暇に飽かさたな。

はまやわらかいブログ。

degenerateしすぎ

2007-02-26 23:46:12 | Weblog
 ちょっと調べ物をしようと思って「一次元」と入れてググってみたら。




「一次元萌え」



という単語にヒットした。どういう意味なんだろう…。「この曲線萌えー」とかいうのかなぁ。。

ニートって言うのもごもっとも。

2007-02-22 11:47:00 | Weblog
 最近、めったなこと(バイト、研究室セミナー)がないと机を離れない。家族からはニート扱いなんだろうな、と思う。。確かにバイト以外で金は稼いでないし通常の意味での教育も受けてないし。(指導教官に教わったりはしますが、今学期の授業は週2コマでした)ちなみに今私は寝巻きでパソコンに向かっています。


 ニート度チェックシートを抜粋して作ってらっしゃる方を見つけたので、本ブログ史上初トラバ。(大元がすでに削除みたいで。。)さて、こんなです。


ニート度チェックシートを軽く抜粋↓
============================================================================
 あなたの子供は大丈夫?
“ニートになる度”チェック
〈該当する項目の□全てにチェック印を付けよ〉
□携帯電話を持っている
□1日1時間も机に向かわない
□家で学校の話をほとんどしない
□3年以上続いている趣味がない
□テレビゲームを長時間することが多い
□嫌なことがあるとその場を放棄しやすい
□おもちゃを次々と買い替える
□ホメられることも叱られることも少ない
□親の仕事の都合で転校が多い
□自分で食器を片付けない
□自室にパソコンがある
□小遣いの額が決まっていない
□日常生活での基本的な挨拶ができない
□家族の団らんが少ない
□ブランド物が大好き
□親に対して友達感覚で付き合う
□反抗期がない、良い子
□1人で遊ぶことが多い
□テレビを見ながら宿題をしている
□異性とのコミュニケーションが苦手
〈あなたの子供がニートになる度〉
16~20個……80%以上の確率でニートになる
11~15個……60%以上の確率でニートになる
6~10個……40%以上の確率でニートになる
5個以下……ニートになる可能性は低い
============================================================================



ってか「80%以上の確率でニートになる」って何なんだろう。降水確率とかと同じなのかな。



さて、やってみた。

□携帯電話を持っている(最近の若者ならみんな持ってるでしょ→YES)

□1日1時間も机に向かわない(ここだけは絶対に違う→NO)

□家で学校の話をほとんどしない(してもめんどくさがって無視される→YES)

□3年以上続いている趣味がない(物理は趣味なのか?もし趣味なら→NO)

□テレビゲームを長時間することが多い(ここ1、2年してない気がする→NO)

□嫌なことがあるとその場を放棄しやすい(この計算うぜー、とか思うとやり方がまずいと思ってほっぽり出す→YES)

□おもちゃを次々と買い替える(toy modelはちょくちょく取り替えます。ってかむしろ取り替えないと意味ない気がする→YES)

□ホメられることも叱られることも少ない(この年になると、ねぇ→YES)

□親の仕事の都合で転校が多い
□自分で食器を片付けない(→まとめてNO)

□自室にパソコンがある(ノートとあわせて2台。デスクトップはしばしば数値計算で占有→YES)

□小遣いの額が決まっていない
□日常生活での基本的な挨拶ができない(→ちっちゃい子ではないのでNO)

□家族の団らんが少ない(人間とのコミュニケーションが最近では家族ぐらいしかないからなぁ…→NO)

□ブランド物が大好き(大物が書いた教科書は好きなほうです。でもブランドがどうこうではない気もするんだが→YES)

□親に対して友達感覚で付き合う(もうだいぶ年が近くなりました→YES)

□反抗期がない、良い子(いわゆる思春期には反抗期を持たなかったように思います→YES)

□1人で遊ぶことが多い(なんで知ってるんだ!→YES)

□テレビを見ながら宿題をしている(テレビ、最近観ません→NO)

□異性とのコミュニケーションが苦手(お前に俺の何がわかるというのだ!そもそもお前みたいなヤツは…→YES)




集計結果・・・11コ(60%ニート)

でした。パーセンテージは天気予報じゃなくて戸愚呂・弟みたいな感じに思えてきた。いつの日か、周りの生ぬるいニートを吸収して120%ニートになろうと思います。いや、でも俺は既にニートなの、か…?あべしっ!

