自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

自分の必要なものはすでに自分のものとなる(なっている)~という自信

2019年11月11日 | 自分を見つめる前の扉


祈り と 現実                   2019年11月11日

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前置き)

次には、村上博士の遺伝子とspirituality の続編を投稿する予定でしたが、ちょっと、ここでまた、

つまずきたくなりました。

先ほど、次の言葉に出会ったからです。  少し、それについて一考いたしました。

また、”追記”を、今日、つまり、この記事投稿の翌日、11月12日朝に後半に付け加えました。

 

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”故に、心配、不安、不信を以てではなく、自分の必要なものは、すでに自分のものとなっていると知り

歓び、晴れ晴れとした感謝の心を以て 己自らの魂深く沈着することです。”

 

自分の必要なものは、すでに自分のものとなっていると知り”・・・・・・・・・・

このフレーズを読んで、心の目が覚めた。 

私の心の陰に潜む “満たされない” 空虚な感情に蓋をしてくれた。

“あたりまえのこと”の繰り返しが毎日のルーティーン。  次第に、感動が薄れ、惰性が生まれがち。

惰性が霧のように、毎日の日課の中に漂い始めると、“今” が“ぼーっとかすむ”ような、うつろな感覚になってくる。

 

ところで、一人で時間を過ごすことが得意な人と、そうでない人がいるようだ。

一人でいても、何かすることを次々と見つけられる人は、退屈がない。 

次々と見つけられるためには、生き生きとしているだけのエネルギーと好奇心が必要だ。

 

生き生きさが次第に薄れて、それも、“当たり前のこと”になってきたら、このフレーズを想いだせばよいと思った。

“自分に必要なものは、すでに自分のものになっている”~

一人で時間を過ごすことが不得意な人は、自分と向かい合うことが苦手なのかもしれない。 さびしがり屋さんかも

しれない。 

“自分に必要なものは、すでに自分のものになっている” ~というフレーズがそういう人たちにとって、どう効果的か

定かではないけど、少なくても、”他者”に補ってもらうより”自分の中にすべてある”という事実に気がつくきっかけに

なるかもしれない。

 

この言葉の中には、”人と比べることもない”、”他人と自分が必要なものは違う” というニュアンスがある。

 

”あの人にはxxがあってうらやましい”~と思う必要はない。 

xxは、あの人には必要だろうが、私には本来必要ないものかもしれない。

その代わりに、あの人が持っていない##が自分にはあるはずだから。

 

周りを見回してみよう。 

物質だけではなくて、友人や知人、知識や信仰、家族や親友、はまっている趣味やお稽古事、そしてその先生、

よく考えてみれば、自分の周りに存在してくれているということ自体が、なんだか不思議だ。

 

“縁”があったから、とよく使っている言葉 。 

“縁” があったから その人も、この人も、彼も彼女も、ペットも、服も食べ物も、住まいも、仕事も、自分の世界の

境界線の中に入ってきた。

“自分に必要なものは、すでに自分のものになっている” のだ。

逆に言ったらどうだろう? 

“自分のものになっているものは、自分に必要なものだ”ということ?

 

“自分のものになっている” というのは、英語でいうところの、That is mine のmineではなく、

なんというか、もっと、大らかに、“自分の世界を構成しているもの” として私は、受け止める。

自分の世界の中で、“関わり合い”を持っている、ともいえるだろう。

 

とすれば、目に見えるものだけでにあてはまるわけではないだろう。

目に見えない、“自分と関わり合いのあるもの”、今の環境や、仕事、健康なども範疇に入るだろう。

 

いや、もっと、単純にこの言葉を味わいたい。

“自分に、必要なものはすでに自分のものになっている”、

“当たり前” であったと思っていたものが、本当は、 “与えられている” ものかもしれない。

人の巡り合いも偶然が重なって可能になる、とすれば、“与えられた”ものといえるし、

”健康で当たり前”が、 本当は、“当たり前” と呼ぶのには、とても貴重なものかもしれない。

 

