自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

地球のバイオリズム②1600年ごとに、22.5度の検証篇

2017年05月30日 | 健康のための心の波動

 ロンドンのユダヤ系財閥と世界エネルギー極点の関係

********************************* 2017.5.30


 難解な本だった。
この本*(枠外注)の最終頁の裏側に数行こんな言葉が添えられている:
”本書はファンタジーであり、すべてフィクションです。 
登場する人物、団体、地名、国名などはすべて架空の世界です。 
本書の内容が現実の出来事と一致しているのは、偶然の一致と
お考え下さい。” 
この著書の言葉を尊重したうえで、今日から私が主観的に
同調して数回にわたり、ご紹介する、ブログの内文は 
この本の引用部分を中心にした、ファンタジーとしてお読み
いただければ幸いだ
 *******************

地球には 地球のバイオリズムと称する仕組みがあるという。

それは先回のブログで述べた、地球の文明の中心地は

 “正確には1611年間に経度にして22.54度‘ 聖なるリズム’の焦点は

西側にスピンするのだ。” という言葉に重なる。

 現代に至るまでの、その法則の流れに沿った古代文明発祥地を

シュメール古代文化までさかのぼって、現在まで検証してみると、、、

 

① 古代シュメール文化の中心地、エリドゥを基点として、

22.5度スピンすると・・・

② インダス文明の  中心、モヘンジョダロにあたる。

その次に栄えた文明は・・・

③ モヘンジョダロから22.5度ずらすと、東経90度 インドの

ガンジス文明の中心にあたる。 

ガンジス文明から1600年後、その次に文化が栄えた中心地は、・・・

 西暦400年 ガンジス川から、22.5度ずらせた、唐の中心、洛陽 にあたる。

ここは、中国の中で最も長く、都として栄えた場所だ。

⑤ さらに1600年後、つまり、現代の2000年。 

東経135度、日本の標準時間を現す明石時間の場所とは、兵庫県明石、

淡路島を貫くラインがこれにあたる。

 

ここでは、ギリシャやエジプトなどの古代文明が不在だ。

というのも、東から西に進む経路と反対の経路、西から東に進むバイオリズム

経路あるからだ。

シュメールの大神官は、それについて、こう述べる。

 

”東回りスピンと西回りスピンがある。 

東回りスピンの前半の800年間は昼、つまり、活動期、後半の800年間は夜、

つまり、睡眠期になり、対照的に、西回りスピン前半の800年間は睡眠期、

後半800年間は昼間の活動期にあたる。

現代の資本主義文明の繁栄はこの西側活動期の晩期である。”

 

つまり、中国の繁栄(東周り)は800年間続いたあと 西暦1200年に、

モンゴルの増大した勢力に、征服され休止期、いわゆる’睡眠期’に入る。

一方、対照的に、西から東に回る(西回り)スピンでは、中国が衰退した

頃から、イギリスが活動期に入っていく。

前回の冒頭で見たように、イギリスで発展した文化はこの時期あたりから

世界に及ぼす影響力を持つようになる。

具体的には、イギリス人としての王、エドワード一世が即位したのが1272年。

イギリスは昼の活動期に入った1200年代から、産業革命など革新的な時代を

迎える。

因みに、イギリスの位置に来る前の文明中心地はというと、イギリス繁栄期から

さかのぼる1600年前、

つまり、紀元前400年。ギリシャ文明の最盛期にあたる。

 

これについて、大神官は語る;

〝西回りスピンの一周期前は、ロンドンから22.5度東、それは、

東経22.5度だ。

このラインはギリシャ文明の真中心であり、後のローマ文明と続く

文明の脈動ポイントだ。

ギリシャ文明真中心の地とは、ミケーネとスパルタを縦断する

位置にあり、さに、この経度はそれを示す。“

 

東回りスピンと西回りスピンとを同時に見てみると、以下のようになる。


①第一文明期は 

東回りスピン=東京45.0度=シュメール文明中心、西周りスピン

=東経67.5度=前インダス文明の中心

②第二文明期は、

東回りスピン=東経67.5度=インダス文明中心、西回りスピン

=東経45.0度=メソポタミア文明の中心

③第三文明期は、

東回りスピン=東経90.0度=ガンジス文明中心、西回りスピ

ン=東経22.5度=ギリシア文明の中心

④現代の文明期は第四文明期は約1600年前から現在に至るが、

東回りスピン=東経112.5度=中国文明(唐)の中心、西回りスピン

=東経0.0度=欧米文明(アングロサクソン文明)の 中心、ロンドン 

 

ここで、先回の冒頭に書いた、ユダヤ系の世界的財閥、秘密結社などが、

ロンドンに本拠地を置き世界に多大の影響力を持つパワーを確立したことは

どういう関係があるのだろう?

