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ゴーゴリって聞くとまず

2007-03-05 23:29:14 | Weblog
 戦車から変形するロボット(変形後も足はキャタピラ)を想像しますがロシアの作家です。念のため。


 光文社古典新訳文庫「鼻/外套/査察官」を読んだ。確か、大学生協で岩波のラルボー「幼なごころ」を買ったとき、ポップ広告が気になって手を伸ばしたのだった。確かそれは新聞の切り抜きか何かで、ロシア文学研究家が「ロシア文学ってこんなに面白かったんだ」的な趣旨のことを書いていたからだった。ちなみに翻訳の文体は落語調の江戸弁。するってぇとそりゃあ洒脱なこと請け合いってなわけだ。


 さて内容はあまり触れないけれども、読んでいる最中、三篇の主役ともにどうも自分と同じものを感じてしまうなぁ、ということを感じた。小市民な「外套」の主人公がだんだんと生き生きとしてきたところで話が急展開して不幸のどん底、とかほら吹きの「査察官」の主人公とか、見栄っ張りの「鼻」の主人公とか。

 けれど、だからと言って日常で起こりそうな一こまを描写した小説ではなくて、例えば「鼻」の主人公は、朝起きると鼻がきれいさっぱりなくなっている。「?」を5つぐらいつけながら読んでいくと、結末では噺家もさじを投げちゃってよくわからないまま話が終わる。でも、そんな笑いのあり方は、自分の笑いと近いものがあるなぁ、と思いながら3篇を読み終え、最後についていた解説に目を通した。すると、こんなことが書いてある(以下抜粋)

ゴーゴリは「笑い」を持ち出すことで、自分の「死せる眼」を隠そう
としたのだ。彼は「笑い」によって、せいぜい「生きているふり」をして
みせたのかもしれない。


 ここに言う「死せる眼」とは、生きている者を戯画化してピン止めされた標本のような物として描き出すこと。


 そうか、そうなのよね。ここで私はなぜか色んなことに合点がいってしまった。戯画化による笑いってのは、相手を殺してしまうことなのかと。そして、そのように登場人物を描き出すゴーゴリに自己投射をしてしまう自分は「せいぜい『生きているふり』をして」いるだけなのかと。そしてその思いが募れば募るほど、なんだかいわれのない非難を人から受けたような気になる。



 だからと言ってその死せる眼でしか見えない世界もあることは疑えない。ぶっ飛んだ世界はあっち側のものにしか見えないはずだ。死んで見なくちゃ分からないことを知りたくて、私はゴーゴリにパイルダーオンする。(ちなみにこの時、キャタピラからちゃんとした人型に変形する。)うーん、生きているって、不思議だなぁ。