暇に飽かさたな。

はまやわらかいブログ。

おおみそか

2005-12-31 17:35:46 | Weblog
今日、上のタイトルでブログを書く人は何人いるのだろうか。実は、少なくとも一人存在し、かつその濃度は有限であることが証明されている。

おおみそかといえば、小学生の頃など、紅白を見終えたあとの15分がまるで1年のロスタイムのように思えてとても貴重だったものだ。それなのに去年のおおみそかなど、午前0時をトイレで小便をしているときに迎えてしまった。さすがにこのときは少し残念とも思い、今年こそはという気概でいる。さてどうしたものか。

こんな雑感を書いてもしょうがない。もう少しマトモに考えたことを書きとめよう。ということで今日は超準解析について。とてもとてもマユツバです。

実は、無限大を扱う方法は一通りではない。簡単に分けて実無限的取り扱いと可能無限的取り扱いがある。実無限とは、人間には扱えないくらい無限に大きい集合などをそこに「ある」として議論する方法。例えば、「いつもの」実数という集合を考えると、あやつの元すべてを書き並べることはできないし(無限コの元があるのだから当然)、それどころか一つずつ順番に実数を書き並べる手続きは存在しない(カントルの対角線論法というのがある)。それなのに、実数体という集合は「完備化」という数学的手続きを通じて構成されるからあることにしてしまおう、というのが実無限的立場である。
(私は、この「完備化」が無限に関する考察を机の端っこに押しやる仕組みである、と考えている。だって、二つある完備化のうち一方は「実数とは、実数に向かうもの全体である」(Cauchy完備化)という形をとるのだから。非常に巧妙な分、何か考察すべきところを飛ばしている気がする。とは言え他にやりようがないのは事実なのだろう。)
さて、もう一方の可能無限的な取り扱いとは、典型的にはε-δ論法に現れるような、あの形である。何か基準εを設けてもそれより小さく|f(x+δ)-f(x)|をとれるとき連続という、といったあれである。すなわちこちらのアプローチでは、「いくらでも大きく(小さく)できる」ことを無限大(小)の定義としよう、という立場だ。よって、この立場からは、実数体は定義されない、というか「されえない」。なぜならば、元々無限コの元を持つ集合などは空想の産物ですらないとみなすからだ。(もっともらしく書いているが、じつはこの辺の事情は私自身がよく理解していない…。)その一方自然数や有理数の集合は存在する。こちらは、具体的に書き「並べる」ことができるからだ。そのための手続き(数学的帰納法)が存在する。

このように比較すると、可能無限とはなんと窮屈な世界観だろうと思うだろう。私もそう思う。もし数学に実数概念が存在しなければ連続性が定義されず、解析学は成立しない。それに幾何学だって連続性に依拠しているのだから、残るのは唯一離散代数ぐらいだろう。これはいくらなんでもやりすぎだ。

そこで、私はこの無限に関する微妙な選択に対してこのような態度で臨むことにしている。それは、反語的には「実無限の(自然)哲学的困難は超準的に解決せよ」となる。ここで超準解析や超準的とは「無限大や無限小という『数』が活躍する解析学ないし考え方」と取っておく。

そんなむちゃくちゃな、と思うだろうが私にはこれが一番自然な解釈である。それをここから述べる。実無限が問題児扱いされる理由は人間の能力的限界という意味である、と私は解釈している。そこでこれを逆手に取り、「人間に扱えない無限のかなたや微小領域はどうなってたっていい」というのを原理としてあげる。(物理学のカルツァ=クライン理論を思い浮かべた方もいるだろう)ただし、能力を超える部分の正当性は何によっても認められない。本質的に決定されない部分があることを受け入れることにする。
このもとで、実数および超実数(超準的な実数のこと)はどのような扱いを受けるか。例えば「任意の実数xを取る」という文章は、有限の立場からはこのままでは正当化されない。実数すべてを扱うことは不可能だからだ。(実はこれを一つの命題と見て1階高いところから見れば有限の立場で処理できる(証明のステップは有限だから)のだが、これはナシとする。このときはゲーデルさんにでてきてもらわないと話が進まないからだ。)しかし、扱えない実数全体を扱うのは人間の限界を侵していることだ、と了解しながら実数を扱うのならば、それは上に示した原理に基づいて許されるのではないだろうか。このとき、実無限を有限の立場から「正当化」したと言ってもいいだろう、というのが私の考えだ。

