武産合気(たけむすあいき) 平成25年4月26日
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以前、合気道の創立者、植芝盛平先生の言葉を、紹介したことがある。
あらためて、先生の言葉を、紐解いて読んでみると、やはり、含蓄の深い、精神というより、悟りを開いた大師のようなスピリチャルな、魂の高揚を感じる、迫力ある文章に出くわす。
合気道は何かという問い に、植芝師は、
”すべてを自己に吸収してしまう、引力の練磨です。
相手もなく、敵も無く、それらはすべて自己の中に吸い込まれてしまい、自己に同化させる。
悪を悪として、切らず、悪を祓い浄めて、和合していくのが合気道だ。”
と答える。
”私は宇宙と一緒だ” という、師の言葉も、常日頃、切磋琢磨して心身共に、宇宙の理にかなった、調和と愛の中にご自分を置いているという 確信のあらわれだろう。
”小我” を超越して、自分の 得だとか為 だとか、傷つかないようにとか、守るとか そういう、小さい自分意識を原点にした感情から、大きな、大我、私たちの言葉でいうと、アートマの自覚に到達した人の感慨だ。
日頃の修練の意義は何か?という問いには
”頭でいくらわかっていても、実際に行えなければ、何もならない”
実際に行うとは、考えずに、咄嗟に、体が一番適当な位置でしかるべき対処をして、自分の身を相手の攻撃から守ることができるということ。
つまり、意思 と 心 と 行動 が一緒になってこそ、合気道の達人といえるという。
心 と言葉 と行動 が一緒になって、善きことを為せる人を、有言実行の人という。
武道においても 同様で、口先だけでなく、想いだけでもなく、行動がともなうために、日頃の修練が必要であるというのは、どんな、分野においてもあてはまることだろう。
さて、植芝師は、こうして、宇宙と一体化して、愛の発動が武道であるという、宗教の悟りに似た境地にすでに達しておられるのかもしれない。
それが証拠に、以下の言葉を残している。
これは、空 とは何ぞや?についての、師の感慨である。
”大虚空 は 何処から生まれたかといいますと、一切があって、一切がない空(無) からであります。私がいう、無 とは虚無ではありません。
ありてあるところ、対象のない光一元 の世界であります。
この世は、この無よりの 生長であります。”
ブログでもたびたびお話しさせていただいた。
空とは、すべてのすべての総点であると同時に、真善美、つまり、光明の一元、時空を超越した、原点であり、その投影が現象世界であるということ。
それが、師の最後のアンダーラインをひいたところの、言葉の意味でもある。
さらに、師は続ける。
”この世は 神の世であり、人間は神の子なのであります。”
神 という言葉が抵抗あれば、完全で円満で調和ある愛のエネルギーと言葉を代えてもかまわないだろう。
そして、我々は、そのエネルギーを 魂と細胞 に受け継いでいる生命体であるということ。
これもまた、ヴェーダ哲学の観点から、まさに、至極の道理といえよう。
”今まで、物質科学のみが 発達し、魂の問題がなおざりにされていました。
今日では精神文明と物質科学とを平行にすえき時代なのです。
そうしなければ、世界の和合はありえません。
合気道は精神科学であります。”と言い切る。
”合気道は無抵抗主義である。
無抵抗なるがゆえに、初めから、勝っているのだ。
邪気ある人間、争う心のある人間は、初めから負けているのである”
ある人が問う。
どうしたら、邪気のない、争う心のない人間に修練できるのかと。
師は答える。
”それには、まず、神の心を己の心とすることだ。
それは、上下四方、古往今来、宇宙の隅々までにおよぶ、偉大なる愛である。
愛は争わない、愛には敵がない。何者かを敵とし、何者かと争う心は、すでに神の
心ではない。”
”武技を争って、買ったり負けたりするのは、真の武ではない。
真の武は、いかなる場合にも絶対不敗である。
即ち絶対不敗とは、絶対に何者とも、争わぬことである。
勝つとは、己の心の中の ’争う心’に打ち勝つことだ。
与えられた自己の使命を成し遂げる事。
いかにその理論を難しく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。
合気道はこれを実行して、初めて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである”
最後に 師は、スポーツについて、一言述べておられる。
合気道はスポーツか という質問に対する答えである。
”我が国の武道はスポーツとはいわない。
武道とは、自己を造る、自己を完成させるところものである。
我が国には、本来西洋のような、スポーツというものは、ない。
日本の武道がスポーツとなって、盛んになった と喜んでいる人がいるが、
日本の武道を知らぬも甚だしいものである。
スポーツとは、遊戯であり、遊技である。
魂の抜けた、遊技である。
魄(はく)=肉体のみの 競いであり、魂の競いではない。
つまり、ざれごとの競争である。”
今更ながら、日本武道の気迫と精神、魂を悟らせる 道 と名のつく、日本の文化の奥深さを知るとともに、宮本武蔵の、剣の道への執念が、日本人に愛されてやまない理由がわかるような気がした。
参考: 植芝盛平先生 口述
”武産合気”高橋秀雄編
昭和57年5月20日 青年合気道同好会発行
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