純粋なるがゆえに若くして命を絶つ人がいれば、老いて孤独から命を絶つ人もいる。

“自分に必要なものすでに自分のものになっている”、と、遠目から、観察できたら、もしかしたら、

希望の片鱗がみえた、かも、しれない。

 

“命”こそ、まさに、“自分のものになっている” ものの中で 最大級の価値あるものだろう。

“自分のものになっている” といっても、自分で創ったものでない以上、”お借りしているもの” かもしれない

そんな謙虚さとともに、かなり遠目から失望した自分を観察すればするほど、

”命”=生きること~は飽きることなく興味がわいてくる代物かもしれない。

“自分に必要なものはすでに自分のものになっている。” 

この言葉の真意を、飲み込むことができたら、もっと、地に足をつけた生き方と分別と満足感が得れるような気がしてきた。

同時に、どんな時でも、”まんざら人生悪くない” という希望も、湧いてきそうな気がした。


 

翌日に追記]ーーー 11月12日

 

朝、イヌの散歩から帰ってきたばかりです。散歩中、昨日投稿したこの記事の内容を思い返していました。

“自分に必要なものはすでに自分のものになっている。” という言葉。 この言葉の背景は、”祈りの本質” 

についてインドの賢者が語った言葉の一句です。

つまり、”今、自分に必要ばものは、与えられている”と言う事実は勿論のこと、未来に与えられるであろうことも、

ここでは予測されているのでしょう。

’祈り’の中で願う事柄、はすでに、必要なことなら、もうあなたのものになってこれから現実に顕れますよ~

ということでもあります。

昨日の記事の終わり方をみると、自分に必要なものはすでに自分のものになっている の句は、ストイックな

禁欲主義者の信条に聞こえがちですが、そうではない。 

もし、何か欲するモノがあれば、欲しいのです~と祈ればよい。 

そして、その時、すでに与えられている~という信念で、祈ることが大切というのが 本来の意味なのです。

私自身、その意味を味わって、今朝から、”与えられているものに対する神経”を過敏にして、”恵まれている”ことに

心の目を見開いて、謙虚にでも、勇気をもって、今日一日を過ごしていきたいと思いました。

皆様にとっても、善き日でありますように。

 

スダ

 

 

 

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痛みと引き連れ感~アートマセラピーの解釈

2019年10月28日 | 自然治癒力

 身体の持つ智慧に任せるということ     2019・10・28

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私たちの頭、いいかえれば、知性は”情報”を得て”分析”して、”データ”を見て、”標準値”を比べて、これまでの

例から、どのように病に対処すべきか結論づける。

ところが、そうしたデータや標準値を創った専門家は、“体全体の有機的つながり”、や、“関連性”、や、“気の存在

と気の影響”や、症状の必要性などということは、はほとんど、考慮していない。

昨日、私がセラピーをさせていただいたYさんは、アートマセラピーの初体験者だった。

整体に何年か通ったが体の根本的改善ができないと思い、来られた。


要所要所にセラピーで気をいれると、その個所からはるか離れた体の部位に変化を感じ、Yさんは、それを表現

して、“なんだか腸が引き連れている”、とか “頬っぺたが痛い” とか自ら感じる、そうした反応を口にした。

そのたびに、私は、“ひきつれ”感はむしろ、”縮こまっていた細胞”が、”丸まって寝ていた猫が体全体で背伸び”

するように、”伸びて開いていく” 瞬間ですから、ひきつれではなく、むしろ、”伸びですよ“と説明する。

 

“痛い”というのも同様で、細胞の動きに敏感な人で、私たちの細胞分子が、”動く”ことに不信感を持っている人ほど、

それを”痛み”として感じるようだ。

そのたびに、私は、”それは痛みではなく、これもまた、縮んだ風船が空気をいれるとき、表面が膨張するように、

細胞が膨張するので、その動きが痛みに感じているだけですよ”と説明する。

 

面白い現象にこんなことがあった。 Yさんは、施術中、右の鼻が詰まってきた~と気にしている。

“大丈夫ですよ。今、通りますから”といって、その関連ある部位に気を流すと、“あ、本当だ、すーとした”という。

また、数分後、“右の鼻、さっきみたいに詰まってきたのだけれど”という。

この繰り返しを数回したあと、右の鼻は完全にすっきりと通った。

なぜ?

