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はまやわらかいブログ。

「ウン

2007-03-08 23:41:04 | Weblog
コな議論」という本を読んだ。(様々な制約からタイトルを分割したことをお詫びしたい。)ちなみにこちら。犯人は山形浩生です。


 あの、その、なんだ、以下では、人間の固形排泄物の名を関したこの本をUNKOと表記しようかとも思ったのだが、こうしてしまうとなにやら国連の下部組織の略称に見えなくもないため、非礼を承知で直球勝負に出させてもらう。


 世の中にはびこる、詭弁とも言うもおこがましい無数の言説に対して哲学的分析を加えた本文。タイトルは「ウンコな議論」であって、「ホラ」や「ウソ」ではないのが話のポイント。筆者はこの点を、あえて持って回ったような言い方で(そしてそれは「ウンコな議論」がしばしば満たす条件でもあるのだが)指摘していく。単なる怪文書的な感覚で読めば、それで終わってしまう話なのかもしれない。


 しかしそんな筆者の主張を、果たして私は人ごととして消化しうるのか?というのは、やはり心に引っかかった。たとえば今議論が始まる。始めは確信に満ちて話を進めるのだが、だんだん怪しくなってきたときに、本当に「わからない」と言えるのか?もっと言えば「それは、ある種の方法を用いれば解決できるような問題だろうと思う」という類の台詞をはかずにいられるか?「その点は、今の議論では些細な点に過ぎない」と言わずに済むか?


 実際、「ある種の方法」を見つけることを横文字でソリューションといったりするわけだし、「些細な点」であったとしても修復不可能なミスならばそれは決して些細な点ではない。「ウンコな議論」の「ウンコ」たる所以は、それが価値を生まぬ点にある、と筆者は指摘する。すなわち、その議論によって何の有益な情報も伝達されないのであれば、それは「ウンコ」なのだ。(注:本書とは焦点をずらして書いている。これはウンコでないといいな。)その意味において「ウンコな主張」でも「ウンコな意見」でもなく「ウンコな議論」なのである。主張や意見ならまだいい。それは議論でしかないのだ。しかもウンコな。



 いやぁ、この言葉をこんなに連呼したのは小学生以来だよ。学級文庫、学級文庫、学級文庫…。