さて、このような数学解釈に基づけば、自然哲学的困難をこのように回避することができる。身の回りには実数で記述される時空があり、そこでは物理学というものが成立しているはずである。その様子を記述するための数学としては、標準的な数学では不十分で、超準的に扱われなければならない。なぜならば、物理的世界にも私たちにとって本質的に決定されない部分があるはずで、その領域まで(ε-δ論法で)記述できてしまう実数は私たちの能力を正確に反映していないはずだ。一方超準的なモデルならば、無限小、無限大という構造を直に扱うことができる。このことによってわからないところをわからないままブラックボックスにしておけるのではないか。この最後の一文は私の予想であって、なんら根拠のない片言だ。しかし経路積分やくりこみにおける超準的アプローチの実効性をみるにつけ、私はある種の真実を含んでいると考えている。


長い駄文でした。こんな文章読んでると、小林幸子が巨大化する瞬間を見逃しますよ、トイレにでも行ってる隙に。

ジングルベル、と書いてみたら

2005-12-24 02:36:18 | Weblog
一瞬ルベーグに見えた。こりゃあしばらくシングルベルの前兆。おやカラスが飛んでった。

特に大したことではないのだが、明日の予定を書く。慰み者程度に。
13:00から17:00→バイト先の塾で、小学生を相手にサンタクロースの格好をしてくる。ノルウェーから来たことにしようか。それともフィンランドの方がいいか。

20:00からエンドレス→こんな素敵な時間帯に、麻雀。だけどサンタさん、2つだけお願い。雀荘、混んでないといいな。あと、馬鹿勝ちさせないで。寂しくなるから。

それにしても「日本じゃあ何でイブばっか騒ぐんだ」とかおっしゃられる方をよく見受けるが、そもそもクリスチャンじゃないんだしいいんじゃないかと思う。いや、正確に言えば時々クリスチャンになる。だから論理学の定理「(¬Q∧Q)→P」においてQ=「ある人がクリスチャンである」、P=「その人がクリスマスイブをこそ盛大に祝う」とすれば、示すべき命題Pが導かれる。

いやはや、だまされた気にならない人は幸いである。

プリンキア・マテマティカおよび関連する体系における形式的に決定不能な命題についての

2005-12-23 04:13:22 | Weblog
ブログです。上のタイトルはかの有名なゲーデルの不完全性定理が証明された論文から拝借したもの。ということで今回は不完全性定理について。数理論理は完全に門外漢なのでウソを書く恐れもありますが、ご容赦を。

最近「ゲーデル・エッシャー・バッハ」という本を読んだ。たしか700ページぐらい。俺の肩こりの一因にはなっていたはず。この本の完全なる受け売りなのだが、ゲーデルの不完全性定理をまずは簡単に述べる。本当に簡単に述べると、

「数学の定理すべてに○×をつけてあるとすると、それらが『すべて』『本当に』○なのか×なのかを証明することはできない」

となる。初めは何がなんだかわからない説明だろうが、とりあえずこうしておく。それで、こいつに関して最近こんなことを思った。

数学は、今のままでは上の意味で不完全である。ならば、これをどうにかして完全にはできないのか?そう考えるのはいかにもナイーブな発想であると思う。でも、ゲーデルの定理はとても強力で、何か最強の理論を組み立てて「これなら何でも証明できる!」と言い張った瞬間に、その理論に対してゲーデルの定理がうなりをあげて突進してくる。その音が聞こえるが早いか、ずしん、という音とともにその理論は不完全の烙印を押されてしまう。
では、完全な数学の理論が得られないのなら、ひょっとしたら世の中の現象を記述する自然科学の言語としての数学によっては、その内部的な限界によって記述しきれない現象があるのではないか?例えば、現段階においては数学的に正当化されないような量子力学における「無限」の取り扱いなどはどうだろう?そこで、この疑問を下のようにまとめてみる。(ただし以下では「自然科学」に数学は入らないものとする。)

自然科学的真理全体をTと呼ぶ。(このような集合が存在したとして)Tの元であるが、数学によって記述されえないものは存在するか?

