暇に飽かさたな。

はまやわらかいブログ。

献血に行ってきた。

2006-04-25 00:23:57 | Weblog
 どうもこんにちは偽善者です。

 ではなく、今日は埼京線が止まり(池袋-新宿間の線路が盛り上がっていたらしい。電車がちょっとジャンプしたそうだ。機関車Tマスでもなかろうに。)大学に行けなかったので、池袋で途中下車した。 いや、正確に言うと迂回して1時間ぐらいかければ行けない事もなかったのだが、めんどくささが先に立ち、まずは行き付けのマンガ喫茶を目指した。はずだったのが着いてみれば店じまいしていた。残念。

 そこで映画を見ようと「新文芸座」に立ち寄ると、小津映画の特集をやっている。昭和初期の邦画は今までその地味さから敬遠していた部分もあったが、まぁやることもないし観ておくか、と相成ったが上演時間が合わずお散歩へ。

 そんな時、である。サンシャイン通りの入り口で、いつものように呼びこみをしていた赤十字のスタッフの人が目に入り、ちょうどいいやってことで献血ルームへゴー。

 入ってまず感じたことは、「病院っぽくない」だった。いやそりゃあ献血ルームであって病院じゃないんだから当たり前なんですが、雰囲気は郊外のスーパーに入ったマックとかに近いものがあった。座席などは広々していて、噂にたがわず自販機のボタンは常に点灯していて押せばジュースが出てくるし、マンガや雑誌もおいてある。

 献血の様子はとても興味をそそるもので。例えば、簡易血液型判定キットみたいのがあって、2種類の液に血液をつけるとそれぞれで陰性or陽性がでて、2x2=4通りの血液型が分けられる!なんてのもあったんですが、それよりなにより献血ルームに行って気づいた事。


 献血ルームは、お昼のキャバクラである


 いやもちろん献血ルームに足を運ばれる方はむしろ女性のほうが多くて、そんないかがわしい雰囲気はないのですが、雰囲気のレベルではなくて実際のサービス内容に関する類似性を考えるとそうなる気がする。

 例えば、赤十字の皆さんはとても愛想がいい。きっと人が好きだから看護婦さんなんかやってるんだろうなぁ、ってのがにじみ出てるような人間愛。血を抜いてもらってる間暇つぶしの世間話かなんかの相手もしてくれるし(ここまで含めてサービスか?と思った)むこうは私の体のことを一番に心配してくれる。「血を抜いたらしばらく動かないで下さいねー」「たくさん水分をとってくださいねー」などと、日頃大きなけがなどあまりしない私にとっては、何やら大病を患ったようですこし嬉しい。(慢性的な疾患持ちの方から見ればひどく不謹慎な話だが)そんなわけで血を抜いた後でも献血ルームでロッテリアのハンバーガーをかじらせてもらった。

 そして何より、ナース服である。これなしには語れない。語り得ない。いや違う、語ることの出来ないものだ。よって私はウィトゲンシュタインに倣って口を閉ざすこととする。


 とはいえひとつ気にかかることがある。その対価はお金ではなく血である、という点だ。

(えっ、映画はどうだったって?原節子がきれいだった事ぐらいしか覚えてないさ。こっちは1400円ですんだからよかったけど。)

情報をひねりだす

2006-04-18 00:59:41 | Weblog
 大抵のものはあればあるほどいい。お金だって時間だって。でも情報はどうだろう。ある事柄について知りたいと思ったとき、それに関連する情報すべてを集めて、しかるのち編集にかかるとすればものすごい労力だろう。この労力を肩代わりしてくれるのが第3次産業というやつなのだろうか。

 でも、原理的にはその労力とやらは自由エネルギーで表現できるはずだ。ならば情報は多すぎると自由エネルギーを減少させる働きがあると言うことが出来る。例えを出すならば剛体の運動学を近似無しで原子のシュレディンガー方程式からとくことを考えるといい。もっと簡単に言えばテレビの取扱説明書を読む代わりにその回路図を読む、といってもよいかもしれない。

 で、そこから得られる結論は「情報は情報量によってのみ定まるとは言いがたい」ということだ。当たり前の事だと思うかもしれないが、現在の物理学では情報量という概念で止まっている。いや、正確に言えば「複雑さ」と言う概念があるのだが、それはあくまで計算機科学の範囲を出ていないと思う。(物理世界におけるこの対応物を探す試みは当然続いているが、結論は出ていない)

 だから、量としての情報から質を伴ったそれをひねりださなければならない。全体から部分へ、決まり文句を用いればこうなろうか。

 まずその候補としては、和や積分で表現できる作用素をその「情報しぼり機」に採用する事があると思う。たとえば、全部の値をたして数で割れば平均が出る。これだって立派な情報だ。

 しかし個人的には、上の例で言う平均値は量としての情報ではあるが、系の複雑さを増すことになるため複雑さが増しているように見える。そこで私は、情報をしぼりだす「アルゴリズム」そのものに、何らかの意味での情報が付加していると考えたい。とは書いているがこれはかなり希望的観測で何ら根拠はない。しかしこのような情報観は、熱力学の自由エネルギーや熱効率の概念、もっと言えば熱力学第2法則とのアナロジーが使えるのではないか。


そういや最近逼迫した知らせを余り聞かない。"No news is good news."というからきっといいことなんだろう、という話でした。

直感と直観

2006-04-12 22:32:22 | Weblog
 4月になり、ひとつ学年があがった。こんな生活を送っていられるのもあと数年だという実感がひしひしと迫ってくる。重い。

