暇に飽かさたな。

はまやわらかいブログ。

今年のことは

2006-12-31 23:51:20 | Weblog
 今年のうちに。ということで、懸案がつい先ほど片付く。先行論文と違う結果が出てしまったのだが、ただの計算誤差ではない事を望む。ひょっとしたら、ひょっとするかもしれないものね。


 明日は、自分にとって、初初日の出を拝みに行きます。晴れますように。

ちいさいこと・おおきいこと

2006-12-24 22:33:32 | Weblog
 卒研の関係で今しゃかりきになって計算しているのだが、その昔ファインマンの書いていた言葉が時々頭をよぎって悲しくなることがある。まず、わたしのやっていることは一言で言えば、
「f(1),f(2),f(3),・・・が与えられていたとする。f(0)を求めよ。ただし、関数fの属するクラスはよくわからないので自分で調べろ」
となる。要は計算できる量と本当に欲しい量には少しギャップがあるので、そのギャップをずるして埋めましょう、という話になる。


 さて、一方でそのファインマンの言葉というのはこんなだ。

「暗いところで落とした鍵を探すことができないので、そこから離れた街灯の下を丹念に探す物理学者もいる」

はい左様でございますあっしは目がわるぅござんして・・・となってしまいそうだが、もう少し探したら、別の何かが見つかるかもしれないと思ってやっている。


 しかし、この比喩はなかなか言いえて妙だと思う。私はどこで鍵を落としたんだろう?そう問われたとき、四次元ポケットを通じて至る所ををまさぐるのが高エネルギーな話なんだろう。ドラえもんぐらいに(ドラえもんが一発変換できてちょっとうれしかった。)その扱いに熟達できると空も自由に飛べるのかな。そう思うと同時に、その一方で、ターゲットをぎりぎりと絞り込んで、お前を落とすためには、死なばもろとも!とやっていく物理もなかなかかっこいいと思う。そうだから、私は今こんな必死こいて勉強してるのかな。



 でも、いずれのタイプにしても、理系な人なら必ずすることがある。それは、「○○が大きい・小さい」というとき、「何に比べて」と言うかどうか、という点。例えば、WKB展開はプランク定数が小さな値だから収束Tailor展開として意味を持つ、なんて記述を読んでしまったら、エクソシストを呼んで悪魔祓いをしてもらってから丁重に捨てたほうがいい。馬鹿やろう、単位のある量は常にその系の典型的な量との比較で大小がきまるのじゃ、と怒られてみんな大人になっていく。

 でも、そんな風に人間がちいさいのは理系だけ。例えばマイルス・デイビスは大きい。何と比べなくても大きい。志ん生もでかければタルコフスキーも大きい。(底が見えないのかもしれないし、ひょっとしたら其処にはないのかもしれない。オントロジーってやつぁ、あっしは不得手なもんで。)


 どうして理系だけ、こんな風に了見が狭いのか。だから物理はつまんないんだよ、もっと自然を雄大に思弁的に語ろう!などというのはまた大きいというより荒いだけ。そう言った人に対して定性的に言えば、(そう言った人はこのブログなど読まないのだろうが。。)細かく見ることに伴う限界というのは、観測論としてはまったくもってごもっとも。不確定性原理なんて、今時シュレディンガーさんちの猫だって知ってらぁ、となる。先のWKB展開が漸近展開として有効なのは、量子系としての「強さ」をあらわす、まさに典型的なパラメータがプランク定数だからだ、と私は理解している。(誰かに教えてもらったかどこかの本で読んだような気もするが、思い出せないので自分で考えたことにしとこう。)

 だけどするってぇとなんだかわからなくなっちまうが、(てやんでぇ、こちとらチャキチャキの埼玉っ子なもんでこれ以上江戸弁が出てこねぇんだべらんめぇ。)今度はその存在論的神秘を地で行く量子論を、推し進めると何に突き当たるのか。というか個人的には量子論がどうこう、というより、小さいことに潜んでいる物理ってどんなものなのか、と考えてみたいのだ。いつもは、たくさんとか大きいとか、そっち方向で考えているもので。

 多分、ある量が小さいとか大きいとか、そういうことって、ほんとの物理の最後にはほんとに「ちっちゃなこと」になってしまうんじゃないかと思う。ちょっと前に、摂動論的な素粒子論にはいくつかの亜流があったのだが、何とかとか言う理論が実はそれらはおんなじ根っこを持っているって言う風にご隠居が教えて・・・じゃなかったウィッテンが教えてくれたって話を聞いたことがある。

