暇に飽かさたな。

はまやわらかいブログ。

ふざけた筆名ですが、やることやる。

2007-01-31 19:31:50 | Weblog
 四方田犬彦に、激しくコミットしている。『日本の女優』での原節子と李香蘭の比較に半ば面白半分に、そして半ば非常に今日的な問題意識を感じながらはまり込み、『映画史への招待』では映画の文法・映画の作法といった私が今まで持ってこなかった映画に対する見方を提示され、『ハイスクール1968』ではむかつくぐらいのキレモノだった彼の高校時代の自伝を羨望に近い目で眺めつつ、当時の美的感性と実験性・難解さへのオマージュに驚かされた。


 それにしても、私はなんと無内容な高校時代を送ってしまったのだろう、と上の『ハイスクール1968』を読みながら思ってしまった。しかし四方田のそれは、60年代・ブルジョワ家庭・稀代の秀才と言う要素があいまってなせる業。そう自分に言い聞かせてしまうその「自分」とやらは、当時の教駒(現在の筑駒)の生徒から見たら去勢された牛や馬と同レベルなのかもしれない。


 人が人であろうとする、その仕方。それは時代によって違うものなのだろうか。気づけば私は、どこかで「幸せ」になることを強制されているのかもしれない。でもそれは40年前の「幸せ」とは、きっと決定的に違うし、そもそも彼らは「幸せ」になろうとなんてしていなかった。あるものは政治闘争に明け暮れ、あるものは前衛芸術に傾倒する。そういうのが「かっこいい」、いわゆるバンカラがはやっていたからだ、とは決して言い切れないと思う。自分を見つめ、自分の内面を見つめ、さらにその内側にある、孤独を見つめること。祝祭的なる結末を拒否し、それでもなおまだ何があるかを追及すること。


 この件について結論など出ない。終わりがない、どこまでも無限降下していく自己批判。それとつきあっていくことが、私にできるすべてではないのだろうか。

なんでやねん

2007-01-20 22:52:56 | Weblog
 My little loverの"Alice"のリピート数が、そろそろ二ケタ台に乗るころだ。青春ドンピシャの曲は、いつ聴いても楽しくなる。


 最近、国語が得意になってきた気がする。塾で国語の先生をしている関係で、本気になって文章を読む機会が前より増えたからだろうか、と類推する。塾で中学生に教えていて一番楽しいのは、間違えなく国語だ。理科は一番つまらない。あんなものは科学ですらないと思う。どこかの誰かが、「理科を英訳すると"Japanese science"だよね」といっていたけれど、それではまるでJapaneseという形容詞が悪い意味に見えてしまうではないか。それならむしろAmeri...とかやり始めると無用な議論に巻き込まれることになるのでやめておく。


 中学校の理・社は、やはり「事実の暗記」に重点があることは否めない。そして、私はそれを必要悪だと思う。科学は、その常識が覆る瞬間に、そのドラマツルギーが最高潮に達する。コペルニクス的転回と言おうが、クーン流にパラダイムシフトと呼ぼうがそれはどうでもいいけれど、とにかくそのとき、僕らは(とすっかり科学者の仲間入りをした気になっているが)、最高に「ハイ」になる。


 だからこそ、中学生には常識を知ってもらいたいのだ。はっきり言って、どんなに精巧にデザインされた実験を見せようと、もうちょっと年をとってから簡単な式変形でかっこええ結果を得ようと、「普通は」どうなるか、と言うことを知らなければ面白くないだろう。アメリカの独立後、フランス革命が起こったことを知らなければ、フランスにも自由の女神があることを教えられても、トリビアの域を越えない。ビビる大木でもなければ15へぇ止まりだろう。


 私は、そういう意味で、中学校での教育は「恐ろしく長い前振り」だと思っている。じきに、すっげえ面白いことに出会うその日まで。今日の話はそのための伏線だ。あとは君がなんでやねん、と突っ込めば、対話が始まる。


(追記)
 なんでやねん、というのは、なんと科学的な反応だろう。私にはその理由がわからない、それはおかしいのではないか?という問いかけ。そう、いつも心の中に西川きよしを。(別に誰でもよいのだが・・・。)

メッタメタのスッタスタにやられる

2007-01-20 00:16:32 | Weblog
 統計力学の教科書でよく見る、自由エネルギーにたくさん谷のある図。準安定状態を絵解きするために描かれるこの図は、その横軸が何なのか?という非常に初歩的な問いですでに瓦解してしまう、というコメントを、以前田崎先生の熱力学の教科書で見たことがある。


 きっと、田崎先生は準安定状態などという微妙なもんを平衡の枠内でとらえようとする態度自体を問題視してらっしゃるのだろうと類推する。以前の集中講義でもそのようなことをおっしゃっていた記憶がある。メタスタやるならまともにダイナミクスに戻れ、と。


