暇に飽かさたな。

はまやわらかいブログ。

頭痛持ち

2006-10-28 22:55:52 | Weblog
 最近、偏頭痛がする。考え事をすると急に痛くなる。四六時中同じことを考えているせいだろう。何か気を散らせるものが欲しい。しかも夜眠れない。疲れていても頭だけ冴えきってしまって、考え事をするとまた痛くなる。癒しなぞいらぬわ!と言い切れない23歳。


 そういえば、研究室の予算でノートパソコンを買ってもらえることになった。予算が余りそうだから買ってあげるよ、と言われた。そんなことやってるから国債がたまっていくんだろうなぁ、と思いながらも20万ぐらいを1億人で割ればたいした額ではないはずだとも思い、罪悪感を振り払う。


 デスクトップの壁紙をundercurrentのジャケットに変えた。やっぱかっけえぇ。

すこし専門的な話。よってつまらない話。

2006-10-18 16:26:11 | Weblog
 開店休業中だったこのブログも、久々の更新。


 最近の勉強から話をさせていただく。今、van Hemmen-Palmerの論文を読み、レプリカ法の不思議さについて学んでいる最中である。まずその不思議さを伝えることにする。

 以前書いたかもしれないが、レプリカ法とはE[・]を確率変数の期待値として、

lim(n→0) (E[Z^n] -1) / n = E[log Z]

の関係式によって右辺 E[log Z] を求める作戦である。(Z^nはZのn乗) 
 E[log Z] がわかれば、統計力学的にはhelmholtzの自由エネルギーという量がわかったことになり、それを熱力学変数で微分したりすると種々の量が計算できるので嬉しい。だから、上の式が「もし」成り立っているのならば E[Z^n]の計算をするだけでいい。そしてこの量は、nを非負整数に限れば、E[log Z]よりも計算が(比較的)簡単なので困難を回避できた、と喜べるわけだ。大雑把に言ってこれがレプリカ法である。


 しかし、である。とりたい極限はn→0なのに、計算できるのはnが非負整数の場合のみ。要するに関数f(n) = (Z^n - 1)/n を実数に内挿/外挿しなければならないのだ。ここに困難が現れる。計算できた値をすべての非負整数上でとるように、実数上に拡張する方法は何通りかあるか?それとも一意なのか?これをレプリカ法の接続の問題と呼ぶ。

 他にも問題点はもう二つあるのだが、それは上の接続の問題をどのように解決したかによって回答が変わってしまうので、とりあえず上の問題だけを考える。


 まず始めに思うこと。f(n)をn=0 で解析的にして、解析接続させてしまえばいいのではないか。そうすれば自動的に原点周りでfの接続は一意になり、接続問題は解決される。
 しかし、fの解析性からレプリカ法の接続一意性を結論付けるには、どうやら条件が足らないようなのだ。数理物理学者には有名らしいCarlsonの定理というのがあって、その条件を満たすならレプリカは成功する。しかし残念ながら、fはSherrinton-Kirkpatric模型という、(一応は)実際の世の中を反映していると思われているモデルに対してはCarlsonの定理の仮定を満たさないようなのだ。残念。
 もちろん、これはレプリカ接続が原点で一意でないことの十分条件でしかない。ひょっとしたら接続は一意かもしれないし、そうでないかもしれない。上の事実からではどちらともいえないのだ。


 しかし私は、個人的な意見としては一般の場合について接続性如何が示せては「いけない」と思う。それはあくまでmodel-dependentであるべきだと考えたほうが物理的には自然に思えるのだ。
 例えば、虚心坦懐に整数上から実数上に拡張することを考えたとき、ある関数のクラスに制限したとしてもその中でいかようにもできるのは明らかだろう。例えば、f(n) = n が整数上で成り立つべし、と言われたとき、(解析的ではないのだが)十分微分可能な接続は、例えばf(x) = x + g(x);ただしg(x) = 0 if x:整数
と書いておいて、gを決める問題になる。よってg(x) = sin(πx)とおけばいい。

 例えばCarlsonの定理の場合は、複素平面上での関数の増加の仕方を要請することによって上のような周期関数を用いた一意性のなさを巧妙に排除しているのだが、それは決して物理的には自明なことではない。別に、実数上では実は三角関数で変調がかかっているのだ、と言うのは言える。だって、nが実数に対してはいまだ誰もE[Z^n]を計算した人がいないのだから。