 

少し長いが、要点を、叡智の神官が以下のように解き明かす:

 

”聖なる焦点は、人類だけでなく、動植物すべてにとって、生命力が

活性化される焦点である。

聖なるポイントになった地は過去において、一つの例外なく、自然界も

最も豊かに栄えた地だ。

ユダヤの人々は領土がないという不運を背負っているが、この不運こそ

彼らが確率的に、他民族よりこの法則の影響を受けやすい条件でもあった。 

例えば、初代ロスチャイルドには5人の子供がいて、ヨーロッパ各国に

分かれて事業を展開したが、その一人であるネイサンは、ロンドンの焦点

力が最大となるタイミングにロンドンの地に移転している。 

後にロスチャイルドが世界的な力を獲得するのは、この 唯一ロンドンへ

移転したネイサンが異常なまでの利益を上げたからだ。”

 

アメリカ合衆国の最大財閥ロックフェラーは ロスチャイルドと深い

関係を持つ。神官はいう:

”アメリカ建国を実現させたのも、経済の視点でみれば、ロスチャイルド家

の力と言ってもよい”

ある人にとって、そこへ行ったから運が開けたとか、その場所で多くの

ラッキーな巡り合いや出来事が重なった体験があるかもしれないし、

その反対もあり得るだろう。

いわゆる、運が良い人、と言われる人達だが、ロスチャイルド家で

一番成功した、

ネイサン氏が文明全盛期を迎えた ロンドンでその運をつかんだというのは、

偶然ではないのかもしれない。

 

地球上の場所、緯度や経度によって、その場所特有の個性的波動が

あるようだ。

三島由紀夫がかつて、暁の寺院(タイ。バンコク)を舞台とした小説を

書いたが、その中で私が行こうと思ってもいけない、その場所が私を

招かない限りは・・というような言い回しがあったのを記憶している。 

それは本当だろう。 行きたいと思っていても、なかなか行けない

ことはよくあることだ。

国外国内にかかわらず、パワーのある場所へ行くというのは、

その土地の磁場に招かれてのことなのかもしれない。

こう考えると、ロンドンに拠点を構え、大成功を収めた企業や組織は、

意識せず、この時期にロンドンの持つ、エネルギーやパワーにひきつけられ、

同じような波動を持つ企業や人々が集まりますます その地の活力を広げ、

増大させていったのだろう。

 

だが、そうした傾向は、21世紀に入ったころから、少しずつかげりを

見せ始めていくだろうと、シュメールの神官は語る。

それは、地球のバイオリズムの法則で、次の文明の中心地が脚光を浴び

つつあるからだという。

それが 日本・・・だとしたら?

***********

参考:
ガイアの法則 千賀一生 2010年 徳間書店

 

続く~

 

 

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地球のバイオリズム:導入篇(1)

2017年05月25日 | 健康のための心の波動

 

日本人の精神性が世界に影響を及ぼす時代 の 前章

********************************************2017.5.25

 難解な本だった。

この本*(枠外注)の最終頁の裏側に数行こんな言葉が添えられている:

”本書はファンタジーであり、すべてフィクションです。 

登場する人物、団体、地名、国名などはすべて架空の世界です。 

本書の内容が現実の出来事と一致しているのは、偶然の一致と

お考え下さい。” 

この著書の言葉を尊重したうえで、今日から私が主観的に

同調して数回にわたり、ご紹介する、ブログの内文は 

この本の引用部分を中心にした、ファンタジーとしてお読み

いただければ幸いだ

 *******************

何年前になるだろうか? 

千賀一生氏の 古代日本で踊られたであろう、巫女の舞の体験集会に

参加したことがある。

そのきっかけは 氏の書かれた、”ガイアの法則” を読んだことだった。 

 

青色の本のカヴァーには

“ロスチャイルド、フリーメーソン、アングロサクソン、なぜ彼らが

世界のトップなのか?”

と副題のように数行に渡って書かれている。

さらに、目次に進むページには3ページにわたってこんな言葉が連なる。

“ロスチャイルド、フリーメーソン、アングロサクソン、 

なぜ彼らによる世界が今、揺らぎ始めているのか?

そのすべての秘密も、ここにあった。

抽象論を超えた本物のワンワールドが、今、明らかになる。

この世界には一般人が知る、学問体系とは別の 知の体系がある。

本書は隠された知の体系に 出会った体験記である“

 

この本の中に登場する、叡智の存在は語る:“文明にも寿命がある”と。 

どこか、胡散臭いイメージが付きまとう、ワンワールドという

言葉は聞きなれたが・・・

”本物のワンワールド”とは? 

人間の知恵を超えた、その叡智ある存在は、古代シュメール文化、

現在のイラクに栄えた

古代文化発祥の地で かつて最高神官だったと名乗り、読者を

地球の鼓動へといざなっていく。

 

冒頭に彼は質問する:

“近代から現代に至る世界をリードした民族や団体は、

どこを拠点にそれをスタートし、

どこを本拠地としてそれを発展させてきたのか?”

