暇に飽かさたな。

はまやわらかいブログ。

熱っぽい話。

2006-07-29 05:02:28 | きもいこと
 熱力学は懐が深い。いろいろなアプローチがあってどれから攻めても面白い結果が得られるし、数学的厳密さの広がりが非常に広い。大学一年生でやった熱力学のレベルから、数学的に最も厳密な、公理的取り扱いまで。今日はそんな熱力学の話。


 まず、平衡熱力学を特徴づけよう。それは「物理学の必要条件」であるのだ、ということを示してみたい。
 
 平衡熱力学は現象論である。目の前の物質の振る舞いをいろいろ集めてきて、抽象/捨象したら平衡熱力学ができた。例えば一成分流体では、その気体の体積、物質量などを抽象し、色、においなどを捨象した。
 そうすると、以下の二つの事実が浮かび上がってきた。

事実1.断熱環境では、外から加えた仕事が内部エネルギー差になる
事実2.等温環境では、外から加えた最大仕事がHelmholtzの自由エネルギー差になる

というか、この文が内部エネルギーとHelmholtzの自由エネルギーの定義だとする立場を私(というかこれは完全に学習院の田崎先生の受け売りなのだが)はとる。この立場では、要するに断熱環境では仕事が、等温環境では最大仕事が、それぞれ状態空間上のexact formになっていることを主張していることになるが、まぁそれはそれだ。ちなみに巷では、1に相当するものを熱力学第一法則、2に相当するものを熱力学第二法則と呼ぶ。(とは言え、この二つの法則からニュートン力学のように熱力学がすべて演繹できるわけではないことに注意)

 そして、ここからが本題だが、上のようにして得られた事実1・2はその後一人歩きを始める。例えば、原子核の崩壊は事実上断熱過程とみなせるが、エネルギーが保存していないように見える。しかしこれは、質量がエネルギーと等価であるから、質量がエネルギーを補償したのだ、と相対論では説明される。しかし、ひとまず非相対論的な見地からものを述べれば、これは熱力学第一法則を破らないように質量という「補正項」を入れたことに対応する。
 また、Maxwellの悪魔は、等温環境で仕事を加えることなく、Helmholtzの自由エネルギーを取り出す。明らかな第二法則違反であるが、悪魔の「記憶容量」をエントロピー項に取り込むと第二法則はその範囲で満たされる。

 ここからわかることは、物理学は熱力学を「破らないように」作っているのだ。このように書くと、なにやら物理は何かドグマティックなものと思われてしまいそうだがそうではなくて、「物理たるものかくあるべし」という物理学者の間でのある種のコンセンサスのようなものなのだ。だからもちろん、熱力学の範囲に収まらない物理を一から構成する異端児が現れたっていい。しかし、そのようにして従来の物理のわからなかった部分がわかり、しかも正しい結果を出す限りにおいてそれは”正しい”物理学なのだ。やはり平衡熱力学と矛盾する理論は作りにくい。なぜなら、目の前ではエアコンや冷蔵庫が正常に動作し、高温で強磁性体は磁性を失うというまさに「現象」が確認されるという、ただ一点に尽きる。

 というわけで、熱力学が物理学の必要条件だ、といいたくなる意味がつたわっただろうか。物理学に与えられた必要条件は、今のところ熱力学と相対性原理なのだが(と思っているのだが)、物性屋は主に前者、ハイエナジーな人は主に後者、宇宙論の人は両方の枠の中で仕事をしていくことになる。(逆に言えば、それはある種の研究の指針にもなる)