昨日のセミナーを聞いて思ったこと

2007-02-20 16:16:33 | Weblog
 計算機のアルゴリズムには、どんなダイナミクスが眠っているのだろうか。



 ニュートン法のベイスンがジュリア集合になることがある、というのは聞いた事がある。ニュートン法のような反復法は何らかの意味で物理的な描像が描きやすいので、ここに対して物理っぽい考察を加えてやると何か見えるのかもしれない。

シゲル、お父さんやったぞ。

2007-02-16 00:04:44 | Weblog
 一応コメントしておくと、シゲルは架空のmy sonです。


 今日は卒業研究発表会、という題目で、みんなが半年間(もしくはもっと前からやっていた人もいたかもしれない)でやってきた成果をお互いに発表する会があった。こういったものに不慣れな方は、まぁピアノとかバレエの発表会のようなものを思ってもらえればそう違わない。技術的には発展途上にある人たちが、人前で発表するというのを一つのモチベーションにしてその向上を図るための会なわけだから。


 かなりやりきった感のあるものになったと思う。ほかの人たちの発表も聞かせてもらって、私の友達たちがとてもいい研究をたくさんしているのを見るとやはり励みになる。もっと頑張ろう、という正のフィードバックがかかる。


 とはいえ、また明日からは卒論を仕上げねばならず、まだ休めない。まぁ院生なんてそのくらい負荷がかかってるほうがまともになるんじゃないかな、とも思う。





積み置きぬ
   論文の山
     軽く見え


                  されど横文字気は重く

戯言

2007-02-14 00:00:24 | Weblog
The man who has no religious beliefs can choose his God after he gets to know better.
However he never knows better before he has his God.


 ジョギングをしていたら思いついたこと。ニーチェと違って、私の神は死なない。なぜなら始めからいないから。道徳というのは権力者の方便であるのだろうか。

面白い本でしたよ。

2007-02-09 23:29:53 | Weblog

前期および後期ウィトゲンシュタインのお話


 私自身も一気読みしてしまった。(こういう言い方していいのか?)ぜひ一読せられよ。


 **************************************************************

 これを読んで思ったこと。

 哲学者と呼ばれる人たちには、絶対的・普遍的な論理や科学というものに対して悲観的であるように見える。『論理哲学論考』を書いたウィトゲンシュタインが、その後期では「んなものないじゃん」という前提から話を始めるのだから。このような議論は、その性質上「~はおかしい」という否定文を帰結するはずだから、きっと世の中のブレーキになるんだろう。
(補足。普遍的な真理があると思ってるとこういうミスを犯すよね、とケーススタディをすることはできるけど、普遍的な真理などないと言うことからは、肯定文は出てこない。というのが理由です。(そこに疑義を挟むことは、ひょっとしたらひょっとしてできるのかもしれないけれど。))


 それに対して、いわゆる「理系」な人たち、言い換えれば、もう21世紀だってのに「絶対的に真なるもの」の存在を心のどこかで疑わず、それを追い求めることに対して子供のような執着を見せる人が多数派を占める集団、というものもある。この人たちのすることは、上に書いたような哲学者から見て無意味なのか有意味なのか、と考えてみる。

 私は、「科学者個人の力ではなく、科学者集団としてウン百年もこの営みを続けていく、という意味」があると思う。

 確かに、アインシュタインは偉い。アインシュタインがもう3人いたら、(そんな世界では誰も物理学者を目指そうとしない)宇宙のなぞはもうちょっと分かっているかもしれない。凡人は三人寄れば文殊菩薩の知恵。アインシュタインだと三人寄れば大日如来の知恵。だけど、実際にはもうアインシュタインは生まれてこない。彼のやったことは偉いけれど、科学史的には、すでにアインシュタインの理論は「消化」されてしまった。もう新しい真なることは、彼からは生まれてこない。(解釈の仕方とかは別で。)

 科学にできることは「これは正しいと思います」と言うこと。そしてそれはどこまでも一回的。世の中すべての現象を記述するマクロな理論を誰かが作らない限り、(ひょっとしたらそれができたとしても)そのジレンマはどこまでも続いていくと思われる。だから科学者の態度は極端に言えば二通りで、あとはその中間。一方にはヤマ師的に「究極の理論」を追い求めること、もう一方には地道に研究して科学者集団としての共有知識を蓄えること。カトリックとプロテスタントに譬えたりしたらローマ法王に怒られちゃうかもしれないけれど、どこかそういう対立を感じることがある。