 でも、物理の最後ってのは、きっと、しばらく来ない。多分人類の最後のほうが早い、とまでは言わないけれど、サザエさんの最終回よりは後だと思う。ちなみにサザエさんも一発変換できた。嗚呼文明之利器也。

 でも、とっても高エネルギーな世界では、ある量が小さなことはほんとに「ちっちゃなこと」なのだ。そう信じたい。それは、(ほぼ間違えなく間違えることを覚悟で言えば)小ささには「限界」があるからだと思う。

 もちろん、直感的に言って「あんまり狭いところに押し込められない」という意味もあるが、それ以上に大事だと思うのは、小さいものを見ようと思えば小さいことを知らねばならないし、小さいことを知るためには小さいものを見ねばならないということ。それは、理論構成上最小単位が相互に関連しているという事実に端的に現れていると思う。相互作用はどうやって生まれるのかを説明するのと同時に相互作用によって何が生まれるのかを説明しようとするのだから、はっきり言って、靴紐を引っ張って空を飛ぼうとしているようにさえ思えてしまう。でも空を自由に飛べてしまうように見えるのが、11次元カラビ・ヤウポケットのついた、ドラえむんのすごいところなのかな。

のやっち。

2006-12-22 17:09:40 | Weblog
 卒業研究が進まない。それは、野矢茂樹のせいだ。本が面白すぎる。とうとう、ノートをつけながら「論理哲学論考を読む」を読解するに至った。


 「論理哲学論考を読む」を読んだあと論理哲学論考を読んだのだが、その後は何をすべきなのだろう。論理哲学を論考したらいいのか。次は論理を哲学して、最後に理を論ずる。でもそんなことをしていると人に論われてしまうかもしれぬ。

うれしはずかしlattice好き

2006-12-16 18:08:23 | Weblog
 昨日やっと気づいた。私は格子が大好きだ。だからスピンおたくになりつつあるし、lattice gauge theoryみたいな話を聞くと、高エネルギー系の話の中では一番面白いと思う。


 多分、無限という概念をあいまいさなく扱うところが楽しいのだろう。私は実数が嫌いだが有理数は好きだ、とかいうと遠い昔のピタゴラス学派などを想像するかもしれないが、「人間ができること・人間にわかることって何だ?」という、科学に対する最も根本的な問いかけを放棄させるものの根源には実数概念があると思う。


 人は、「ほらここに円周率πがある」と言います。しかし誰一人としてそれが10進数表示でどうなるのか、完全な回答を与えた人はいない。だって無理数だから。そりゃあ計算の規則を与えることはできて、これで望む限りいくらでも低い位の値を求めることはできるけれど、それをもって「πを手に入れた」と言っていいのか。それでよし、としたのが現代数学であり、πは地平線のかなたにいる、いくらでも近づいていいよ、という風にされている。


 でもそれでは納得いかないとする向きもある。私も心情的にはそうだが、実践的にはそうではない。このねじれをどうにかできるほど、私はテクニシャンではないのでこのままにしている。そのテクニックを身につけようと思うと、私はもはや文型に分類されるのだろうか。まぁその辺はよくわからんが、ともかく「どこまでも続く」ということはどこまで拡張されるのか。これは理性にとってまったくnon trivialな問いだから、私は可能な限りそうした前提を排除して科学している。


 すると、経路積分だとか繰り込みだとか、無限を無限コ重ね合わせたり、無限を無限コ足し合わせるときに無限で割ったり、というジュゲムジュゲムには、積極的には参加したくない、と思ってしまう。当然、こういったことを、ある種の「有限の立場」から説明できたらすごいと思うし、現実にそういったことをやろうとしている人もいる。しかし、私の個人的意見としては、それは数理物理だったり数学だったりしても、物理ではない。物理には、何か新しい概念を作る作業が必要だと思うからだ。


 そこに、latticeが登場する。空間を(というかそういったものがア・プリオリに存在することを仮定しないからlatticeなのだが)格子状に切って、その上に物理量が乗っていることにする、という、ある意味で非常に古典的な考え方。しかし、そこには、必ず本当の物理が棲んでいる。ただし、人間がちゃんとした見方でそれを見る、という条件付きで。そこでは、積分は和だし微分は差分。難しいことはなーんもない、ように見えるが実はこの方が計算が難しい。そんな有限の魑魅魍魎たちの中をかいくぐって、最後に何らかのimplicationが得られたとき、とてもうれしいはずだ。だってそれは、人間理性の勝利、という最も古典的なサイエンスの姿に立ち返った瞬間だから。

僕の欲しいもの

2006-12-10 02:38:53 | Weblog
 もう、なんて言うか世間体とか「幸せ」とか富とか名誉とかを断ち切る方法があるものなら、それが一番欲しい。ひょっとしたら一番のぜいたく品なのかもしれない。

田崎せんせー!

