暇に飽かさたな。

はまやわらかいブログ。

デル太くんとMs.イプシロン

2006-05-31 17:45:04 | Weblog
今週末、眼科にいく。麻酔の入った目薬をさして瞳孔を開き、眼底を診るらしい。いやだ、まだ死にたくない。

ε-δ論法に関する一考察


タイトルは、語呂を鑑みてデルタを先に持ってきたのだが、フェミニストに見られたら怒られちゃうんだろうか。いやだ、まだ死にたくない。

千と千尋のOS隠し

2006-05-28 03:26:50 | Weblog
 パソコンを買った。新しいパソコンから初投稿。前のと比べて性能が格段に上がった。と思う。

 以前使っていたPCは電源が入らなくなったのだった。これはおそらく定電圧装置かマザーの故障だろう、ということで仕方なく新しいのを買うことにしたのだが、以前のHDDを新PCにつないでみて驚愕の事実が発覚した。


     Windowsフォルダが、空になっている・・・!?


これはどういうことだ。もしや前のPCはOSがなくなったせいで壊れたのか?いやはや、かなり謎であるがとりあえず自分を納得させることにする。きっと、Windowsは神隠しにあったのだ。そうとしか考えられない。

風邪が治らない

2006-05-20 17:43:16 | Weblog
 歳を痛切に感じる。鼻水が止まらない。3週間も続くとさすがに萎えてくるものだ。さて、今日は熱力学を。


 数学と物理のメジャーな違いは、定義から始まるか定義に終わるか、という点だろう。もちろん前者が数学で後者が物理。物理は理論の跡をつけていくことよりも、概念を創り出すことを目標としているように見える。定義が出来ればそこでいったん終了し、今度は更に先を目指してまたそこに定義をたてる。物理の定義はロッククライミングで打ちこむハーケンであり、数学の定義は、再び山登りで言えばベースキャンプみたいなもんだろう。困ったらそこに帰ってくれば、少なくとも遭難はしないからだ。いっぽう物理の定義は、間違ったところに打ちこむと何がなんだかよくわからなくなる。物理の理論は「自然」でなければならないからだ。

 また、これは物理に限らない事だろうが、すでにわかっていることからスタートするのがほとんどだ。それは実験結果であったりほかの物理の分野だったりするが、理論物理ではできるだけ、実験事実を認めるだけ、という態度を取らないよう努力する。当然、それが完全に達成される事はありえないのだが、そこに向かっていこうとするのが科学の精神といっていいだろう。

 こんな風に物理と数学の一般論を述べてもとくに意味はないのかもしれない。しかし、物理にはハーケン的定義では不十分な分野がある。力学と熱力学だ。この二つはさまざまな分野の基礎となっているので、数学的に厳密に表現して、しっかりと平地にくくりつけたベースキャンプになってもらわねばならないからだ。

 このうち、力学はとてもよい数学的表現を与えられている。19世紀の解析の分野は、主に力学を代表とした物理学に牽引されたといっても過言ではないほど、数学になじんでいる。「古典力学の数学的方法」などという本まである。(アーノルドの名著。いつか読みたい。)また、20世紀後半では、Lie群・Lie環や多様体のような代数的・幾何学的対象も力学(主に量子力学)にとりこまれつつある。今世紀になってから力学、言いかえれば相互作用する主客のミクロな関係を学ぼうとする人は、まず数学を一通り学ぶ必要があるかもしれない。(ランダウミニマム?)

 ところが、である。上で掲げたうちのもう一方、熱力学にはなかなか日の光があたらない。言ってしまえば地味なのだ。前の段落で書いたように、力学ではかっこいい数学がたくさん出てくる。カラビ・ヤウ多様体とか単連結Lie群とか言うと、なんか頭がよくなった気になる。しかし熱力学には、どうもこういう複雑な数学表現が適さないのだ。なぜかはわからない。ひょっとしたら統計的な結果には等式は似合わず、不等式でのみ記述されるからかもしれないし、物理学者がサボっているだけかもしれない。もしかしたら、熱力学は簡単で、複雑な数学などいれる意味がないのかもしれない。

 少し話は変わるが、統計力学というのがある。これは、力学から熱力学を導出するものと思ってもらえればいいが、ここにはけっこうかっこいい結果があるし、数学者もいろいろ仕事をしている。カオスとか複雑系とかそういうやつを考えたりするのが統計力学の最近のテーマだったりする。ということで、やっぱり力学に根ざしているものはかっこいい。それに、もし統計力学で熱力学を説明できるのなら熱力学はいらないではないか。なんて思う人もいる。


 しかし、私は熱力学は必要であると思う。しかも今より数学的精度を上げてさらに統計力学に依存しない形で定式化する必要がある、とも思う。

 まず第一に、熱力学は必要条件を求める学問である、という点だ。要するに、物理現象たるもの、かくあらねばならず、というセンテンスを創り出す学問であるということだ。一方力学は、出発点に一番強い条件(運動方程式)があって、上手く行くときはそれを同値変形し、そうでなければ(それが大半なのだが)そこからどんどん弱い命題を作っていく。そうすることで初めて、私たちが使える形になるのだが、そればかりではサイエンスではない。やはり、世の中にはどういう制約がかかるのか、という基礎的な問いかけは必要であると思う。