となる。で、これに対する私の個人的な感想としては"NO"だと思う。しかしそれは、数学的に正当化されえない。なぜならば、この世の事象に「Tに入っていれば○、入っていなければ×」とラベリングして、T全体を証明=記述すればいい。この瞬間にゲーデルさんに怒られちゃう。よってだめ。
ならばなぜ私は"NO"と答えるのか。その答えは「自然科学は実無限を扱い得ない。あくまでそれは可能無限的論理に支配されているからだ」といえる。すなわち、人間が扱いうるのは常に有限個のTの元だけであり、その全体をT1とすれば各時点においてはT1を記述する数学さえあればいいのだ。当然、もう少ししたらT1をはみ出すような事実=自然科学的真理が見つかるはずなので、そうしたらそれを含めてT2とすればいい。以降これを繰り返すことができれば実効的にはT全体を記述したことになるだろう。
しかしこれはゲーデルさんに矛盾しないだろうか?いや、ひとつだけ方法がある。それは、「我々は、どんなに頑張ってもT全体を知りえない」とすることだ。こうすれば、不完全性定理によって証明不可能性を保証されたTの元は私たちにとってずっと未発見のままどこか遠い海に沈んでいる。まるでぴったりと閉じた二枚貝のように。それは僕らには決して見つからないのに、ある。ただ唯一、ゲーデルのめがねを通して見たときにだけ、ある、ということだけが見えてくるフシギな真理。

凸関数万歳

2005-12-18 01:32:41 | きもいこと
某北国を髣髴とさせるタイトルである。今年は寒波が来てるけど、あの国の国民は大丈夫なのかな?でも、暖房の元ブログをしこしこと書いている私にそんなこと言う資格があるのかわからないわけで。

さて、話題は凸関数。関数空間の導入部分を勉強していて出会ったのだが、なかなかいぶし銀な野郎である。
凸関数の定義
これだけが定義なのに、たちまち連続性と任意方向の右微分・左微分の存在が言える。(連続性のほうは自分では証明できませんでしたが。)それに、定義域の内点で必ず接平面”もどき”(一意性が保たれないから)が存在することも証明できる。というわけで後者の証明に最近心を奪われていた。ふと冷静になって考えてみると、「おわんは机にのるか?」という証明であったので少しばかばかしくなりもしたが、どの教科書を見ても(予想に反して)載っていない。どうしたもんかと思っていろいろいじくり回していたら証明できた。
support plane の存在
できてしまえばこれだけの話なのだが、個人的には気に入っている。私は解析の入門書として数理物理学者として名高いLiebの"Analisis"を使っているのだが、この本では結構事実だけをさらっと述べることが多いので(まぁ扱ってる内容が多いからしょうがない気もするが)自力でしょうめいをつけにゃならんことが多々ある。そんな時、私はいつも上のような力ずくの証明しかできない。どうしたらエレガントな証明法を身につけることができようか。私にとっての証明のエレガントさは、
1.定義や基本的事実からさほど遠くないところで証明する
2.見通しが悪い計算は極力省く
3.対称性や保存量のような「かっこいい」やつを使う
くらいになるだろうか。特に3は自分でできると悦に入れる。とはいえ、最近思うことは「若いうちは力押しでガリガリ計算しとけ」ってこと。かっこいい省エネな証明をできることはやっぱりスマートで魅力的だけれども、そんなものが急に湧き出してくるはずはない。まずは基礎体力よ、と自分に言い聞かせ、今日も徒労な証明に励むのでした。(というのもセミナーで発表するときに計算だらけの長い証明をつけると、たいていの場合先生の注釈で2行ぐらいで証明されてしまうのが痛いからさ。)

僕はまだ生きてるよ

2005-12-01 23:45:18 | Weblog
ということを訴えるためにブログ更新。いやぁ、最近すべきことが山のように積まれている。昨日まで風でダウンしてたし。しょぼ。

最近、物理実験が熱い。あるサンプルがあって、その抵抗を測りたいどうしますか?と聞かれたら、少し前なら「テスターつなぐ?」とかしか答えられなかったのから考えれば大きな進歩だ。接触抵抗、ロックイン測定、OPアンプ。もう怖くないぞ。これから先使うことはきっとないけど。ただ、一つ気にかかったことは、サンプルに電流を流したら、サンプル内で電圧降下…ではなく起電力が発生したのよ。グラウンドとり間違えたかなぁ。再実験望む。