を買ったとき、ポップ広告が気になって手を伸ばしたのだった。確かそれは新聞の切り抜きか何かで、ロシア文学研究家が「ロシア文学ってこんなに面白かったんだ」的な趣旨のことを書いていたからだった。ちなみに翻訳の文体は落語調の江戸弁。するってぇとそりゃあ洒脱なこと請け合いってなわけだ。


 さて内容はあまり触れないけれども、読んでいる最中、三篇の主役ともにどうも自分と同じものを感じてしまうなぁ、ということを感じた。小市民な「外套」の主人公がだんだんと生き生きとしてきたところで話が急展開して不幸のどん底、とかほら吹きの「査察官」の主人公とか、見栄っ張りの「鼻」の主人公とか。

 けれど、だからと言って日常で起こりそうな一こまを描写した小説ではなくて、例えば「鼻」の主人公は、朝起きると鼻がきれいさっぱりなくなっている。「?」を5つぐらいつけながら読んでいくと、結末では噺家もさじを投げちゃってよくわからないまま話が終わる。でも、そんな笑いのあり方は、自分の笑いと近いものがあるなぁ、と思いながら3篇を読み終え、最後についていた解説に目を通した。すると、こんなことが書いてある(以下抜粋)

ゴーゴリは「笑い」を持ち出すことで、自分の「死せる眼」を隠そう
としたのだ。彼は「笑い」によって、せいぜい「生きているふり」をして
みせたのかもしれない。


 ここに言う「死せる眼」とは、生きている者を戯画化してピン止めされた標本のような物として描き出すこと。


 そうか、そうなのよね。ここで私はなぜか色んなことに合点がいってしまった。戯画化による笑いってのは、相手を殺してしまうことなのかと。そして、そのように登場人物を描き出すゴーゴリに自己投射をしてしまう自分は「せいぜい『生きているふり』をして」いるだけなのかと。そしてその思いが募れば募るほど、なんだかいわれのない非難を人から受けたような気になる。



 だからと言ってその死せる眼でしか見えない世界もあることは疑えない。ぶっ飛んだ世界はあっち側のものにしか見えないはずだ。死んで見なくちゃ分からないことを知りたくて、私はゴーゴリにパイルダーオンする。(ちなみにこの時、キャタピラからちゃんとした人型に変形する。)うーん、生きているって、不思議だなぁ。

個性豊かな物理

2007-03-04 15:03:48 | Weblog
 最近、物理という営みそのものについて考えることが多々あった。例えば「経済物理学」という言葉ができるわけを考えてみた。


 経済物理学というのは、金融工学や経済学を統計物理的な手法で解析する学問のことだ。これは決して「金の動きもやはり物理現象だから…」的トンデモではないことに注意したい。例えばひもとかブレーンとかは出てこないからご安心召されよ。

 私ははじめ経済物理学という単語を聞いたとき(確か、"econophysics"と聞いたのが先だったと思ったが)物理学という名詞を経済が修飾しているのだから、扱う対象はあくまで「物理」なのか、と考えた。しかし説明によれば「ほら、株価はランダムウォークするブラウン運動なんだよ」みたいなことが書いてあって、なんかよくわからんな、とも思った。要するに、あくまで対象は「経済」でそこに物理的手法でアプローチしてるんじゃないの、と。


 でもそうじゃないんだ。そう気づいたのはごく最近だった。


 ものすごーく一般に、「Aが論理的に分かったとするのはどんなときか」という問いを考える。論理的にという制約から、「Aの必要条件だとか十分条件だとか、逆にAが成り立たない例なんかを見つけてくることだ」と答えることができる。

・Aの必要条件、すなわち「条件BがなければAは成り立ち得ない」という命題を探すこと。
・Aの十分条件、すなわち「条件CがあればAは絶対に成り立つ」という命題を探すこと
・Aの反例、すなわち「条件DはAと両立し得ない」という命題を探すこと(すなわちDの否定が必要条件になっている)

 他にもあるかもしれないけれど、とりあえず思いついただけを挙げておく。パース流のabductionなんかは十分条件の羅列以上の意味を持っているのかもしれないけれども、ここでは触れない。

 必要条件を探すこと。これはかなりの天才のなせる業だと思う。こういう命題は少なくとも扱う対象全体を含むことになるのだから。だから逆にそういうことが見つかると、われら凡人たちにとってはすごく嬉しい。わーい、これでいろんなことが分かるぞ、と。

 十分条件を探すこと。これはまさに個性の世界だ。こんな面白いことがAには埋まってるんだよ、ということを教えてくれると、Aの世界を垣間見たような気になれるし、それとの関連で他の現象もまた見やすくなる。


 さて。長々と前口上を述べたが、結局経済物理はなんなのか。私は経済物理は、従来の物理学の中での確率・統計的現象(多体問題、と言い換えてもいいかもしれない)を、現象だけとして取り出す行為なのではないかと思っている。それによって経済的な振る舞いが説明できる、というのは副次的な効果であって、ひょっとしたらやっぱり超伝導が説明できたり宇宙の成り立ちが説明できたりするかもしれないと思うからだ。もっと強い命題として述べれば

      ある現象を「この現象」として取り出すこと

が物理の本質なのではないか、ということだ。「この現象」としてカッコをつけたのは人間の限界と受け取ってもらってもかまわないけれども、そのように言うならば、まさにその限界を逆手にとって「その現象は『この現象』だ」と述べなおす行為が物理の重要な見方なのだろうという風に言いたい。よってその意味での物理は哲学ではない。哲学とは恐らく真なるものに興味があるのだろうから、こんな個性丸出しの学問を哲学と呼んでいいわけがない。


 このような物理観は、上の一般論で言うところの十分条件的な考え方だと思う。世界を見る色眼鏡を積極的に開発すること。それが何に役に立つかはやってみるまでわからないけれども、やっぱりいろんな見方ができるほうがいい。複眼的思考、とかいうとかっこいいけれどそんな偉そうなことではなくて、単に目の前でやっているガマの油の腕から出た血を、実は血ではないんじゃないかと思いながら見る事なんだと思う。血ではないんじゃないかと思いながら見ることができた瞬間に、何かが決定的に変わった、と言っていいと思う。


 物理っていうのは絶対的に真なるものを探求する学問だし、またそうじゃなければならない、と思うことを否定するわけではない。そういう考え方が、例えば相対性理論を生んだと思う。人間が見方を変えるだけで、時空概念を本質的にゆがませることができるとは思えない。(見方ってのはもちろん、系の変換って意味じゃなくてね。)だけどそれだけが物理じゃないってことは、もっと強調していいと思う。そのいい例が経済物理みたいなものなんじゃないかと、思った。



かく言う私は、経済物理でやっていることについて何も知らないんだけれども。