それは先に挙げた、体の有機的つながり、体のそれぞれの部位との関連性、気の存在とその影響、鼻づまりという

一種の症状の連鎖性と必要性、がそこにあるからだ。

 

普通の場合、ほとんど、鼻が詰まったといっては、薬屋さんで売っているスプレーをシュツと出して(大体メンソーレ系

のスッキリしたクールなガスだが)みたり、咳が出れば、咳止めシロップを飲んだり、と敏速に対応するようだが、

ここは、一つ体の叡智に心の耳を傾けていただきたい~と私は思う。


”体の叡智”とは、理性や頭脳の判断では解決が付かない答えを、体だけが知っているというその、叡智をさす。

たとえば、授乳する母親なら体験することがある。

生まれたての赤子がこれがあなたの食事です~と説明する前に、母親の乳房に吸い寄せられるように顔を寄せて、

その方法を教えてもいないのに、上手に乳を吸い込むさまなどは感動の一瞬だ。

その母乳でどうして、赤子の地と肉がつくられ、免疫システムに貢献して、成長していくのか? 

当たり前すぎて考えることもないのだが、考えれば不思議だ。赤ちゃんの頭が知っているのはなく、体が知っている

としかいいようがない。

もし、その母乳に不純なもの、たとえば、脚気の毒素がもし含まれていれば、赤ちゃんは必ず、それを吐く。

周りの人はそれを見て、”赤ちゃんが吐いたから消化器系が弱っているのか?”と心配するが、むしろ、吐かないで

中毒してしまうほうが怖いから、ここでも、赤ちゃんの体は自動的にそれを対外に排出することを知っていると

いうことになる。

母体は、妊娠して出産が近づくにつれて体が赤ちゃんの栄養素を創りそれをためて用意するように、母体そのものにも

変化が起きる。

つまり、私たちが生きている~ということは、この私たちの頭では理解できない体の智慧によって生かされている

~のだ。

誰でも目にゴミがはいったとき、自然と涙が出てきて、そのごみを排出してくれるのを体験しているだろう。

気管支に食べ物のカスが入りかけても、むせたり、咳をして自然と気管支の中にはいらないよう、体が守ってくれる。

私たちの頭で考えたり、活用する知識は、意識上のことだが、むしろ無意識の中に、こうした私たちの頭でコントロール

できない体の知識があり、それが無意識の中で活用されていることを考えると、“自然治癒力”というのもそういう

”体の叡智”であるということが理解していただきやすいと思う。

 

自然治癒力は大生命の大きな体へのギフトだ。

すると、ここで、大生命とは?と疑問を覚える人が出てくる。

生命とか大生命とか、この漠然とした言葉に、医学界はほぼ反応しないからだ。ある人によれば、生命という言葉は

むしろ、哲学のなかにしか存在しないという。

 

医学とか科学の世界では、まだ、生命の不可思議さに関して、メスがいれられていないといってもよいのだろう。

最後に整体の神様といわれた野口晴哉氏の言葉(*1)をつけ添えておきたい。

 

“人間は自分の生命を完全に生ききろうとする力を持っている。知識がなくても、ちゃんと味わえば、必要なものは旨い。

必要のないものは旨くない。必要なことは快い。必要でないことは嫌な感じがする、体に悪いことは触りたくもない

ような感じがする。

このように、すべて体の感じで決めていけばいいのですが、この簡単なことが難しい人がいる。“

 