 といいつつも、まったく実益の無い話題を。直観、という言葉がある。実を言うと、私はこの言葉の意味を分かりかねていた。今でも心から理解したとは言いきれないのだがやっとこさ人並みにはなじんできた。この言葉は直「感」とは違うのだ、という風に言われても何がどう違うのかようわからんかった。直感とはただ感じただけのもので、直観とは非論理的に理解する事だ、とか言われてもそれは、何かひとつのものの二つの側面の様にしか聞こえていなかった。健全な直感を直観と呼ぶことにしているようにしか聞こえない。

 ところが最近、やっとこさ二つの違いを「直観」できたのだ。いやでもこのときは少し考えたから違うのかな。なんにせよ、直観は「内的」で直感は「外的」なのだ。言いかえれば直観は私の中で起こり、直感は私の外で起こったものが私に知らされることをいう。と理解している。(違っていた誰か教えてください。。)

 なんてことを言い出したのも、実は最近哲学書などという数学に輪をかけて無用の長物を読むようになってしまったからだ。フッサール-ハイデガーのラインの本を少し読んだ。その前からニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」をかじったりしていたのだが、「レギュラーのあるある探検隊で使えそうな7・5調のタイトルだな」と思ったぐらいでそれ以上進歩が無かったことを思い出せばなかなかの進歩だなと思う。しかしそのような弁証法的発展を仮定したヘーゲルのように・・・ということを言い出すと眠くなってくる性格だったのに。実は今でも少しそう言うところはある。

 せっかく現象学やら存在論をかじったので、それを数学に応用してみようと思った。すると答えはあっさり出た。数学は、現象学的アプローチが驚くほど無効であるし、存在論的には余りに平板で余りに無感動であったからだ。

 例えば選択公理。選択関数の存在を仮定するのがこの公理の内容だが、現象学的にはこの公理は超越論的還元、とやらを受けねばならない。還元とは現象学で、それ以上疑い得ない直観まで解体していく事だ。しかし選択公理をこれ以上分解する事は出来ない。なぜなら公理だから。以上により、数学の殆どの分野(解析学、幾何学、代数学など)は現象学的まなざしを拒否する。

 これは当然、現象学的「批判」が無効であることを意図していない。そのような言及から新たな公理系や公理系の妥当性などが発見されてもおかしくないからだ。

 また、ハイデガー流の存在とは、持続ではなく現象的、刹那的なものではあるが、それを数学に持ちこんだところで、少なくとも現時点で数学はそのような微妙な機微を扱えるほど網の目が細かくない。例えば形式論理では、「ランチには、コーヒーか紅茶がつきます」と言われたときはコーヒーも紅茶も注文したっていいぐらいだからだ。


 理系の学問に哲学を持ちこまない、というのは恐らく20世紀後半からの暗黙の了解だろう。しかし、少しぐらいそう言うのがあったっていいんじゃないか。ソーカルに怒られないぐらいの量だったら、ね。

long time no see.

2006-04-06 01:46:37 | Weblog
 びっくりするぐらい久しぶりの更新、である。三月に入ってから(といってももう四月だが)更新した記憶があまりない。つい数日前にPCの電源が入らなくなったのが限定要因となる「そういえばブログ更新できないな」と思ったのが効を奏して、そうして今こうしている。

 気づけば春休みが終わってしまったので、自分の活動について一度ぐらいまとめておくのがよかろう。この一月半の出来事。

1.「超積と超準解析」(斎藤正彦)を読む。論理学ってすごい。地球の論理ではない、星のかなたの真偽(これを*真[偽]と呼ぶ)を扱えるようになる。どんな実数よりも小さな数。そこには誰が住んでいるのだろうか。ちっちゃいおっさんだったら話は簡単でいいんだけど。

2.岩井克人の本を何冊か読む。特に、「会社はこれからどうなるのか」「貨幣論」には知的好奇心を大きく惹かれた。貨幣の発生と言語・生物の発生の類似性に驚かされる。self-consistentな存在というのは、論理的にはどこかで密輸入されねばならぬのか。対偶をとるとすれば、論理的な飛躍の無い議論というのは必ず他との依存性を持たねばならぬのか。

3.バイト先(塾)に、2年前の卒業生がひょっこり顔を出す。「高校を辞めたい」とか言っていたので全力で説得。私も確かに、5年ほど前まではすごくアナーキーな存在にあこがれもしたがこの年になると退学をけしかけるわけにもいくまい。立場もあいまってどうにか踏みとどまってもらえた(と思う)。しかしこれでよかったのか、悩んでいる。tenseは現在進行形だったりする。人の一生を左右する立場というのはとても疲れるが、やりがいがあるものだと実感。(この夜飲んだビールはとても美味かった)

4.自分が相当「だまされやすい」ことに気づく。当然、たくさんだまされて始めて気づいたのだが。自分のだまされやすさを分析してみると、「相手がだまそうとしている可能性を感じる事ができない」という一点に集約されると思う。もし、この中には嘘があります、と先に言われれば人間誰だって気づく事は出来るのだから、上に挙げた点というのは、だまされやすさの指標になるのではないだろうか。ひょっとしたら私は60億マイナス1人からだまされて毎日をすごしているのかもしれない、とか思うのはとても疲れるがそう思う必要があるのではないか。と言われて信じたあなたも、ひょっとしたらだまされやすいのかもしれない。

5.個別指導で教えていた生徒が、ラス1の赤ウーピンをカンチャンにツモってラス半でまくった。というのはもちろん比喩で、某国立大学に後期で合格した。出題範囲である数学Ⅲ・C及び物理Ⅱを未修の状態で。前期も同じ学部学科を受けた。ほぼセンターで決まる試験方式で、センターリサーチは十分。これなら大丈夫とおもった・・・・が、ダメ。その後、勢いで出した後期試験の会場へ。こんな無謀な受験をするなんて狂っている、狂気の沙汰だ・・・(ざわざわ)。しかしそこでは魅入られた様に・・・・・!