近代から現代にかけて、最も世界に影響を与えた国、といえば、イギリス、

その本拠地は、ロンドンだ。

近代文明の先端で主導力を発揮してきた、世界的組織、財閥、冒頭の

ロスチャイルドフリーメーソンなどの本拠地は すべて、イギリスの

首都ロンドンに集中している。

 

たとえば、世界大戦時代、日本の面積の三分の二しかないイギリスは、

地球の先進途上国の70%程を、自国の植民地として支配していた時もあった。

近代政治の礎を築いたのもイギリスだった。

17世紀、議会政治、民主主義の生まれた国でもある。

ところで、5月5日のブログ記事にも触れたが、民主主義国家といえども、

実際はほんの一握りのピラミッド体系の頂点にたつ世界的財閥の意向によって、

国家は左右されている。

彼らは有名銀行やマスメディア、大企業を牛耳っており、巨額な資金を動かして、

世界中の株式市場を操る。 

つまり、”世界は政治によって動く”以前に、”彼ら”、世界的財閥が操る主要国の

首脳たちの言動を通して、動いている。

言い換えれば、彼らのパワーと経済力を背景にして、動いてきたし、今も

動かされているといっても過言ではないかもしれない。

その巨大財閥の根拠地が、イギリスの中心地、ロンドンであるということは

どういう意味があるのだろう?

アメリカ大陸に多くのイギリス人たちがフロンティア精神とともに上陸し、

開拓を続け、アメリカ合衆国の礎を築いた。

だから、世界のポリスマンという肩書を持って、紛争や内政に関与して多大な

影響力を駆使するアメリカ国の原点もロンドンにあるといえよう。

シュメールの最高神官はこうした流れを念頭に、それに関する一つの法則をここで

教える:

“人類のすべての歴史は一つの例外なく、一つの法則に導かれてきた。

それこそ、我々が‘聖なるリズム’と呼ぶ至宝の力なのだ”

イギリスがこれほどの世界に影響を与える近代史上第一の国になった背景には

”聖なるリズム”があるからだと、神官は言う。

聖なるリズムとは何なのだろう?

 

シュメール人はシュメール文化において、正確に天体の運行を把握していたことが

様々な研究からわかっている。 

そのシュメール文明の’宇宙周期象徴学上’の理論では、地球の聖なるリズムが存在

すると言われている。

そのサイクルは1611年。 その周期で、22.5度ずつ 世界最大の影響力を持つ

パワー軸が東西にそれぞれずれて来たという。

つまり、古代シュメールからこのサイクルで勘定していくと、

東回りのサイクルでは、1995年には、その位置は東経135.0度にあたるという。 

これは日本の中心 明石を通る軸である。 

明石、つまり、日本が、これから、世界に影響力を与えていく地球の中心文化、

精神・物質的のセンターになる時代に入ったというのだ。

あまりピンとくる話ではない。

もう少し詳しく観てみたい。

複雑、しかし、とてもシンプルな図式、方程式がそこにはあった。

そして、このシュメールの神官の智慧には、現代に通じるただならぬ気迫のこもる

真実 そして、宗派を超えた真理が含まれている箇所をいくつか見つけた。

 

次回に続く・・・

 

参考:

ガイアの法則 千賀一生 2010年 徳間書店

 

 

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母とスタッフさん共に顛倒ダウン

2017年05月20日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

インナーパワーの自覚をしたスタッフ    2017.5.20

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野球無料イラスト画像 に対する画像結果

 

先々回、音楽で弾けた日 5月5日の事を書いた時、最後の下りに、

私自身にこの日をもって戻ったと書いた。

ちょっと、良い気分になりすぎえていたかもしれない。

翌日から、しっかりと現実の厳しさが待ち構えていた。

 

翌日、つまり、5月6日のこと、母の体に痛みが表れた。 

寝返りを打てず、体を起こすことも困難な痛みだったが、当初はどこが痛いのか

スタッフの人達もよくわからなかったようだ。

様子をみてということで、私の所に、その痛みが尋常でなさそうだと、

連絡が入ったのはそれから約1週間たった、13日土曜日だった。

 

その1週間の間、異様に痛がるので立ち座りが困難、安静を試みて、

あまり、活動させないようにしていたら、今度は数日間の便秘になった。

連絡を受けすぐ、ホームに向かった。

 

母に、 セラピーを施して半時間、昼食後とり、幸い、1時間後、母は、便意を催し、

トイレに入った。 

ウサギのうんちのような形状で、20分便座に座って、何とか、数日間の溜まりものは

出ていったようだ。

背中の痛みは思ったより少ないような気がした。

 