 その一方で、物理で昔から用いられてきた処方箋としては断熱近似がある。遅い奴は止める。早い奴は熱になる。こうすることで、複雑な問題が比較的単純な問題×2で表現できることになるからおいしい、という話だ。これなら、手法的には平衡の枠内でメタスタを扱える気がする。


 私は今、この断熱近似側からスピングラス相というまぁ一種の準安定状態を調べている。そうすると、やはりつまずくのだ。これは、とても面白い。


 簡単に「つまずく」と言ったが、これはどういう意味かというと、「答えらしきものは(かなりズルをすると)出るが、それは不正解であることが示せる」ということだ。じゃあ他に正解があるんじゃないか、と当たりをつけていくが、結局最後に残るのは、「消去法で消去されない何か」であって、積極的にそれが正解だ!といえる類の代物ではない。で、そのつまずきが「ズル」に依拠しているのかその本来的困難なのかは決して明らかではないけれども、ある意味でメタスタの本質的な性質が、「ズル」が失敗する一因になることがみてとれる。この辺が、私が面白いと思う点だ。


 こういったことを調べ始めてまだ数ヶ月しか経っていないが、最近の気持ちは、やっぱり最後の決め手はダイナミクスなのかな、ということだ。今の作業に入る前までは、「平衡でわかることだってきっとあるはずだよね」という、言ってしまえば楽観的な、しかし今の私の能力ではそれがある意味でセカンドベストな考えでいた。そしていろいろやって、あれでもないこれでもない、と暗がりを手でまさぐって落し物を探してみたら手ごたえはあるのだけれども、どれが本物かなんて暗くてよく見えない。そもそも本物が手に触れているのかどうかだって怪しい。


 しかしその一方で、やや自己卑下も込め、このように思う。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とはよく言ったものだ、と。怖い怖いと思っているとススキまで幽霊に見えてしまうことを言ったものだけれども、それとは逆に、難しい難しい、と思っていると、今いじっていないもの・見ていないものが正体のように思えてしまう。けれども、それはホントはただの枯れ尾花なのかもしれない。けどホントのホントは幽霊なのかもしれない。それはわからない。わからないからつい期待をしてしまう。


 そして、そんな物理川柳を。


 メタスタの
   正体見たり
     うときもの

            架空の原点を設定したがる我、詠む。

切れてないっすよ

2007-01-15 22:34:44 | Weblog
 某お笑い芸人の持ちネタより抜粋シリーズ第二段。


 最近、一次転移と二次転移の境目みたいな場所をうろうろしている。ここで一次転移してたらうれしい・・・とか思いながら秩序変数をプロットしてみたのに、なんだ連続関数じゃん。と思った瞬間、タイトルの言葉が思い浮かんで無性にむかついた。長州小力が悪いわけじゃないのに。

はじめてのおっさん

2007-01-09 16:14:24 | Weblog
 昨日のことになるが、人生最大の不覚をとったので書いておく。


 夜、バイトから帰ってきて、今で食事をとりながらテレビを見ていたら、「はじめてのおつかい」が流れていた。何の気なしに観ていたら、最後の子のところでもうそれはそれは思いっきり泣いてしまったのだ。


 確かに私は涙もろいほうで、ちょっとしたことで(特に疲れているときなどは)涙が出てしまうのだが、テレビのお涙頂戴モノで泣いてしまうとは。。ち、違わい、ちょっとキムチが目に滲みただけな(以下略)

雑感

2007-01-06 02:09:13 | Weblog
 どうしようもないタイトルで申し訳ない。しかしそれ以外に言えない、この感じ。(最後まで書きこの行に戻って書き足す。これはあなたにとって読む必要などおそらくない、完全なる私への自己補完。)


 自分の中で、対立する二つの意見がある。

 一つの言うことには「汝大人であれ」と。さっさと人に認められる仕事をしろ、それでこその研究者だろう、という圧力をかけてくる。

 もう一方の言うことには「汝焦るべからず」と。まだお前はペーペーなんだからじっくり勉強を重ねるのが先だろう、と言ってくれる。


 このように思う今の私は、はっきり言って功を焦っているのだろう。早く結果を出したい、周りから一目置かれたい、という自己顕示欲がどうにも止められなくなっているのかもしれない。今、周りにいる人たちに迷惑を掛けているのかもしれないけれども、私は正直なところどうしたらいいのかわからない。どうしたらいいのかわからないのは、私が思う「まじめに研究する」ということを実行に移そうとすると、なぜかいつもこのような結果になってしまうからだ。


 およそ研究と言うものは、誰も知らなかったり、気づかなかったりしたことを誰にも明らかな形で表現する作業と言い換えていいと思う。だからといって、誰も知らないことを自分だけ知ろうとする、あるいはその後したり顔で語ってみたりするのはあまりいい趣味ではないだろう。ここは論理というより倫理の問題であるとは思うが、ひょっとしたら若いうちというのは論理を学ぶのと同時に、いやむしろそれ以上に、研究を進めていく上での倫理的側面を学ぶ時期として捉えてみるのも自らの成長を促す上で有用なのではないか、と最近になってわかってきた。