 あと時々、「熱力学は現象論だから重要だ」という人がいるが、それは力学との程度の違いだけである。力学だって現象論的側面はあるし、熱力学にだって還元論的側面はある。

 また、数学的精度を上げることで初めてわかることがある。熱力学のような抽象度の高い理論研究では関数解析その他の数学を使う必要がどうしても出てくるし、世の中の仕組みはたいてい日常言語では語れないからだ。


 今、熱力学は用語は出揃っているのに、定義をずらしたり引っ込めたりしている段階なのかもしれない。この意味において、熱力学はまだ終わっていない。

世迷い事

2006-05-15 01:13:45 | Weblog
人は一人では生きていけない。生きがいをなくしては生きている意味がない。


→→
まとめると、学問を仕事にしないほうがいいのかもしれない。

Happy Birthday to myself

2006-05-06 13:21:01 | Weblog
 今日は誕生日。この歳になるともうあまり感慨はない。ただ歳を重ねるという表現がぴったり来てしまうので、それを避けるために今年の抱負。「思いついた言葉のうち、二言にひとことは控える」


少し気がついたことがあるので雑記する。

・無意見という意見、非参加という参加を見逃さない事。それが政治における優しさであり、官僚の仕事だと思う。

・理性は「そもそも、人間は一人である」という。
       哀情は「結局、自分は一人である」という。

言いかえれば、理性は広い意味でのポジティブさ(単に座標軸のプラス方向という意味で)へ進み、哀情は広い意味でのネガティブさへと進もうとする。どちらか一方でいいわけがない。

・優しさは、繊細さではない。恐さは、強さではない。「優しくなければ強くなる意味が無い」と人はいうが、優しさとはそもそも強さではないか。優しさは馴れ合いではない。優しさを貫き通すのは、自分の意見を通すのと同じだ。第三者をねじふせなければならない。私の知っている優しい人は、本当に、強い。それを実感した。

捨てられない世の中

2006-05-02 15:12:23 | Weblog
 パソコンを捨てるのがこんなに大変だとは知らなかった。3年ほど前に買ったパソコンが壊れたので買い換えようと思ったのだが、捨てるのに金と手間がかかるらしい。まず3150円を購入したパソコン屋にふりこみ、そして送られてくる伝票を梱包したパソコンに貼りつけて郵送するらしい。

 個人的にはリサイクルはすべきだと思うし少々の手間なら我慢しなきゃならんとも思う。しかしゴミを捨てるのに郵送とはこれいかに。世の中がリサイクル歓迎の構造になっていないことの象徴なのではないか。

 個人的には、リサイクルとか環境問題とかってのはインセンティブをつけてあげればあらかた解決すると思っている。例えば、空き缶のポイ捨てをなくすにはどうしたらいいか。一番簡単にはジュースを一本300円にして、その代わり業者が缶ひとつあたり120円で買い取ればいい。(差分は手数料ってことで。)ペットボトルなら、ラベルをはがしていないと受け取らない。こんな風にしていれば、みんな嫌でもリサイクルするだろう。でもこんなことを政治家がしたら、コ○コーラの人に殺されちゃうかもしれないからだれもやらない。

 環境問題は、「共有地の悲劇」の様相を成している。誰かがやらなければいけないのだけれども、誰もやらない。だからこれを誰がやるか、というので大まかに3つに分けられると思う。

1.国がやる。福祉とか社会保障とかってのはここに属する
2.市場にやらせる。CO2排出権取引なんかが新しい
3.NGO,NPOにやってもらう

本当は他に「ボランティア」というのもあるはずだけれども、そのようなキリスト教的な他者愛を体現している人は、多く見積もっても統計誤差程度だろうので数に入れなかった。とはいえ、例えば「履歴書に書けるから」という理由でボランティアをやる人もいるだろうがこれは、自分の労働の限界効用を増やす、という立派な「インセンティブ」であるから2に含めてしまうことにする。

 先に言うと、1はすぐに限界が来る。一日に日本人が何本のコカコーラを飲んでいるかを考えれば明らかだろう。だからありうるのは2か3だが、3は環境問題の場合はとくにNGO/NPO単独で独立採算を取るのは不可能だと思う。だから、(まともに考えれば)大企業の「供給責任」とやらでそこまで手を広げてもらえばいいんじゃないか。そうすれば、消費税が3%から5%に上がったときみたいに、コーラ屋さんも逆に儲けられるかもしれない。(未だになぜジュースが120円なのか納得できない)


 だから、ひょっとして私が今のパソコンをずっと持っていれば、1万円ぐらいで買い取ってくれる日が来るかもしれない。その日まで持っていようかな。