母は去年、一昨年と、大腿骨を折り、手術している。 しばらく検査を受けていなかったので、

5月15日月曜日午後、執刀医のいる整形外科病院に行くため、母を迎えにいった。

いつもの通り、家を出るとき、”今から向かうので母を玄関のところまでお願いします”と

ホームに電話を入れる。

電話を受けたスタッフの口調はいつもと様子が異なり、口ごもっている。

“ちょっと、無理です。ちょっと、事件が・・・。いえ、また、いらしたら、お話します” 

と慌てた様子で、電話を切った。 

 

胸騒ぎを覚えながら、10分後到着、二階の母の部屋に入ると 異様な光景に驚いた。 

母は泣きべそをかきながら、青白い顔で”痛い”と言いながら、横になっていた。

その傍らにスタッフの女性が ”本塁ホーム、滑り込みセーフの”形で左手だけ伸ばして、 

不自然に寝そべっている。

野球無料イラスト画像 に対する画像結果

その手の先には、氷で冷やしたタオル。それを母の顔に押し付けている。 

”転んだのですか?” 

”はい、顛倒、全身強打で、二人とも身動きできないほど痛みがあるようです”と

先ほど電話口で対応したスタッフが答える。

冷やしたタオルをまず、外してもらった。 こういう時はかえって、体の気の流れを冷やすことで

滞らせるからだ。

理解できた、。

不自然に寝そべっているスタッフは母の”介助”で横になっているのではなく、

母を支えたとき、バランスが崩れて、一緒に横倒しになったのだ。 

彼女も母と同様、かなりの痛さがあったのだが、痛いと言えば、母が心配するので、

何事も無いように、”痛いよ”と声上げている母を むしろ、なだめながら、

母の顔にタオルを当るために、左手を突き出していた。

‘どうですか?’とまず、そのスタッフに声をかけた。

‘救急車を今、呼ぶか話していたのですが、私の背中と腰、右手足が動かず、動かそうとすると

激痛が走るので、今は動けないから無理と他のスタッフに話したところです。

と 彼女は、異常のない、左手で腰をさすりながら、いう。

とにかく、手当してみましょう、と私。 有無を言わせず、セラピー体制になった。

人は苦しい時はわらをも掴む というが、拒むことなく、お願いしますといった。

 

すると、開始後、数分もしないうち、彼女は声を上げた。

“ヤスヨさんの今充てている手!なんて熱い手のぬくもり!、

体の芯に通って、痛い場所を抜けていく”

と驚いたように私を見る。 

”電気療法をしたことあるけど、その時の刺激とよく似ている。気持ち良いです”

それからさらに、半時間後、

不思議、不思議、ほら、右手が動く、”と言いながら、様子を見に来たスタッフに 

肩から硬直していた右腕と手を 動かして見せる。 

そうこうしているうちに、一時間あまり後、彼女は半身を起き上がらせて、

壁にもたれかかることができた。

以前 母と海外に旅したとき、幼かった息子とベッドの上でふざけていて、

ベッドから転がり落ち、母は、今のような状況になったことを思い出した。

とても痛がったが、セラピー後、何事もないように いびきをかいて寝てしまった。

10日後 帰国して整形外科に行くと、肋骨が折れていた。 

”よく、高齢(すでに70歳超えていた)にかかわらず、旅してまわってこれましたね”

医師は驚いた。

このスタッフさんの場合は、体を起こし、足腰の動きから、骨は、折れていそうもない。

ホットした、 

 

ここで、初めて母の体に私は向き合った。 

手を当てていくと、母の体も見る見るうちに 柔らかくなっていく。冷たかった手足が温まる。 

母は尿意を覚えたが、当然、トイレにたてないので、リハビリパンツで用を足した。

かなりの量だったのだろう。シーツが汚れた。 その交換をしたくても、

半時間前は体を左右に向くことができなかったのが、30分もすると、

体を動かし横をむくことができたので小ぎれいに身を整えられた。

 

そうこうしている中、迎えの人が来て、そのスタッフはどうにか立ち上がらせてもらい、

母のいつも使用している車いすに乗って、母が本来行く予定だった、病院へ向かった。

その様子を見ながら、

“お母さん、観てごらん。

さっきまでお母さんの車いすを引いていてくれた人が今、それに乗って、部屋を出ていったよ。” 

”お笑いコントの一場面のようだね” と、話しかけると、母は高笑いをした。

“ははは!可笑しい! ほんとうに、滑稽だ!”

さっきまで笑わせようとすると、”笑わせないで!体中痛いから、やめて”

としかめ面でこぼしていた母が、今は、声を出して、笑い転げている。 

まるで、女学生が笑いツボにはまって、何を見てもおかしいような、そんな気分になったようだ。

 

これから自分はどうやって、家に帰るか?体が痛くて動かないのに、どうしたらよいか?”

