”生命の概念”は医学でなく哲学の分野;おかしくないですか? 9/26/2019
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8/19の記事の続き)
こんな具合に、”何が病気で健康な体とは何か”と決めるには、血圧や血液のPH、内分泌状態や脈拍数、などの標準平均値で図ることは難しい。
実母の例のみならず、私自身の例を出せば、介護で不眠状態が続きストレスがたまり、体がパンパンになっていたときの脈拍数が一分間に35回しかなかった。
まるで、心臓が自己防衛してエネルギーを使わないようにしているのかと思うぐらい異常に少なく、気になった。
そのせいか、時々立ち眩みや、不整脈が起きていた。 あまりの少なさに、何かのこれは間違いだろうと何度も図り直しをした。
ところが、インドの高名なヨギ(自己本質の神性と一体化する修行をしている人)は呼吸数を極力減らして、心臓の負担と余計なエネルギーの放出を故意に防いでいると本に書かれていたことで、心配するのはよした。
無呼吸に近いヨギもいるという。
そうしてみると、やはりこれは、エネルギーが減った体の自己防衛だろうと納得がいった。
こうした心臓脈拍数が、標準基準値の半分しかない状況が、数か月は続いていたと思う。
特に医師にかかることなく自分の体と対話しながら、徐々に正常に戻っていった。
実母の血圧の高さでも、同様のことが言える。
例えば、年を重ね、生理的に血管が細くなれば、頭の方に血液を上昇させて運ぶためには、若いころの血圧のままでは脳まで血が行き届かないだろう。
血圧を調べるということは、正常に血液が流れることをチェックするのが妥当で、その強さを数字で表して平均化して、高ければ治療するというのは、少し胆略的な考え方のような気がする。
時々耳にするが、人間ドッグにはいって弱点を指摘されるのは普通だが、”健康そのもの”と折り紙付きで出てきた人が、まもなく、脳溢血や肝硬変などが急にすすみ亡くなってしまうという事例は少なくないと聞く。
これも、人間ドッグの検査では、データや、体の物質的働きが正常だということを示しただけにすぎず、真に体の働きの底力の測定は無理だったからといえるだろう。
体の働きの底力とは?
本当の意味で健康の礎となっている判断はどこでできるのか?
それは、正常な血圧でも、正常な内分泌の働きでも 血液でも、心臓の強さでもなく、“順気”の勢いある周り具合といえそうだ。
”順気の周り具合”といっても、ピンとこない方が多いかもしれない。
人の体の生命力、それを、サンスクリット語でプラーナと呼ぶが、日本語では”気”という。
我々の先祖たちは、”気”の存在を古くから知っていた。
”気持ち”の気、気持ちをしっかり持ってね、と心が悲しみに震えている人などに声かける。
”やる気”の気、やる気があれば、目標に向かって、そうそう苦難があっても波乗りの波のようなゲーム感覚で対処して目的を達成できるものだ。
その”やる気”の”気”によって、呼応して働く”体の順気”、その二つの”気”はコインの裏表のようなものだから、こうした”気”の考慮や配慮なしには、本当の健康診断をだすことは難しいとつくづく思う。
根本の病の大本を見ずに、症状という枝葉の状況を改善しようというのは、”対処療法”にすぎず、本来の病の原因をただすものではない。
”気”というのは、自覚できるものかといえば、我々の心の”無意識の領域”にある。
”生命”という言葉、”自然治癒力”もその意味では無意識の領域に入るだろう。
体の中にあるこうした”無意識の動き”を総称して”外路系”というが、この研究はなかなか進んでいないという。
わかりやすく言えば、”生命”という言葉は医学に携わるものならば、それを救うためにに働いているわけでとても重要な概念だが、実際、”生命”についての言及は、哲学書には多く扱われるが医学書には出てこない。
おかしいと思いませんか??
”心療内科”では、深層心理と体の関係を探る。
ある程度、心理学の領域に入ってくるだろう。
外路系運動が正常かどうか~も深層心理と深くかかわっているから、内科に比べて、原因により深いアプローチができるだろう。
自然治癒力などは、この”外路系運動”が正常に働いている現れだが、今までお話したように、それは、”風邪をひかない”ことではなく、”風邪をひいてもそれに適応に体が思考する前に対処している”ことをさす。
症状が出ることが悪いことではない。
たとえば、アートマセラピーをしていると、とても凝っている個所にもかかわらず、刺激を与えても、全く自覚症状のない方が多い。
自覚症状がないというのは、この外路系の働きが弱くなっているからで、もし、
異常を調節する働きがあれば、そこに”痛み”なり”引き連れた感覚”などを感じるものだ。
鈍感になっていると、その個所を押されても痛くもなんとも
ないという体になってしまっている。
このように鈍感になっていると、体の方が、異常を感知するのが遅いということだから、むしろ、症状が出ずらい。
病気にかかりやすいか、かかりにくいかをもって、健康か不健康かと決められない原因がここにある。