暇に飽かさたな。

はまやわらかいブログ。

子供もすなる試験といふものをわれもしてみた

2006-08-31 16:14:25 | Weblog
 おとといは大学院の試験だった。まぁ、落ちることはないと思いたい。


 試験に、ボーズ粒子の化学ポテンシャルの温度依存性を図示せよ、という問題が出たのだがこれができなかった。転移点以下ではボーズアインシュタイン凝縮をするから化学ポテンシャルは0になることはわかったのだが、そこから先の温度依存性がわからない。とりあえず適当にお絵かきしてきた。

 もうこれで、金輪際テストというものは受けずに済むと思うと、何かから解き放たれた気になりますね。ということで早速、今週末は映画を見てきます。「花よりもなほ」V6の岡田君主演の時代劇です。是枝監督作品だから手をつけたんだけど、実際は岡田君のほうが楽しみだったりする。かっこいいもんね。

そういやぁプルートって犬がいたね

2006-08-26 23:19:24 | Weblog
 あまりにも気になったので、一言だけ書かせてもらう。私はこういったことを公衆の場で書くのは好きになれないのだが、こればっかりは言いたい。



 冥王星が惑星の定義から外れたのだそうだ。おい、いくらなんでも騒ぎすぎじゃないのか、世の中。天文学者がそう決めただけだ。もし「冥王星かわいそう」とか思うんなら、「『私にとっての惑星』とは、水・金・地・火・木・土・天・海・冥のことである」と言えばいいだけだ。


 変わったのは冥王星ではない、定義だ。今、このことを声を大にして言いたい。

子供はわかってくれない/大人はわからない

2006-08-25 02:31:42 | Weblog
 山田詠美の「蝶々の纏足」がいい。「ベッドタイムアイズ」と「ジェシーの背骨」を読んだことがあったがいまいちピンと来なかった分、驚いている。

 話の筋についてこういった場所で書くのはよろしくないと思うのでふせることにするが、私の読後感はおそらく上にあるタイトルに集約されると思う。子供はわかってくれない。でもそれは大人にはわからないことの裏返しなのだ。そしてそれは、「大事なもの」が見えない大人に対する反抗によって初めて認められる子供の存在といったこととパラレルなのかもしれない。



ちなみに「大人は判ってくれない」という映画を撮ったのは仏・フランソワ=トリュフォー監督。この映画に登場する子供は、遠い目をしていたように思う。子供には何がなんだかわからないのだ、きっと。トリュフォーはそのことを判っていたのではないだろうか。

甲子園も終わり

2006-08-22 15:43:14 | Weblog
 世間はものすごい騒ぎになっているようです。個人的には逆判官びいきが発生して田中君を少し応援してしまったがまぁそれはそれで。どちらもよく頑張りました。


 まとまり無く思ったことを書いておく。

 数学をやる立場というのは、二つしかないと思う。ブルバキ的かそうでないか。論理的には明らかだ。しかし、この区分はモダンかポストモダンかという風にも読み替えることができると思うので、さほど意味の無い主張とも思えない。
 ということはおそらくずいぶん昔から言われている(のだろう)。それと比べて物理の立場を考えてみた。するとわかったことがある。物理はモダンでありえないのだ。

 まず始めに実験があった。とりあえずやってみて起こったことを記述する。ある意味で一番原始的な物理学の研究の仕方。
 次に論理が生まれた。様々な法則の間の関係性を記述する。それは常にイデアの世界で行われる。
 しばらくして、ドグマが生まれる。「物理学、かくあれよかし」と規定され、それが研究にある種の方向性を与える。


 と、歴史的にはここで近代に突入する。しかし物理はそうではない。ある種の第一原理は常に「自然」が持っている。それを過不足なく記述できたとすれば、それは物理学というプロセスが終わったことを意味するから、ブルバキ的公理化はあまり肌に合わない。


 そして、モダンを飛び越して現代に到着。公理化はいらない。論理ではない、形式の世界ですべてが行われる。それでもある意味で「モダン」な我々の心を満たす程度には、その営みは成功する。なぜなら、あくまで自然界との一致という「公理」があるから。


 どの態度によっても、おそらくは、物理はなされるのであろう。どれか一つに偏ることは、きっとよくないことだと思う。

アーノルドたん萌えー。

2006-08-18 17:36:37 | Weblog
 まず先にお詫びしておく。えげつないタイトルで申し訳ない。再び夏期講習のバイトが始まり少し焦りがあるのかもしれない。