その難しいのは人の体の叡智の声に鈍感だからなのだが、体の叡智に目覚めるためにはどうしたらよいのだろう。

これは整体のみならず、アートマセラピーでもほかの施術でも同様の目的を持っているということがいえるだろう。

つまり、野口の言葉を借りれば、


“たとえ、下痢がさっと止まっても、その人が下剤を愉快に思わなかったり、もっと

食物を用心するようになったのではその目的が果たせたといえない。

熱を出したとき、整体(スダ注:施術)で熱が下がっても、次に熱がでたとき、また、整体(スダ注:施術)してくれ、

直してくれというようでは、自分の体の機構を理解していない。

実際は熱が出ないような体は生きてはいけない。

予防注射をして、弱い子供は37度5分程度しか出ないが、丈夫な子供は39度から40度でる子もいる。

風邪をひいても、さっと高い熱がでれば、さっと風邪は経過するが、低い熱のうちはいつまでも続く。

それは体の反撥力が鈍いためだ。”

 

“だから、そういう発熱自体が体の正常を保つ働きだという自覚さえできていれば、いくら熱が出ても平気でいられる。

それを慌てて、また熱を抑えてくれと来るなどというのは、その人の熱が下がった時にそういう健康維持の能力を

自覚させなかったということなのです。”

 

つまり、整体でも気功の施術でもアートマセラピーでも、“健康維持の能力の自覚”、つまり、“自然治癒力と生命の発動

力”、あるいは、“体の持っている本来の智慧”を認識させない限りは、ただそうした施術に頼ることだけで本来の自分

の力を眠らせたままにしておくという大きな施術の目的が達成されていないということになる。


そのことを踏まえて、野口氏ははっきりとこういう。

“整体指導(スダ注;あらゆる健康目的の施術)というのは、その人の持っている力を自覚させ、その次、そうなった

ときには、自分で治せるようにしなくてはならない。自分でそういう意味をしって、それに耐えられる人間をつくり、

風邪をひいたらその経過を楽しめるような人間をつくらなければならないのです”


*1~“整体指導の目的”昭和44年整体指導法初等講習会より



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台風一過とパソコンダウン

2019年10月17日 | 協会ホームページ

10月17日 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーお詫びとお知らせ

 

先日 大きな台風が通過しました。 台風に通過中、突然私のパソコンがダウンしました。

協会でいつも協力してくださっている方のパソコンのキーボードも機を同じくして、正常に打てなくなりました。

今、他の方のパソコンをお借りして、このご案内を書いています。

新しいパソコンに替える必要が出てきました。

接続やらそのほか、しばらくお時間いただきたく思います。

今月下旬には何とか復活いたします。

申し訳ありません。

よろしくご理解のほどお願いいたします。

 

須田恭代

 

 

 

 

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原因不明の病~検査結果データの不思議

2019年10月10日 | 自然治癒力

熱中症・生活変化・体の硬直

                                2019年 10月10日 

 

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 注意) ここに掲載した写真は家族の了承を得て本人様のプライバシーに影響がないように配慮して掲げさせて

いただきました

 

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10月に入ってからも暑い日があった。

特に10月4日は、東京で33度まで上がり、真夏並みの暑さとなった。観測史上、最も熱い10月を記録した

ようだ。

 

ただでさえ季節の変わり目には、体調が不安定になる人が多いのに、こうした猛暑がらみの天候で体の適応が

なかなか追い付かない。

 

異常気象と言われ、特に、高温が続く気象が続くと体にどのような変化が起きるか?

気功的には、気の流れがスムースにいかなくなり、熱から体を守ろうとする反動で体が硬直化するようだ。

 

それに加え台風が頻繁に発生していて、湿気が多い。 湿気が過多の空気は、皮膚呼吸に負担を増加させ、

カラッと晴れている日に比べ、皮膚呼吸に余計なエネルギーを費やすことになる。

なぜなら、湿気が皮膚の上層膜を覆い、正常な呼吸を妨げるからだ。 皮膚呼吸が損なわれる反面、

肺などの呼吸器はその分、余計に働くことになるから、呼吸器系の器官に疾患があったり、弱い人は体が

何となく重く、かったるいという感じになりがちだ。

 

熱中症 という現代病はこうした異常気象気の中で生まれた。それを防ぐには湿度と温度の調整が必要だ。 

そのために、冷房を適度に使うように夏の天気予報などでは力説される。 

体が硬直すると怖い、体を流れている順気が滞ってしまう。

硬直した体では、内臓機能が低下していくから時には、湿気と高温の中で命を失うこともある。

 