 だから、人類がちょっと賢くなる、と言えるためには科学し続ける必要があるんじゃないだろうか。真理というものを真面目に考えるゆえに、それをとりあえず否定してから議論を始める哲学者。彼らに対して、科学者がその大向こうを張れるとしたら、あくまで「科学的真理」の蓄積とごくたまにあるブレイクスルーによって「科学的真理」と「普遍的真理」の間の距離を縮めることじゃないのか。



 そんなことを考えた。

情けは人のためにならない

2007-02-07 21:29:25 | Weblog
 今日荒川沿いを走っていたとき、川の向こう岸で炎が燃え盛り、消防車が来ているのを見てしまった。今日は乾燥してるからなぁ、よく燃えてる。と思ったときふと気づいて笑ってしまった。だって「対岸の火事」なんだもの。

生産性と来たるべきプロレタリア革命について

2007-02-04 02:21:14 | Weblog
 一応確認しておく。I think I'm not biased.


 やっぱり、人間は何かつくらなきゃならない。その点に関しては世の中の大多数の人が賛成してくれると思う。何か「価値」と一般に呼ばれるものを創造するからこそ、こうして毎日生きていられる。とても単純だけど、見落としやすい点。


 では、その「価値」の増分を「生産性の向上」と読み替えていいかは、また別の問題。例えば、ブータンだったら「幸せ」に置き換えられるのかもしれない。だけれど、少なくとも私はある程度普遍性を持った尺度として生産性の向上とかGDPの実質増分ってのがあって、しかもその作った価値の増分と正の相関を持つ、と思いたい。この点になると、だんだん皆さんの賛成を得られなくなってくる。何言ってるんだい、そんなことより等身大(ありのまま、と読みます)の幸せを、あの夕日の向こう側まで追っかけようぜ、なんていいたくなるのかもしれない。


 でも例えば近所の仲の良かったおじさんが、急に新興宗教にはまりだしたらどうだろう。「おい、お前の体には4億フェムトメートルのベクトル波が毎日降り注いでるぞ!気をつけろ!」なんて言い出したら、あなたはどうするか。私はまず、4億フェムトメートルのベクトル波並みに真っ青になってから彼にこう言う。

 「そんな生産性のないことやめて、まっとうに働こうよ!」


 これをケーススタディのようにするわけではない。だけど生産性がないことに没頭する人は、多くの場合人にたしなめられる。それが当人にとって幸せであったとしても。


 全世紀初頭の人は、生産性に重きを置くことに対してなんらためらいはなかったはずだ。それがひずみを持つこと、言い換えれば来たるべきプロレタリア革命が実際は来なかった・ないし偽物だったことが明らかになるにつれ、モノを作る、というかなり根源的な要求が排除されてきたように思う。


 この段に及んで、おそらく「モノを作るって言ったって、その価値はお金じゃ計れないよね」というテーゼが形成されたのだろうと推測するのは難しくない。じゃあそれは個人的な感情の昂ぶりのようなものに還元できるかというと、先の宗教の例などからそれも違う。すると残ったものは、価値とは結局「共同体の価値」でしかありえない、という簡単な事実。まず人に迷惑を掛けず、それができたら人のためになることをするのが価値ある行動である、となる。


 とても簡単な事を確認している、のだと思う。だけれど、私は最近これが自明でなくなってきてしまっていたのかもしれない。恐ろしい。衣食足りてしまいすべきことを見失ったブルジョワには、正義の鉄槌が下されるのかもしれない。あの夕日の向こう側に向かって走っていった人たちによって「さぁ、僕らと一緒に4次元世界を乗り越えよう!」とオルグをかけられるのかもしれない。どんな仕事に就こうと、やはり社会の中に私は生きているんだ。そのことを忘れてしまうと、働くことと働くことによって生まれる価値の持つ意味がつい希薄になる。そこに仕事があるということは、そこにはまだ生み出されず眠っている価値のタマゴがあるということ。それを肝に銘じていたい。



最後にもう一度確認しよう。Yes, I'm sure I'm not biased.



(追伸)
I'm sure ~.としてしまったら、そう思うbiasがかかっているのではないだろうか?とか思ってしまうけれど。でもそのbiasが、かろうじて私の個性なるものを縁取るのではないか、と言うこともできる。