 次は熱力学ユーザーの気持ちを反映させてみよう。上の節は少し基礎的過ぎた。

よく「熱力学がわからないのは偏微分のせいだと思っている人がいるかもしれないが、実は熱力学の本質は偏微分にはない」という先生がいる。その人たちは(少なくとも私が話を聞いた人たちは)そこから、偏微分の変数変換などなどができなくても熱力学はできるようになるということを一生懸命演繹しようとするが、それはいくらなんでも不可能だ。だって熱力学の本質が偏微分計算にないからといって、偏微分の計算を「前提とした」ところに熱力学の本質があればその理解は自動的に不可能になるから。
 確かに熱力学が面白くなるのは転移点付近の系の振る舞いを解析するときであるが、このときはしばしば熱力学関数が微分不可能になる。そこでは当然、偏微分を基礎とした解析は破綻することになる。だから確かに、偏微分計算が本質的でないという指摘はある意味で正しい。
 しかし。どこの世界に車をまっすぐ走らせられないのに車庫入れができる人がいるだろうか。確かに、車庫入れの技術とアクセルの踏み方にはあまり相関や因果関係はないかもしれないが、ものには順序というものがある。やはりまずは十分な階数の微分可能性を仮定して、なにがどこまでわかるかという話をするのが、物理的には筋ってもんだろう。(数学は逆だ。はじめはできるだけ仮定を要れず、何がどこまでわかるか調べながら種々の定義をして条件を強くしていく)

 ここで主張していることは、数学的な俎上に載せるともう少しわかりやすくなる。早速だが、思い浮かべてほしい。熱力学的な状態がその元で一意的に指定できるような集合を一つ考える。そこに何本か仕切り線を入れて集合を区切る。この線が、相図の境界面であると考える。このとき、その空間からとったある点に対応する熱力学的な状態の様子がよくわかっているとする。このとき、なにがどこまでわかるか?という(かなり曖昧な)問いをたてたとすると、私ならまずこう考える。

 まず、きっとすぐにわかることは、仕切り線を一回も越えないでいける範囲内の様子だな。ならまずはこの辺から調べよう。

 こうすると、熱力学関数は微分可能になり、陰関数定理によって様々な微分計算(とくに微分形式を用いた計算)が正当化できる。これはある程度数学をちゃんとやっていれば練習問題みたいなもんになるので、物理的な考察なしに、ある一点での情報がそれの入った連結成分上の情報に簡単に拡大できることになる。このレベルのことに四苦八苦していては、仕切り線を越えることはできまい。と私は思う。

 私は、熱力学をやるのに微分形式の知識は最低限必要だと思うし、実際巷に出回る熱力学の教科書は、Caratheodoryの形式(微分形式の知識を前面に押し出したもの)の劣化コピーに過ぎないと思う。なぜなら、相転移の問題はめったに扱われず、扱われたとしても中途半端なものだからだ。それなら、学部一年生に対して教えるべきは、欲張らずに変数変換やら陰関数定理やらではないのか。そんな気がする。(よく不思議に思うのは、力学の先生はNewton方程式を積分して解こうとする。保存則に訴えて何かをしようとすることはあるが、それはむしろおまけである、という点だ。どちらも同じ物理なのだ、熱力学にだって難しい数学は使われているのだし。というか間違えなく熱力学のほうが難しいし。力学は時間一変数だけど、熱力学は一成分流体に限ったって二変数(例えば(T,V))だ。変数が増えるとそれ特有の難しさがあるはずなのだが、あまり認識されない。なぜMaxwellの関係式を使うと様々な関係式が示せるのか。これは偏微分方程式の解の可積分条件であるという事実が物理的には何を意味するかという話になって、突き詰めれば普遍被覆群への局所的なPoisson代数/指数写像の作用となる。ほら、熱力学だって突き詰めるとリー環が出てくるのよ。いや、でも物理は答えが出る理由を必要としない学問なのか…?とは言え、個人的意見としては、定式化された問題に対して答えが出るかどうか、という点でも、熱力学がある種の制約としてかかってきているという感想を抱いている。ニワトリか卵か。)





 やっぱり、熱力学は不思議だ。不思議だからこそ、物理だ。しかし物理は熱力学に含まれなければならないと言ったから、これは循環論法なのかもしれない。

凸関数万歳

2005-12-18 01:32:41 | きもいこと
某北国を髣髴とさせるタイトルである。今年は寒波が来てるけど、あの国の国民は大丈夫なのかな?でも、暖房の元ブログをしこしこと書いている私にそんなこと言う資格があるのかわからないわけで。