はるか昔、私が結婚前に、会社勤めをしていたころは、冷房が社内でガンガンと効いていて、寒い位だった。

その時は、足腰が冷えすぎて順気に悪影響を及ぼす冷房病という言葉があった。

ところが、今は、冷房を効かせていないとむしろ体に危険なことがある。当時と比べると冷房の活用性が

異なっていることに、時代の気候的変化を感じる。

体に影響を与える要素は、気候のみならず、生活習慣の変化もあるうだ。

生活習慣は当時とだいぶ変化しているから、 習慣病という言葉が生まれてくる昨今、昔とは、体の整え方も

違ってきている。

 

 

戦後間もない頃の日本人の体形は現代より小柄でも、今より筋肉もついていて、運動能力もあった~と、

最近のニュースで見た。 

全国的に現代の子供たちは体力的には当時の子供たちより劣っているという結果が出ていた。

それが生活習慣からきているとある人が解説していた。

確かに、ひと昔前はどの家にも畳の部屋があり、そこでは客人と向かうのにも食事をとるのにも、

子供たちを叱るときにも、家族は正座していた。

正座すると立ったり座ったりするときに、足腰に負担をかけるから、それが自然と運動になり、

その部位の筋肉を強くしていた。 

さらに当時のトイレは日本式便座がほとんどだったから、やはり、足腰の筋肉が日常生活の中で

使われる機会は今より多かっただろう。 

 

 

子供たちの遊びの形態も、今と異なっていた。 

近所とは付き合いもあったし、空き地があり、親たちは学校から帰宅した子供たちが戸外で遊ぶことに

頓着はなかった。誘拐とか悪戯とか、周りの大人たちがそれとなく気を使っていたから、あまり

起こらなかったし、塾とか習い事とか今ほど盛んでなかったから、のびのびと、鬼ごっこやかくれんぼなど、

自然と子供社会の人間関係やルールを学びながら育ちざかりのエネルギーを発散させることができた。

今の子供たちは対照的に、携帯電話と一日にらめっこしながら、体をうごかさず、椅子に背中を丸めて

座っているから猫背になり、姿勢が悪いから内臓にも悪影響を及ぼし、体力や持久力が劣ってきている~

と専門家は指摘する。 ゲームや携帯電話を相手に一人の世界に黙っていることが多いから、言葉を

交わし、気づかいをしながらの人間関係に苦手な子供が増えて、引きこもりなどという言葉が生まれてきた。

 

便利な世の中になった。

同時に、大人も子供も、あまり、体を動かさず、豊富な食糧がいつでもほしい時に手に入る時代に

なったわけだ。

コンビニ弁当やファーストフッドのように、いつでもどこでも、手軽に食事を済ませられる世の中になり、 

添加物の多い食品と栄養のバランスがとれない偏食型の食事で、先進国ほど、肥満児が増えてきているのが

社会現象になってきた。

 

食物は無ければないなりに、体がある程度それを補充することができる~というのは本当だ。 

そうした環境のほうは、小食でシンプルな素材を生かした食事で満足するから、むしろ健康的だといえる。

 

それを証明するようなことが私の身近に起きた。

私のクライアントがこの夏、あることが要因して固形物の食事がほとんどとれなくなった。

どうにか水分は補給していて、アートマセラピーで脳をほどくことによって、少しずつ、流動食が

食べれるようになった。

それでも、ヨーグルトや果物をミキサーにかけたものを混ぜて 一日三回飲むのが精いっぱいだったが、

二か月もすると、目に見えて痩せてきて体力が低下してきたので、脱水症を疑った家族は夏の暑い盛り

の日に、救急車を呼んだ。

救急隊もその姿を見て、入院が可能な病院に電話をかけて体力が回復するまでの処置の必要性を

認めたようだった。

国立機構だったS病院の救急外来に運ばれた。

まず、体の内臓その他、レントゲンを含め、検査が即行われた。

一時間ほどの間に、結果は出たが、栄養状態は良好、体もデータ的には異常な数値は見いだされることなく、

点滴を1時間、打っただけで、脱水症状もないという結論で家に帰された。 

 