と困惑していたと 施術中、スタッフは私に語った。 同時に母を気遣って、

明るい雰囲気を保った。

“お母さん(と母を呼ぶ)、可笑しいね。

二人して、床に倒れていて、通りすがりの入居者さんが見ていくよ。

同じ姿勢で一体何やっているのかしらってね・・・”

と面白そうに語り掛けていた。

私も思わず、もらい笑いする。”ほんと。なんかこの光景、なかなかないものねえ“、

母は、”肩が痛い、左手も曲がらない、右手がしびれている、イタイイタイ、”と言いながら、

やめてよ、笑わせないでよ、痛いよ、笑えないよ“ と半べそで愚痴る。

”泣くより、痛くても、こういう時は笑った方が 早くよくなるよ“ と私。 

2時間の間に、いつの間にか、自然と、母の部屋は笑い声に満たされていった。 

母が痛いのはかわいそうだったが、正直、母のこうした本来の明るさのツボに触れて、

一緒に笑いあえることは嬉しかった。

母にとっても、笑い声をあげたことは、久しぶりだったろうと感じた。

 

にかく、スタッフさんたちは秒読みで忙しい。部屋の外から声が聞こえる。

あ、トイレ、待って、今行くから。 あ、~さん、どこへ行くの、

そこは、押し入れだから、開けたら・・・あ、危ないですよ、、、

ほらほら、いろんなものが落ちてくるでしょう。触らないで、もっていかないで・・

ピンポーン。。。はい、誰かしら、電話だれか出てください・・・

~さん、今、濡れたのを脱ぎましょうね。着替えますから、待っていてください。

 

忙しいから、当然、余裕のある時にこそ、できるであろう いわゆる、無駄話的語り掛け 

はなくなる。

入居者の皆さんたちはといえば、学校のクラスのおとなしい生徒たちのように、

大きな楕円形のテーブルを囲んでじっと黙りこんで座っている。 

そういえば、二階に上がって、“こんにちは”と筆者が通りすがりに声かけても、

皆さん、自分に言われているという意識がないように、表情も変えなかったなあ。

 

母の高らかな笑い声を聴きながら、心の交流、の意味と意義を実感した。 

なぜって、心の交流 は エネルギーの交換だから。

その中で、良くなろう、頑張ろう という”心意気”がわく。

心の交流はエネルギーの流れの場、生命はエネルギーだから、それに触発される。

立ちたい、歩きたい、食べたい、観たい、これしたい、あれしたい という 意欲 が湧く。

良くなって、~へ行きたい、食べたい、会いたい~こうした欲(願い)が 次の行動につながる。 

行動したら? と想像すれば、フレッシュな希望につながる。

希望を持つと楽しくなる、

また、意欲がわく。 好循環だ。

 

今回の”事件”は意義深い。

スタッフの方にアートマセラピーの体験をしていただいたこと、もその一つだ。

私にとっては、今後、母の身心の安定を維持するための処置をするにあたり、

とても有意義に思えた。

そのスタッフは 代替え治療行為などはほとんど認めたことが無かったと話した。

家族に医療関係者が多いので、迷信ぐらいにしか思っていなかったという。

にもかかわらず、自らが、癒されていくプロセスを体験し、流れる電流のような気の暖かさを

実感で、キャッチして、痛みの軽減や、神経や筋肉の硬直が緩まる体験をした。

車いすに乗って運ばれていく直前まで、 温湿布をまだ充てられているように、

体が暖かいのが不思議だと話していた。

彼女は それを、“inner power” (内に潜むパワー)=インナーパワー と表現した。 

その通りだと思う。

 

因みに付け加えると、翌日、整形外科に行き、母は背骨12番を圧迫骨折していたことが判明した。

母の手術を担当してくださった、病院副委員長K医師は、筆者と顔なじみである。

入院当時も自然治癒力などのことを話した記憶がある。 なので、今回も 

では、3週間ほど、痛いと思いますが、自然治癒力で骨の回復を待ちましょう”と 

有難い結論をいただいた。

 野球無料イラスト画像 に対する画像結果結果報告ですが、おかげ様で3週間後に母の骨折部分は自然治癒で、通常状況にもどることができました。 暖かいご声援ありがとうございました。(2017.6月15日)

 

 

 

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和歌の由来と和歌山県/お宮参り:

2017年05月15日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

”あかはなまの歌”の影響  2017.5.15

********************************************

 

最近若い人達の間で、俳句が親しまれる

ようになっていると聞く。

俳句は五七五の字数を使うが、

元々は短歌が本源といわれる。

 

短歌は五七五に加えて七七文字、

合計、31文字が使われる。

ホツマツタエ第一綾によると、

この短歌は和歌と呼ばれ、

イザナギ・イザナミの尊の間に

生まれた若姫が、和歌をよく読まれ、

”あわの歌”は幼少時より、唱えて

おられたので、身心の順気が

十分にみなぎり、言霊の浄化を

発揮したと書かれている。

 