 一次元トーラス(要するに単位円周)上の離散力学系で、以下のような漸化式で定まるものを考える。

a(n+1) = a(n) + A + (K/2π)sin(2πa(n))

ただし、0 < A, K <1。そして、この問題をロシアのとある数学者が解いた。解答はこんなだ:

 ある程度大きなKに対しては、Aがどんな有理数でも安定解となる。さらに、Aをほんの少しだけ動かしてもこの性質は変わらない。ただし「隣の有理数」と交わらない範囲で。

めちゃくちゃだ。だいたい「隣の有理数」なんてない。べつにヨネスケがしゃもじを持って出てこようがそんなものは作れない。だってaのとなりに有理数bがあったとしたら、(a+b)/2はその間にある有理数だから。

まぁなんにせよ、安定解が得られる(K,A)を二次元プロットしてみると、K=0のところから1に向かってだんだんと「べろ」が広がっていくように見える。そこで後世の人は、これを発見した数学者Arnoldにちなんで"Arnold tongue"と名づけた。

私はこういう話が大好きだ、というタイトルでした。

おもしれー。

2006-08-14 00:57:56 | Weblog
不確定性原理再び

 リンクを上に出しておいたが、ハイゼンベルグの不等式の修正版で、小澤の不等式ってのがあるらしい。量子ゆらぎと測定誤差を区別するとこうなるそうだ。

 えっ、私は今までハイゼンベルグの不等式ってのを量子ゆらぎに関する不等式だと思っていたのだが、測定誤差に関する不等式だったのか。この辺の話について私は、清水先生の影響が強い気がする。

時間の無駄ですが

2006-08-12 22:35:49 | Weblog
 時間概念に挑んできたのは、何も哲学者だけではあるまい。物理学者だけでもあるまい。そのへんのおっさんだって時が経つのか不思議に思うもんだ。しかし不思議だ。私は熱力学が好きなので、時間の向きは人間が手で入れるものではないと思っている。そうか、まずはその辺から話をしよう。



 量子力学を少しでもかじったことのある人はご存知だろうが、量子力学では、物理量の集合は実数体でない。複素数体でもない。斜体だ。定義は、ほとんど体だけどAB != BA(!=はノットイコールってことで)の世界である。この解釈では、粒子の位置や運動量が実数としては確定しない、なんて話はくさるほど聞いているだろう。

 じゃあ、時間はなんで確定するんだ?という疑問が起こる。例えば、ある時刻tでの波動関数、とかって言えるためには人間が時間を実数として確定していることになる。

 実は、量子力学では時間は物理量ではない。もうちょっと難しい言い方をするとオブザーバブルではない。それは、量子力学の基礎方程式、シュレディンガー方程式の左辺を見ればわかる。ほら、時間微分の項が入ってるでしょ。ってことは時間はパラメータとしてすべての物理的設定に先立って存在していることがわかる。

 とは言え、ディラックという天才がこの状況が気持ち悪いと言い出した。なんで時間がパラメータで空間が物理量なのさと。そこで彼は、空間もパラメータにしてしまう。いわゆる相対論的量子論である。時間は空間で空間は時間。右に進むのは左に戻ること。こうすると、数学的にはとても美しいし、対称性があるので見通しがたつ。

 まぁいずれにせよ、物理学者には前提が必要なのだ。非相対論的には時間だけ、相対論的には時空ごとの構造を先に仮定しないと先に進めない。ここの仮定についてワイワイ議論するのが宇宙論だと思うのだが、それはここでは無しにする。

 そのようにして人間が、時間を、手で入れる。言い換えれば、そこに必然性はまったく無い。(私見を述べさせていただければ、物理学はさかのぼればさかのぼるほど幾何学になると思う。そこでは、結局各自が世の中に救いはあるのかとか神様はいるのか、とかっていう「信仰」が何らかの構造を要求するのだと思う。それが美か善か、はたまた真か。それらは狙って作れないから科学って難しい。)



 以上の話が、ミクロな時間論。そこにはいずれにせよ時間は人間が手で入れているという「恣意性」がある。それに対して、熱力学第二法則から帰結されるマクロな時間論もある。これはいたって簡単だ。