これは生命力の働きの実に不思議な技だと私は考えた。

確かにその人は2か月近く固形物としての食事をとらないばかりか、わずか毎日に300ML程度のス

ムージーを半月の短い期間、飲んでいただけなのに、栄養も問題なし、脱水症状も起きていないという

理論的には納得がいかない現代医学の検査結果しか出なかったのである。 

 

体の不思議な技(わざ)、それは、食べ物が十分にいきわたらず、制限された量で体内に入ってきたとき、

その栄養を体に蓄えようとする働きだ。 病やそのほかの理由で極端に食べ物が制限されたとき、

体の生命力がそれを察知して、入ってきたわずかな栄養素を、肝臓などに蓄えるのだ。

さらに、足らない栄養素を自らの体で再成する働きもある。

 

 

タンパク質豊富な食事をとらなくても、炭水化物主流の食事から、ある程度必要なたんぱく質成分を

体内で造りあげてしまうという奇跡的なことも起こりえる。

まさに、このクライアントの場合がそうであった。 

物とわずかなヨーグルトと水分、はちみつ、塩を混ぜた150㏄の一回の食事で、タンパク質が十分に

足りているという判断が下されたからだ。 体力が低下してきているのにもかかわらず、健康という

レッテル、少なくても異常がないという診断で即自宅に送り返された。 

行きは救急車の隊員4人がかりでタンカーで病院に運ばれた彼は、帰りは健康体ということで、タクシーの

シートに横たわり、家前に到着、玄関までの数段の階段を手すりを頼りにやせ細ってしまったが、動かすには

重い体をやっと運び、部屋にようやくたどり着くやいなや、ベッドに倒れ混むように横たわり、苦しそうに息

をはずませて、大きなため息をついた。

 

その様子を付き添ってみていた私に疑問がわいた。

健康とは何か? データ上、良い数値とは何か? 異常がないという診断は何か?

の質問が頭の中をくるくる回っていた。

逆の質問もある。 健康でないとは何か? データ上悪い数値とは何か? そして、異常があるというのは

何か?という素朴な質問である。

因みに、この方はそれから半月後には要介護認定を受ける手続きをとるほど、体力が落ちたものの、精密検査

では異常がないので医薬も出せず、地域包括センターの人の話では要介護3か4に匹敵するだろうという

話である。

  起き上がれず、訪問看護で髭剃り、ヘアーカットをしてもらう。(9月23日)

 

余談だがこのクライアントにアートマセラピーを施してはいたものの、途中で手が離れてしまった。 

本人が本当によくなりたい、元気になりたいという意志と意欲がなぜか、見られないためであった。

それは家族も不思議がっていた。 まるで、自己処罰のために あたかも 自ら病の身に甘んじているような

気配さえ感じられたからだった。

因みに、いくつかの病院で検査を受けたが、内科的、神経的、脳外科的には異常はなく、適宜な診療を

受けるために心療内科を勧めた医師が数人いた。

だが、本人が、自分のことを心療内科の医師に精神的背景として語ることを拒んだために実現しなかった。

そうこうしているうち、胸苦しさは強くなり、7月15日にはセラピー後、バスで買い物に行けた体が

2か月後にはトイレにたつことも不能になる体となってしまった。

 

  

     

いずれも9月18日 救急車でS病院に運ばれ救急外来でレントゲンと検査を受けた。

驚いたことに、栄養状態もよく、どこにも医学的異常数値は見いだせない。

レントゲンの体の内部も極めて綺麗だ。

 

 

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塩も時には甘い

2019年10月03日 | 自然治癒力

 

自然治癒力への信頼      2019・10.03

 

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私はインド在住の最後の3年間は社会人としてインド人のスタッフとともに、ヴァサント ビハール