2006-12-05 17:03:27 | Weblog
 昨日は、学習院の田崎先生の集中講義一日目を聴講。私の大好きな数理物理学者である。本の上でしか存じ上げなかったので、授業を受けてとてもテンションが上がった。


 それにしても、ものすごくパワフルな方だ。10分くらいの休憩を2度ほど挟みつつも、計6時間の講義。ひたすらIsing。お得感のあふれる、予備校的授業を久々に受けた気がする。

Proof with Fool-Proof

2006-12-04 00:04:11 | Weblog
 Fool-Proofとは、辞書的に言えば「よく知らない人が使っても、簡単には壊れたりしないよう作ってあるもの、またはそういったことの総称」とでもなろうか。たとえを挙げれば家電。あれはどういじろうと(分解でもしない限り)壊れたりしない。リモコン操作だけでテレビを壊した、という話を、少なくとも私は聞いたことがない。


 しかしだんだん専門的なものになってくると、こうはいかない。例えばパソコン。近年はどんどんFool-Proofに作られてきてはいるものの、まだ家電と同レベルには至っていないと思う。今向かっているパソコンを物理的な方法以外で壊せるか?というチェック項目は、あなたがよいハッカーか否かの判断基準になりうると思う。


 では、話を数学に移そう。Fool-Proofな数学とはいかなるものか。


 たとえば方程式の解法や、図形の作図問題。こういったものたちは、教えてもらえばすぐに使えるようになる。なぜなら、これらは使ってみようと思える問題に対しては必ずと言ってよいほどその前提条件を満たしているからだ。逆に言えば、3次方程式に2次方程式の解の公式を使おうと思う人はいないし、定規だけで円を作図しようとは決して思わない、ということだ。


 ところが、解析学はそうではない。扱う対象が「関数すべて」だから、よくわからん関数を微分したり積分したり「してみたい」と思ってしまうのだ。そんな時、微分可能でない関数を微分したりして矛盾を導いてしまう。それは、今扱っている問題を「壊してしまった」ことに対応すると思う。


 これは、数学を一種の装置として扱う人たちにはよくわかると思う。特に物理学者は、数学を「酷使」する。(これは誇張ではないと思う。むちゃくちゃな使い方をするからだ。)そんな風に酷使して、物理的に意味のある結果を引き出すことができればあとは野となれ山となれ、というわけだ。


 でも、それは決して意味のないことではない。人が機械の仕組みについて学ぼうと思うとき、まず最初にすることが分解であるのと同じように、きっと数学を壊しながら、物理は進歩していくのだ。


 だけど壊しっぱなしでは数学に悪い。だからといって、誰かが修理専門でやっている、というのもあまりない。(数理物理学者という人たちの中には、こういうことをやっている人もいるので一概にいないとは言えない)それなのに、今の物理はそれほどガタが来ている感じはしないし、むしろどんどん前に進んでいるように見える。


 そう考えると、きっと物理は、「壊してみて、先に進んでみて、様子がわかってきたらちゃんと直す」というプロセスを踏んでいるのだ。おそらく。まるで見てきたように言っているが、そんなものは見えないので本当のところはどうかわからない。しかし、素粒子物理が幾何を牽引しているという事実はこの傍証になりうるだろう。




 Fool-Proofなものが一番いいというわけではない。その本来持っている機能を犠牲にして、形式を整備しているわけだから。Fourier解析のように、ちょっとやそっとで壊れてしまうものでも(Fourier和がもとの関数に収束しない関数などいくらでもある)、物理では頻繁に用いられ、こわれないように慎重に扱いながら先へと進んでいく。その綱渡り感を習得することが、物理の計算を習得するということなのだろう。実を言うとそれは勘と経験の世界。一子相伝の北斗真k・・・。

かっけぇぇ

2006-12-02 23:07:32 | Weblog
 ついさっき、パトカーが急停止してバック、のち方向転換して現場に急行する瞬間を見てしまった。わくわく。わくさん。もしくはわくわくさん。

やヴぁい

2006-12-01 21:05:13 | Weblog
滝川クリステルです。今日はこれをブログに載せるためだけに更新。学科の控え室のパソコンの壁紙がこれだったのですが、えらくツボってしまいました。


 Web上で滝川クリステルは「くりたん」と呼ばれているようだ…。いかがなものか、という声はもはや届かない。