中宮 向津姫(ちゅうぐう むかつひめ)

は民の歎きを聴(きこ)し召し、

若姫の神と供に急ぎ伊勢より紀志伊国

に行啓をなし” と原文にある。 

 

中宮とはアマテラス大神の妃であり、

姉妹にあたる若姫とともに、

紀志伊国(きしいのくに)に、

当時、稲の害虫により不作が続いている、

現地の水田の害虫を祓い、清めるために、

お出かけになった。

 

“中宮は田の東(き)に立(た)ち玄(おし)

参(くさ)を持って扇(あお)ぎ、

若姫の神は、歌を詠(よ)みて祓(はら)

給えば、蝗虫は忽(たちま)ちに

去(さ)れり” とある。 

 

この時 祓いの言葉として、

うたわれた歌は

 

たねはたね  

うむすぎさかめ 

まめすめらの

ぞろはもはめそ 

むしもみなしむ

 

意訳は、

田(た)種(ね)畑(はた)種(ね) 

大麦(うむ)小麦(すぎ)栄(さか)

芽(め)黒豆(まめ)小豆(すめ)等(ら)

(ぞろ)葉(は)も喰(は)めそ 

蝗(むし)も皆(みな)鎮(し)む」

と漢字を当てはめることで、

なんとなく意味が

掴みやすくなる。

 

これを360回続けて歌い、祓うと、

稲虫は去り、稲は以前のように”、

青々とよみがえったとある。

 

“繰返し三百六十回詠い響(どよ)

ませば、蝗虫は西の海に

ざらりと飛(と)び去(さ)り、

汚(お)穢(え)を祓(はら)えば

稲はやはり若やぎ甦(よみが)えるなり。

 

こうして、この歌は祓いの効果を持ち、

害虫は皆、飛び去って行く

ことが記されている。

 

この時の若姫の功績が、アマテラス大神

の中宮に認められた。

 

歌の徳により枯れたる稲の

若返(わかかえ)る故、歌(うた)

和歌(わか)と名付け

紀(き)志(し)伊(い)国(くに)

和歌(わか)の国(くに)と稱す。” 

 

つまり、この時に詠われた歌が 

現在まで続く和歌の由来となり、

それまで”きしいの国”と呼ばれて

いた国を 和歌国と称するようになった。 

和歌山県の云われである。

 

さて、なぜ、五七の音数の

組み合わせでできているのか?

それを物語るのが以下の引用文である:

 

或日、花(はな)杵(きね)尊は姉の

下照姫に問う 

「歌は五と七言を綴(つづ)るは何故なるや」。

 

姉姫の答(こた)えて

「これは阿倭の歌の音の節なり」

と曰す。

 

また花杵尊の問う; 

「祓いの歌は三十二言なるに、

今三十一言に定まるは何故なるや」と。

 

 現代的に訳せば、なぜ五七音が

歌で使われるのか?という弟君の問いに、

あわの歌’(~注1)に倣い、

五七音を取り入れていると姫は答える。

 

すると、皇子は、あわの歌は

32音なのに、なぜ、和歌では31音になって

いるかと、さらに聞く。姉君が答えるには:

 

姉姫答えて

太古(いにしえ)天神は天(あま)

周(めぐり)の度数を算え、

三百六十五と定むなり。

これを四季上・中・下に分ける時、

三十余りの一となれり。

 

しかし、一月を見れば

二十九余(あま)りなり。

これは月の遅く巡るに因(よ)る。

故に三十一を本数に定(さだ)むなり。

 

意訳すると、姉君のいうことには、

”太古の昔、天の神は、一年を365日

と定めたが、それを月に

平均すると、30より多く、

月によっては、29プラス@ 

となるので、

31を定数として決めた”という。

 

余談だが、なぜ、お宮参りに

女の子は生まれて32日目に行くのか?

日本古来行事の所以がここに書かれている。 

 

姉君はさらに続けて、弟君にいう。

“季節によりては、前後の半日を

算(かぞ)え合(あわ)せれば

三十二日となれり。

 

この故に邪神の其の日(ひ)間(ま)

窺(うかが)いて障碍をなし、

病を発し、蝗(いな)虫(むし)を生じ、

蒼生を障害する故に

余声を詠うなり」。

 

人は敷島の上に生まれ、

其の日より三十一日に至ると

産土(うぶすな)神(がみ)に詣で

其の恩を謝す。

 

女子は魔を恐れる故に、

三十二日に至りて産土神に

詣で恩を謝す。

これは地神に感応するためなり。

故に和歌の音数と同じ故に、

敷島の和歌の道と稱するなり。“

 