さて、話題は凸関数。関数空間の導入部分を勉強していて出会ったのだが、なかなかいぶし銀な野郎である。
凸関数の定義
これだけが定義なのに、たちまち連続性と任意方向の右微分・左微分の存在が言える。(連続性のほうは自分では証明できませんでしたが。)それに、定義域の内点で必ず接平面”もどき”(一意性が保たれないから)が存在することも証明できる。というわけで後者の証明に最近心を奪われていた。ふと冷静になって考えてみると、「おわんは机にのるか?」という証明であったので少しばかばかしくなりもしたが、どの教科書を見ても(予想に反して)載っていない。どうしたもんかと思っていろいろいじくり回していたら証明できた。
support plane の存在
できてしまえばこれだけの話なのだが、個人的には気に入っている。私は解析の入門書として数理物理学者として名高いLiebの"Analisis"を使っているのだが、この本では結構事実だけをさらっと述べることが多いので(まぁ扱ってる内容が多いからしょうがない気もするが)自力でしょうめいをつけにゃならんことが多々ある。そんな時、私はいつも上のような力ずくの証明しかできない。どうしたらエレガントな証明法を身につけることができようか。私にとっての証明のエレガントさは、
1.定義や基本的事実からさほど遠くないところで証明する
2.見通しが悪い計算は極力省く
3.対称性や保存量のような「かっこいい」やつを使う
くらいになるだろうか。特に3は自分でできると悦に入れる。とはいえ、最近思うことは「若いうちは力押しでガリガリ計算しとけ」ってこと。かっこいい省エネな証明をできることはやっぱりスマートで魅力的だけれども、そんなものが急に湧き出してくるはずはない。まずは基礎体力よ、と自分に言い聞かせ、今日も徒労な証明に励むのでした。(というのもセミナーで発表するときに計算だらけの長い証明をつけると、たいていの場合先生の注釈で2行ぐらいで証明されてしまうのが痛いからさ。)

raison d'etre

2005-07-16 14:57:32 | きもいこと
このブログの存在理由は私がきもいことを発露することにあると思ったので、そうすることにする。

 特殊相対性理論、というのがある。あれに関しては少なからず誤解と欺瞞が蔓延していると思うが、私自身としてもさほど理解しているとは思えない。こうやって何かを書けば自分の中で少し理解が深まる気がするので、その真偽はあまりお気になさらず。
 この理論の前提はざっと言って二つある。もし半厳密な公理的構成をしようとするならばもっとたくさんあるのだろうが、とりあえず直感的に理解しにくいものや、ある種のスローガン的なもののみを、物理学では「公理」といわず「法則」という。そんなゴタクはどうでもいいが、とにかく前提の二つを書けば

・相対性原理・・・   どの観測者にとっても、(その人が慣性系にいるならば)物理学は平等である
・光速度不変の原理・・・(なぜだかしらないが)光の速さはどの慣性系にいる観測者にとっても等しい

となる。一つづつその意味を探ってみよう。まずは相対性原理。これは意味づけとしては「だってそれが物理じゃん」という、アインシュタインの”要請”である。
 たとえば、相対性理論が生まれる前、物理学者は観測者間の相対性についてどう考えていたかというのを日常語に翻訳して言えば、
「まず世界に神様がいる。その神様のいる世界では、僕らの知っている物理学は厳密に成立するんだ。しかし、僕らの住んでいる世界は不完全で、その神の世界(イデア?)の影でしかないのだ。だから僕らは、まず神様の世界の物理学を作って、それを毎回自分たちの世界に焼きなおして使えばいいんだよ」
というものだった(と理解している)。業界用語を使えば、絶対慣性系(神)に対して相対的に等速直線運動している系はすべて慣性系であり、その慣性系に対して加速度運動をしている地球は慣性系ではない。慣性系でないところでは絶対慣性系の物理学は成り立たない(実験事実!)から、そこに慣性力という仮想的な力を加えて議論をするのだ、となる。