 研究者の倫理観については、昨今実験データの捏造のような低次元の問題が噴出している。しかし、それとは別次元の倫理的問題として、この世界で飯を食っていくことは、精神的には恐ろしく微妙な綱渡りなのではないか、と思う。研究しその成果を発表すると言う仕事、そこには多かれ少なかれ自己顕示の要素が含まれてしまうからだ。その要素を完全に嫌えば、ポアンカレ予想を証明したペレルマンのように隠遁生活を送る他ない。自分の思い考えたことを研究者の倫理に照らして間違えのないよう他の人に伝えることは、恐らく、とても難しい気がする。


 私は、(まずこうして主語を明示するあたりからして自己顕示欲が強いのを露呈している感はあるが)できることならこのような我と彼の心の問題に拘わらずに生きていきたい。たとえ研究職という仕事についたとしてもつかなかったとしても、自分を保って生きたいと思う。楽しいと思うこと、気持ちが高ぶるようなこと、美しさにひと時の安らぎを得るようなこと、巧妙に仕組まれた機知に心躍らされること、そういったことたちと一緒に生きていきたいと思う。この年になるまで、私はこういったことを一人の世界に満たすことで十分な気持ちになっていたし、こういったことたちは本質的に人と共有できないものである、という認識を持っていた。


 しかし、研究職という仕事は違う。この仕事は、私の中で生まれる何かを、私の中で充足させていてはいけない。絶えず外部に対して発信せねばならず、しかもその発信源としての私は、絶対的に間違えてはならない。これが研究者の論理だと思う。もしもこれだけで研究者になれるなら、とにかく頑張ればいい。少なくともちょっと前の私はそれだけでいける、と思っていた。

 というのも、半年ほど前私の大学の先生が、「むちゃくちゃスゴイ奴を除けば、心の問題はとても難しい」という旨の言葉をかけて下さったことがあった。しかし正直あの段階では、何のことを言っているのかわからなかったのだ。「だったらむちゃくちゃスゴイ奴を目指して勉強すればいいんじゃん」と、浅はかながらも思っていたのだった。そして、その成れの果てが、いまここにいる。




 小学校以来、「人の嫌がることはやめましょう」と、道徳の時間に言われてきた。私はこの意見に根っから賛成だ。その理由は、ない。論理ではないレベルで、私は人の嫌がることをしたくはないと思う。私は、私に与えられた力をまず私のために使い、残った部分は残らず人にあげてしまおうと、もういつだかはわからなくなってしまったが高校のある時期に決意した。出し惜しみをすること、怠惰であること、尊大であること、こんなものは燃えないごみの日に捨ててしまえ、と自分に言い聞かせた。そうして私は子供時代をすごした。

 社会的には、私はもう立派な大人だ。しかし私の倫理観は小学校のときのまま、私の心の中に深く根付いている。これ以上、いかなる倫理規範を積み重ねれば私は大人に、そしてできるならば一人前の科学者になれるのか。それがわかるとき、私はすでに科学者であると思う。

2月下旬に

2007-01-04 23:05:45 | Weblog
 旅に出ようと思っている。自分の中で、一区切りをつけたいのだろう、きっと。


 大学に入ってすぐだっただろうか、正確なところは忘れてしまったが、京都に夜行バスで行った記憶がある。現地に5時半ごろ下ろされ、まだ寒かった(ということは春か?)朝の京都駅を、開いている店もない中放浪した。そして、車中で眠れなかったせいか駅前のベンチで一眠りしてしまったのだが、その後ラッシュアワーの雑踏に目を覚まされた。京都という幻想は、このようにして到着直後に砕かれたのだった。


 今度は、バスをやめて電車にしようと思っている。18切符を買って(すでに二割増程度の年齢だが)鈍行に揺られながら寒いところ・暖かいところをみたいと思う。現在のところ、日本海側を回って関西を経由し東海道線で関東に帰る、という予定だ。アホみたいに降った雪を見てみたい、と言ったら北国の人に怒られてしまうかもしれないが、そんな気持ちでいる。


 そう言えば、琵琶湖畔にお城があった気がする。昔NHKの番組で観てきれいだなぁ、と思った記憶があるので、そこにも行って見たいと思う。名前は、忘れてしまった。名前などわからないほうが面白いだろうし、きっと。

あけました。

2007-01-01 07:22:02 | Weblog
 おめでとうございます。今年は亥年で、私は気づけば年男。なので今年は猪突猛進とにかくがんばろうと思います。


 と、初日の出を拝みながら願う。「頑張る」という言葉が好きなのは日本人の習性らしいけれど、自分はいわゆる日本人なのだからしょうがなかろう。それよりも、今こうして頑張れるということは、いろんなモノ・コト・ヒトに支えられているのだなぁ、といまさらながら実感してしまう。そこまで見て、その上で頑張りたい。