つまり、季節の運行によっては、

一月が32日となる場合があるという。 

すると、この余白の部分に邪神が

漬け込み、災いや病が起きやすくなる。

 

よって、男の子は31日めに、

産土神に無病息災を祈り、

女の子は魔が入るのを避けて、

32日めに同様 産土神社に詣でる

という。 

 

和歌の道、31音と、あわの歌32

に隠された深い日本独特の数に対する

こうした感性が ホツマツタエ1

に綴られていた。

 

注1)あわの歌とは、

“あかはなま、いきひにみうく、

ふぬむえけ、へねめおこほの。

もとろそよ、をてれうせえつる、

すゆんちり、しいたらさやわ”

という歌である。 

 

え音、お音が この歌に二つずつ、

含まれているが、

いわゆる、昔の表記文字でいえば、

”お音”が現在も 

“お” と “を” の両方が

使われているように、

二つずつ同音異表記の文字があった。

 

 

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私らしさと母らしさ~介護の中での歌の役割

2017年05月10日 | 介護と自然治癒力

 

音の力!弾(はじ)けることができました  2017・5・10

***************************************

 

母の 記事を載せるのは久しぶりだ。

母がグループホームにお世話になってから、一年半がたつ。 

下の写真は昨年暮れの クリスマス会での一コマ。 

向かって右側の写真、母と話している女性は、 筆者が入るときに親身に相談に

乗ってくださり、

 

 

                                ホーム長(入所当時)と母

この方がいらっしゃるのなら安心かもしれない~と最終的に決断するきっかけになった

前ホーム長だ。

 

母をホームに送る前の私は 他者が'はらはら'するような状態だったのかもしれない。 

先日、当時の母を担当してくださっていた民生委員の方に道でばったりお会いした。 

”あの時、報告書を書くのにも、貴方にお会いするのをためらっていました。

だいぶ、介護でお疲れと聞いていたので。

なので、タイミングをお聞きしようと、その前に、妹さんにお電話で、状況をお聞きした。

お姉さんの精神状態が悪いとお聞きしてましたし・・・でも、お会いしたら、思った以上に

普通に対応していただいて良かった・・” 

と 過去を回想して、少し、言いにくそうに、語った。

後日、妹と会ったとき、そのことを確かめてみたら、

”だって、本当にひどかったじゃない? ’今、間に今入らないほうが良いかもしれません’

と 確かに、その民生委員の方にお話ししたわよ” という。

私が’ひどい’という事は、母の認知のスイッチが入ったときが”ひどい”という意味でもあった。  

母は、デーサーヴィスを受けていたが、その施設のショートステー(夜のお泊り)は 

ベッドが空いていても断られた。

断れる理由は、’母の対応を十分にできるだけの職員さんがいない’ということだった。

言い換えれば、自分の世話を独占的にスタッフにしてほしいという母の願望から出る行動や

言葉の数々、それにこたえるのには、とても、夜間、15人の入居者に一人の職員という状況で

は”無理”というのがその理由だった。

母のそばに、寄り添い、悔いの無い介護を全うしたいと 私は、母が要介護になって以来、

5年間以上、そう願い続けていたから、どんなに苦しい状況でも、施設に母を送るという考えは

無かった。 

しかし、母が大腿骨骨折を 次々と、左右 骨折したときから、認知と幻覚症状、が輪をかけて

進んでいくとともに、ともに傍らで徘徊する母を見守るために、自分自身の睡眠が数か月間、

取れないときが続いた。

妹が民生委員の方に電話で私の状況を上記 のように伝えたのはその頃だった。

 

娘さんの様子がたいへんそうで見るに見かねて・・相談をしに来ました。”

ケアマネのFさんがそれから数か月後訪れて下さった。

Fさんが語るには、母の夜のお泊りを断ったその施設の担当者Sさんが 専門家が手を焼く

母の認知介護状況をFさんに伝え、

’須田さんが1人で母の介護を夜間抱える段階ではなくなった”と漏らしていたので、

心配になったという。

同時に、Sさんはすでに、上の写真、Uホーム長に母の受け入れ可能かを打診していて

可能であるという返答を得ていたということだった。

そのような背景があったので、ケアマネFさんは、弱気で涙を流して感情的になった私に、

ぜひ、ホームの見学だけでも。。家族共倒れにならないうちに” と私に促した。 

そこで、夫とともに、勧められるまま、すでに伏線が敷かれていた、Kグループホームの

Uホーム長(当時)を尋ねることにした。

Uホーム長は、私の愚痴とも相談とも言えない話を 笑顔で聞きながら、

”皆さん、家族で見れるところまでは見たいとおっしゃるのですよ。 

でも、家族が認知の家族を見るということは、想像以上に負担がかかっている現実です。 

あなたも精神的に気丈夫でいても、体がいつか参るかもしれませんよ。”