 しかし、この考え方にアインシュタインは異を唱えた。僕らの住んでいる世界を主役にしたものが物理だ!そう高らかに宣言したのだ。そこに、後世の人は「相対性原理」と名づけた。しかし現実問題として、電車に乗った人はその出発時に後ろ向きに引っ張られる気がする。私は電車の中に静止していただけなのに、といわれてしまえば、その瞬間にアインシュタインによるルネサンスは終わりを告げる。そこで彼は一つペテンをする。加速している人を除外した物理を作ってみようとするのだ。そんな例外だらけの物理が物理か!と怒らないで。加速している人からみた物理も、彼はその11年後に作り上げる。そう、一般相対性理論とよばれる、今日宇宙的スケールを語るための唯一の言語を彼が一人で(というのは嘘で数学者の助けを借りて)作り出すのだ。

随分長く書きましたが、相対性原理のポイントは一つ、それが観測事実や実験結果から帰納的に導かれたものではなく、物理学たるものこの要素を含まねばならぬ、という演繹的な方法で導かれたものである。演繹的、というとすわりが悪いので言い換えると、要するにそういう物理学が作れたらいいな、というアインシュタインの”願い”である。

次に光速度不変の原理だが、これは長い説明を要しない。なぜなら、「だってそうなってるんだもん」。それ以上に言えない。だからひょっとしたら、光の速さが見る人によって違っても問題はないかもしれないし、どこかの誰かが光より早い光、遅い光を見つけてくるかもしれない。だとしたら、とても面白いことだ。


と、長々書いてきたが、これを読んだところで相対性理論がわかるようにはならない。けれど、アインシュタインの心意気みたいなものを僕は理解したいと思って昔とても考えた、その足跡を残すということも必要かな、と思った限りだ。こんなことが存在理由であるブログですが、まぁいいんじゃね?

近似とは

2005-06-08 23:11:34 | きもいこと
Born-Oppenheimer近似について。あれは、つまるところ「原子核を止めておいて電子ハミルトニアンの固有関数を計算した後、その固有関数で分子の波動関数を展開する→数値的に評価」という流れを持っている。
 今まで、僕の中での近似の捉え方は、○○に比べて大きい・小さいのでもう一方は無視できる、程度のものでしかなかったので、後者の数値的な評価をもってBO近似としていた。ところが、永田先生の話によれば「そもそも原子核を止めておいて電子ハミルトニアンを『計算してみよう』と思える段階が近似の一歩目だ」とのことだ。これはどういうことだろう。

 原子核の質量は電子よりはるかに重い。すなわち、古典的描像ではりんごと地球の関係と同じで、地球を止めてりんごに働く重力のみを考察したことに対応する。そこから、重力加速度、という近似概念を生まれたわけだが、このような概念が成立しうると気付くのは、万有引力の法則の級数展開を第一項で切ったからではあるまい。重いものは動きにくい、という直感がその概念の成立規範だ。すなわち近似できるかどうかを判断し、めんどくさい数値評価にエネルギーを注ぎ込むことが近似の第一歩である、という主張がここに現れる。

 それにしても、これが物理的思考なのかもしれない。数学のみで考えると、「近似というのは数値的にある制度で許容できるもの」ぐらいのもんでしかない。しかし自然科学では、概念の成立において非常に大きなウェイトを近似が持っている。世の中の法則の99%は近似法則である、といっても過言でない(かもしれないとは言い切れないと思われる)。少し賢くなった気がするが、これもきっと丸め誤差程度のものだろう。

熱方程式の解の解析性

2005-06-06 18:25:34 | きもいこと
少し感動した。よーいどんでの熱の分布を連続的にしておくと、わずかの時間の後に分布は解析的になるそうだ。この記事のカテゴリーを「きもいこと」にしておいたが、この事実のほうがよっぽどきもい気がする。
これに関して。熱方程式の場合、熱の伝播は速度無限大で起こる(i.e.⊿t秒後に任意のxでf(x)!=0)のだが、これが要因の一つかもしれない。それと、解析関数ならば最大値の原理が成立するはずだから、初期値としてC上に解析接続したさい最大値を持つ関数を取ったならばどうなるのだろうか。調べてみよう。