 このように書くと、レプリカ法なんてマユツバ以外の何者でもないように思えるかもしれない。しかし、この方法は、現実的には「ほとんどすべての」モデルに対して正しい答えを与えている(ように見える)のだ。(ように見える、としたのは正しい自由エネルギーが計算できないからレプリカ法を使うからで。。)ただし、おもちゃみたいなモデルを作って、どうやらこの上ではレプリカ法は使えないよ、なんていうことを言った報告もある。ってことで、数学的には非自明なのに、現実的には自明なものとして使ってもさほど問題ない。のだ。



 レプリカ法は、どうやら、まぐれあたりにしてはよくできすぎているようだ。

すごい話

2006-10-08 21:03:01 | Weblog
 知人の家に飲みに行ったらノミをうつされた。かゆい。



HAHAHA!



 といったわけで今日も快調な滑り出しである。それなのに書くことがない、残念だ。

 最近、やっていることが専門的になってきて、こうしてブログにそれを書こうとするとあまり意味のないことしか書けなくなってきた。ある分野のスペシャリストというのは、基本的に話が面白くないものだと思う。

塾屋さん

2006-10-05 15:40:06 | Weblog
 久々の更新。やっとこさオリジナルな研究の形が見えてきたので、そちらを突き詰めることに没頭していた。


 ここ二週間で、いろいろと人生初の経験をした。学会というものに出てみたり、キャンプをしてみたり、「ブラックジャック」を読んでみたり(これがかなり面白かった)。


 その中でも特に印象に残っていることは、「塾で教えている生徒(中2のクラス)に本気で怒ったこと」である。今までは、理性的・常識的にしかっていただけだったのだが、このとき初めて感情的に怒ってしまった。先生としてはよくないことなのかなぁ。

 とはいえその時、ほんとに大声で「おいそこ、喋るな、黙って授業を聞け!」などと怒っている最中に隣のヤツと関係ない話をして二人で笑っている生徒がいた、という事実は「私」という人格を否定された気がした。


 そしてこの一件以降、塾というものの機能についてひどく考えさせられた。

 まず、塾というのは「サービス業」であって「教育機関」ではないという純然たる事実。塾は両親からお金をもらい、両親はその対価として塾に子供の学力向上を保証させる。そこに「教師と生徒」の関係はない。だから、例えば全体の迷惑になるような子に対して「静かにしろ」と怒ることはできても「帰れ」と言うことはできない。それはサービス放棄だから。その判断ができる人がいるとすれば、塾の最高責任者だけになる。

 実は、私の受け持っているクラスは、以前小学校でいわゆる「学級崩壊」を起こした子達が多くいるクラスである。そこで私は、学力以前に、公衆の場ではどうするべきか、などのことを伝えていきたいと思っていた。一部のやる気ない者のせいで残りのまじめな子が損害をこうむることがあってはならないというのが私の信条だからだ。

 しかし実際問題として、授業を聞いていない子がわからない問題を解けなくても、授業をまじめに聞いている子がわからない問題を解けなくても、塾としては同じレベルの「失態」なのだ。むしろ、聞いていない子でもわかるようにするのが塾の役割であると言っても過言ではないと思う。なぜなら、できる子は放っておいてもできる子だから塾は放っておいてもいいが、できない子はできないがゆえに授業を聞かなくなる、という悪循環が存在するからだ。(塾講師を始める前は、こんな考え方を少しもしたことがなかった。できる子にだって、今以上にできるようになる権利はあるはずと思っていたし、今もそう思っているから。)

 そして自分から勉強をしない子には、ある種の「調教」のような教授法しか残らない。勉強しないとしかり、勉強したらほめる。努力しなければたきつけて無理やりにでも努力させ、頑張ったら頑張った分だけ愛をもって評価してあげる。私自身は、小・中・高とこのようなプロセスが嫌いだったから学校があまり好きではなかったのだが、現実には私の勤める中学生相手の塾では、その論理で回っている。というかそれしかないと言ってもいいと思う。これをもって「心と心のふれあい」と呼ぶには、私は少しためらってしまうが、しかしそこにしか心と心の接点はない。


 だから、塾講師という仕事は、一般に考えられている以上にハードだと思う。授業を通して向こうの心をつかむということ。それができなければ、「サービス業」の名の下に、努力しないものが足を引っ張る社会主義的な構造が生まれてしまうのだ。塾講師が高く跳ぶ時は、すべての生徒と一緒に高く跳べたときだと思う。