にある日本に本社をおくIT企業の会社で仕事をしていた。 昼となれば、会社のビルの前の芝地に

テントを張ったカレーの露店(ダーバ)でその日の野菜カレ-とナンかチャパティを買ってきてランチを

社内でとった。

 

その塩辛さはホームメードでよその家で出されるカレーより塩辛かったし、赤トウガラシも多めに入って

いたから、汗をかきかき食べたものだった。

でも、仕事をしていた身には発汗量が多いせいか、塩辛さもちょうどよく感じた。

 

対照的な食事はガンジス川流域のアシュラム(修行所)でいただいたものだった。 

1週間の瞑想の行をしていたのでほぼ終日、一部屋にこもって窓にはカーテンをして外界と

隔離された生活だったが、一日2回、差し入れのオートミールもどきの食事が支給された。

塩気がなく、さすが7日めには塩が恋しくなり、カバンの中に、エアーインディア機内の食事時に

添えられていた、の小袋が入っていたのを思い出し、ガサゴソさがして、それを見つけた時の安堵感は

忘れられない。

早速、小袋の封をあけて、口に塩粒をそのまま放り込んだ。面白いことに、塩辛いどころか、どことなく、

みすら感じ、体内に吸収されていくのが感じられた。

外気は40度近かったが、ただ、じっと瞑想にふけっている体にとって、塩気は必要としなかったのだろ

う。


汗をかけば塩辛い食べ物でも、ちょうどよく感じ、動かないような生活をしていれば、京都のお公家さん

の薄味の料理のようなものが口にあう~~ということがよくわかった。

関西人が関東の汁の色は、色濃くて、塩辛く見え、あまり、食欲がそそられないというのも、

わかるような気がする。 

西はもともと公家料理が伝統料理の主流として残っているからだろう。 が、徹底的に減塩して

しまうと、7日めには、少量の塩さえ、口に含んでみると、甘みすら感じた。塩が体にとって必要だと

いうことも、この時の何気ない体験で理解した。

 

つまり、何をここで申し上げたいかといえば、一つの事実でも体の需要に応じて、いかようにも、

受け取られるということだ。

さらにそのことをひっくり返せば、データや平均値や標準値というものがあったとしても、その時の

体の状態で必要値が変わってくるし、あまり、そうした般的数値は役に立たないということかもしれない。

 

極端な例がある。

インドではマラリアは比較的日本よりかかりやすい病であったが、これにかかった梅毒の人は、マラリア

にかかって梅毒症状が治るということが知られていた。

マラリアにかかるのは喜ばしいことではないが、それより難儀な梅毒がそれで治るのはそれなりの意味が

ある。


私は生まれつきのアトピー性皮膚疾患とアレルギーを持っていたが、妊娠して出産したら、その症状は

少し緩和したし、妹も同様の体質だったが、二人の子供の出産を契機にほとんど、アトピー性皮膚炎に

煩わされることがなくなった。

アトピーを治すために処方されていたステロイド系の塗り薬やかゆみ止めなどは一切、17歳のときから

捨てていたから、ある意味安全な体で子供を生めてさらに、アトピーが消えたというのもどういう体の中

の因果関係ががあるのか定かではない。

 

このブログでも時々触れている、上手な風邪の経過の仕方ということでもあてはまる。

つまり、熱や痛み、下痢などの症状も慌ててそれを抑えるということはもしかしたら不必要なことなのか

もしない。

なぜなら、体が、その症状が必要だからこそ、その症状によって、もっと体質を元気に正常に変えようと

プログラミングしているからこそ、出ている症状の場合が意外と多いからだ。

 

このことは先回のブログ記事で触れているので、多言はしないが、塩の加減が体調や環境で異なるのは、

体がそれをどのくらい必要としているかによるものだ。

同様、体が正常に機能している限り、その体が表す症状は、自らが自らの力で元の正常に戻すための

生命力の発動結果といえるだろう。

 

ヒトの体ほど不思議なものはない。 

たとえデータが極めて問題なくても、問題のある体調を抱えている人は多いし、逆にデータが悪くても、

とても元気に活動している人もいるのだから、面白い。

 

 

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