と こちらの現状を理解しつつ

罪意識を持つご家族が多いのも事実です。 

ホームに大切な親を入れるという自分を赦せないという意識は多くの方に、

共通していますよ。” 

とも言われ こちらの心情に理解を示してくださった。

 

葛藤のすえ、母をそれから数か月後、Uホーム長の元で運営されている、グループホームに

お願いする決心をした。

今日、この写真(その後のクリスマス会)を載せたのは 百聞は一見にしかず、

母の笑顔がとても精神的に安定してきたことを物語っているようだから。

Uホーム長の信念は隅々までいきわたっていたので、Kホームの職員の方たちの心配りや

美味しいお食事、献身的なお世話は 母の精神的安定につながる大きな要因だったと思う。

 

そのほかに、たぶん、私なりの見解で恐縮だが、”母と私の絆”のなかでこその理由が

あるように思う。

それは、ある意味 ”私自身が自分らしく戻るということが、関係のないようだが、

母の精神安定に一役かっているのではないかということ。

母と 2キロほど離れて暮していても、自分らしく生き生きすることが、母の’今’にも

影響しているような気がしてならない。

親子はどんなに離れていても、たとえ、あの世とこの世の隔たりがあるほどの

距離だとしても、結局、直線的につながりあっていると信じているので、

今の私の心持は母の魂に直結していると感じている。

 

介護する側が精神的身体的にある程度ゆとりを持てる環境を整備することは 

被介護人のために必要だと今になれば冷静に思う。

人との関係、愛と憎しみが交差する中、愛で相手を想えば、その愛はすぐに伝わるし、

憎しみで思えばそれもまた伝わるだろう。 

ましてや近親者の介護中ではその伝達は即効だろう。

 

愛している人を、一瞬でも、感情の波の中で、憎しみのまなざしで見たことはほんの

一瞬でも無かったと、言えるだろうか?

それが介護となった場合、たとえば、老々介護の場合、介護する方も何らかの身心不調和を

もって無理を押して、介護を続けるうちに、’殺傷沙汰事件’が起きるケースは 時々ニュースと

なる。

介護中、思いがけない瞬間が来る。 愛情が、憎しみ~に変わってしまった瞬間だ。

それは、介護で疲れて解放されて休みたい、少し離れたいという自己防衛が嵩じて

相手の存在を疎ましく思う時かもしれない。

それまで押し殺されていた感情が飽和状態になって、炸裂する瞬間なのかもしれない。 

 

介護で慢性的に疲れてくると、こうした尋常でない感情が起きても、スルーしてしまう。

自分の休息につながる、必要な時間、そして、自分を取り戻し’自分らしくなる’ 

いうことすらその時は、’罪意識’と被さっていたから、持つことすら考えなかった。

その背景にはその原因となる、小体験が重なっていた。

 

母と同居していたとき、まだ、ずっと、体が動き、元気だったころ、少し

息抜きしたいと思って外出したところに、母から携帯電話がかかってきた。

イライラした声で、

”どこにいるの? 80歳過ぎたババを 一人残して一体どうしようというの!” 

などと電話口で罵倒されるように言われると、私の時間を私的に使うことに対する

罪意識は無意識に助長された。

具体的には、インドから帰国しての7年間は、一番自分らしくなれる 音楽~

シタール(インド楽器)に触ることもできず、母独りでは生活が難しくなった約一年間は、

母に全神経が集中している日が続き、介護関係以外の外出 食事時前の買い物以外は

無くなった。

当然、電車でどこかへ出かけることも億劫になり、学生時代の仲間からの例年の新年会や、

集いはすべてお断りしていた。 

そんな折り、始めた習い事が一つだけあった。 

月に一度の半時間のヴォイストレーニング。

母がデーケアに通っている昼間、ひと月にほんの半時間のレッスンだったが 歌を練習する時は

自分自身に戻れるようで、心の大きな支えとなった。

 

さて、先日、習い始めて、2年半目の、5月5日、その発表会が某市民会館で行われた。

10何年ぶりに美容院に行き、髪をアップにしてもらい、蝶々夫人のアリア 

”ある晴れた日に” を ご披露させていただいた。

着物をお借りして、蝶々夫人の素直で切なく、一途な愛に生きる女性の心を、

黒いドレスで ワイングラス片手に持ち、”椿姫の乾杯” の一コマも全員で、

歌わせていただいた。

お目汚しの写真で恐縮・・だが、この日をもって、自分自身に帰ったなあという

実感である。

 

母も母らしく、楽しく、穏やかに、生きていてほしい。 母の存在は大きいのだ。

私自身が生き生きすることが、母の魂が喜んでくれているのだろうと、

やっと最近感じられるようになった気がする。

 

 

 

ほら、見て!あの人の船が帰ってきた!”・・歌詞

 

人生短い、今に乾杯”、・・・歌詞

 

 

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