 まず、平衡熱力学は言う。「時間は、僕には扱いきれません」と。実は純理論的には時間概念を抱え込むことを放棄しているのだ。おいおい、と思うがまぁそれは熱力学がそれを射程としていないからしょうがない。

 とは言え、時間を未定義語として扱いながらもそれに方向性を入れることはできる。やり方はこうだ:
誰かがビデオを撮ったとする。でもちょっとずるをして順方向に再生しているか逆方向かを教えないとする。それでも熱力学を使えば判定はできる。なぜなら、時間を順方向に進めれば、エントロピーは増えることになっているからだ。だから、その絵を見てエントロピーが増えていれば順方向、そうでなければ逆方向なのだ。

 このようにすると、実は熱力学の論理によっても、時間は(離散的ながら)定義できると思う。要するに、平衡熱力学の範囲では、時間とはエントロピーのことである、としてしまうのだ。そうすると、準静的仮定では連続的に、そうでなければ離散的にエントロピーが変わっていくのだから、エントロピーを時間軸とした離散力学系としてマクロな系を定義することができるのではないか、というのが私のひそかな思いだ。(先に言っておくが、これ以上の根拠は無い。だから誰かに反論されたらそこでおしまいです…。)




 いやはや、やはり不思議だ。時空とは仮定すべき構造なのか、それとももっと基礎的な法則から演繹されるべき結論なのか。でも、一つだけ確かなことがある。それは、時間をかけてもわからないはずだ。

つじあやのばっか聴いてる

2006-08-11 18:42:30 | Weblog
 今balancoというアルバムを聴いている。ここ3日で10ループ以上はしていると思う。ジャケがかわいい。
 本当にいたるところで聴いているのだが、例えば電車に乗っているときに聴くと「天気もいいし電車を降りて歩いてみようか」という気になるのだが、この炎天下ですから2秒で後悔する。あとはひそかな日課として荒川の河原を走るというのがあるのだが(2日に1回ペースだと日課とは言わないのか?)、そこで走りながらつじあやのを聴くと「まぁ疲れたら歩こうか」という気になる。よくない。


 朝型の生活を求めていた矢先、昨日は高校のときの友達とカラオケでオールしてきた。14:00起床。まぁ、たまには、ね。


 活字にして気がついたがカラオケオールってすっごい若いな。

現実と非現実の逢瀬

2006-08-07 20:37:41 | Weblog
 先日、家のそばで花火大会があった。そこで不思議な体験をしたので書きとめておく。


 その日私は、バイト先の夏期講習の最終日に実施したテストの採点をして家路を急いだ。ちなみに私は戸田市というところに住んでいるのだが、荒川をはさんだところに板橋区がありそこの塾までチャリンコで行って仕事をしている。

そんなわけで家に帰るためには「戸田橋」という橋を渡って帰ってこなければならないのだが、この日ばかりは大変なのだ。というのも、たくさんの花火見物客が橋の上にたむろして、自転車をこぐことができないからだ。警察まで出動して「橋の上では見物しないでください」と言っても人は動かない。さすが大衆心理。周りが動かなければ自分もいていいんだよ。

 てなわけで、まぁしかたない、花火を見ながら押して帰ろうか。ということで橋の中ほどに差し掛かったころである。

 「ぱーぱらぱらりら…」という音が聞こえる。暴走族かなー。さすが埼玉、花火になるとテンション上がっちゃうのね。でも族にしてはオシャレな音。と妙な感想を持って歩みを進めていると音はだんだん大きくなる。しかも、なにやら歩道側から聞こえるのだ。


 私は目を疑った。(投稿特ホウ王国ではないが。)




 おっさんがバクパイプ吹いてる。


おっさんが、バグパイプを、吹いている。




 そう、そこは都とあづまとのさかひ。流るる川、橋のうへ、あがる花火とバグパイプ。おっさん、その状況にてガチで吹く。交通整理をする警官。みなひとびとを動かしむ。されどバグパイプおっさん動かず。楽譜立てたてかなづるは、とほき異国の響きかな。




 周りの人も言えばいいのに。おっさんよそで吹かない?って。そんなわけで8/5の戸田橋中ほどは花火の中明らかに異質なケルティッシュサウンドがこだましていた。

たま屋ー。

Kirkpatric屋ー。