最近、清水明著
「熱力学の基礎」を買った。以前、著者のウェブサイトでβ版が公開されていたのだが、それをプリントアウトして読んで「これは持っていたい」と思う内容だったため、発売日のすぐ後ぐらいに買ったのだった。この本を読む前に、田崎晴明著
「熱力学」を読んでいたのだが、熱力学という完成した分野が、こうも違う風に描き出せるという点について大変驚いた。「熱力学の基礎」のほうはまだ斜め読みしかしていないが、これから理解を深めていきたい。
さて、この二冊を比較してその特徴を明らかにすることは、正直私には荷が重い。すべての点をもれなく上げられる自信など毛頭ない。しかし、誰が読んでも明らかな相違点が一つある。それは、「エントロピー」という概念が清水本ではまっ先に要請として与えられるのに対して、田崎本ではあとから(E-F)/T として定義されるのである。後者は、言い換えれば、熱力学という学問の構成にエントロピーは本質的な関与を持たない、と言い換えていいかもしれない。もちろんエントロピー増大則のような大事な性質は導出され使われうるけれども、エントロピーがなかったからと言って熱力学の決定能力が損なわれるわけでは決してないのが面白い。
技術的な話を上げればきりがない。けれどその心は一つだろう。本人たちに聞いたわけではないから分からないけれど、きっと清水先生は「物理現象を記述するものが数学である」という立場で教科書を書いていて、田崎先生は「物理現象を分析するのが数学である」という立場で書いたのではないかと思う。
「熱力学の基礎」1.3.には「最も広い適用範囲を持つ一般的な形式を記述した教科書」である、と書いてある。要するに、この本は使えるぜ、と現世的利益をうたっているわけだ。それに対して「熱力学」1-3では「本書のスタイルは、完成した熱力学を解説するものではなく、いくつかの基本的な観測事実を積み重ねながら、筋道を立てて熱力学を構成していくものである」と書いてある。これは逆に、この本はある意味で科学のドグマというか、「経験→理論」という科学創世記を記した、ということになる。もちろん、創世記なのだから現実と違う。だけどそれぐらいデフォルメをしたほうが、熱力学の本質を見ることができる。
どっちがいいということはないと思う。ただ、そのような見方の違いがあるから、エントロピー/温度のでてくる段階がまるっきり違うのだと思う。
「熱力学の基礎」での採択基準は「使える」であるから、基本変数を全部示量変数にとって一次転移まで完全に記述する必要がある。だから、はじめに出てくるのは温度ではなくエントロピーであり、しかもそのエントロピーの数学的構造に、熱力学が全部書いてある、という構成にしている。もし読者がその気になれば、この「清水公理系」を解析して、新たな定理を(もしあれば、の話だが)導出することもできる。そしてその定理が物理的解釈をもし持てば、それは立派に物理の定理になる。
言い換えれば、読む側としては「数学から物理がでてきた」ように見えるわけだ。(もちろんそんなことはない。公理系の設定には物理的考察をふんだんにする必要がある。)この書き方は、非常に曖昧さがない。論理の各ステップが数学的に正当化された議論というのは、聞いていてとてもよくわかる。日常言語で記述するより数学で記述したほうが分かりやすい。それが、この本で公理→証明というスタイルを取る理由の一つであると思う。
さらに、公理系を設定することで熱力学がきれいに見通せる。その意味で、一番きれいな熱力学を示したこの教科書は「使える」本なのだ。実際私が学部生のとき、量子論の授業を清水先生から受けることができたし「量子論の基礎」を読むことができたのは、大学生のころに受けた知的興奮のうちで最も大きいものの一つである。
一方「熱力学」は「経験→理論」というある意味「自然」な流れを重視する。(何が自然か、というのは人によって違うと思うので。)そのために、エントロピーのような得体の知れない量をはさておき、温度、すなわち「おのおのの環境を特徴付けるTという実数の量」(引用)を真っ先に導入してしまう。そして、「等温過程は外部に仕事をしない」というKelvinの原理も経験事実として認めることで、物理をあらかた取り込んでしまう。
そして、自由エネルギー差とエネルギー差をそれぞれ等温過程と断熱過程の仕事として定義することで、熱力学は再現できるよ、というわけだ。何ともすっきりしているし、話の筋は分かりやすい。しかしこれだけだったら、本を書く必要などなくなってしまうので、実際は何かをやっているはずだ。それは何かと言うと、Kelvinの原理から何が出てくるか、という分析作業なのだと思う。
先の清水本では、一番いい熱力学を教えるために、「なぜその公理系なのか」という部分を無視していた。「たまたまそれでうまくいったからだ」という説明がしばしばなされるし、実際そうなのだろう。しかし、世の中にはそのような還元作業そのものが必要とされる型の問題はたくさんあるだろうし、例えば熱力学でどうなっているのか、というのを見てみることができたらうれしいと思う。
だから、田崎本はそれをやったのではないか。Kelvinの原理を紐解いてみるとこんな世界がある、ということを数学を使って見せてくれている。そこでは数学は、言語としての性質より道具としての性質を強く持つ。なんだかわからないKelvinの原理も、数学を用いて分析する(分ける)ことで理解できる(分かる)ということを、やってみせているのだろう。
するとそれは、「公理以前」の物理とみなすこともできる。そういう理論体系はちょっとした変化に対してロバストになるだろうから、性能よりも安定性重視とでも言い換えていいのかはわからないけれど、経験を定式化する方法さえ変わらなければ結果はさほど変わらない。そういえば以前、戸田山和久という科学哲学・論理学の先生の話を聞く機会があったのだが、そこで氏は「公理型の理論は摂動に弱いけど、仮説検証型の理論はロバストにできますね」ということを言っていたのを思い出した。
まだ書き足りない気持ちがある。それは多分自分の知識不足から来るものなのだろう。もっと理解が進んだ段階で、熱力学という学問について再び考えてみたいと思う。また単なる老婆心ですが、科学哲学関係の卒論を書かねばならない4年生の方。もし読まれていたのなら、田崎本と清水本の比較をやったりすると面白いかもしれませんよ。