自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

心が先か薬が先か?

2013年04月30日 | 健康と直結する”一元論”について

苦悩に満ちたエディ夫人の半生  平成25年4月30日

************************************

 昨日のブログで、すでに、Mind と mind の違い、

それらの 心(Mind,mind) が織りなす、キリスト教科学の創始者 

エディ夫人の意見を、みてきた。

そして、エディ夫人が掲げている質問、つまり、どちらが先なのか?

心か薬か?もし、心こそ 始めにして実存であるとすれば、

心が最初の医薬であり続けている。

Which was first, Mind or medicine?  

If Mind was first and self-existent, 

then Mind, not matter, must have been

 the first medicine.

の部分を、取り上げた。


ここで、エディ夫人は、Mind が 最初の薬である 

と述べている。

その意味はどういうものだろう?

 

エディ夫人は家庭的に決して恵まれていなかった。

離婚を重ね、体も弱く、死の淵をさまよった。

その際、ある種の啓示ともいえる、直観を受け、自分が、

大生命という、自ら持つ、本来の力に気が付くことで、

健康体に戻るという確信を得て、その通りになった。


そして、人間の本質が、その時 エディ夫人が 受けた、

直感に従って、愛・真理・生命 という 3つの要素意外 

何物でもないことを知るのである。

Christian Science explains all cause and 

effect as mental, not physical. 

It lifts the veil of mystery from Soul and body.

協会訳)

キリスト教科学は、すべての原因結果は、

心的であり、物理的でないと、説明している。 

そうすることで、魂と身体から、神秘のヴェールを取り去る。


因果説 は 本来の 伝統的な、キリスト教では、明確に

されていない。

むしろ、罪深い人間は、原罪という逃れられないすでに持って

生まれた罪により、救われなければならない存在だと説く。

 

だからこそ、イエスに、あるいは、キリストに依らなければ

救われない と 教会では教える。

 

しかし、キリスト自身 そういう言葉は使っていないのだ。

むしろ、”我は道なり” と 明言されている。

道、 道 という言葉は 精神的な含蓄がある。


つまり、人として、幸せに進むべき道を、キリストは、

ここで、自分(キリスト)の道だと、言ったのであろう。

真理の道、それが、キリスト の 示した道であるなら、

その道に沿って生きる事、これが、キリスト(真理)を生きる” 

という意味にとれるだろう。

 

十字架にかかった、肉体 としての キリストを対象として

信仰するとすれば、キリストご自身は、とても 狭義な、

限定ある存在になってしまう。

その”キリストによってでなければ 救われない”としたら、

廣い地球、キリスト という存在すら知らずに生まれて

一生を終える人たちにとっては、人生の救いは 全く無い

ということになってしまう。

 

エディ夫人は、そういう観点からすると、

画期的な解釈をここで施していると言えるだろう。


つまり、物事の 因果関係の原因について、明らかにしている

からだ。

心的要因こそ、因果関係の結果であるということだ。

 

以前、ブログに、心身一如 の話で、内科医の内田医師の

現場報告として、肝硬変になりやすい患者の気質を 

とりあげたことがある。

心 と 身体 が一如(一体)であるということは、心的要因が、

体の健康に及ぼす影響が大きいことを、内田医師が語っていた。

 

日本で初めて心療内科の基礎を築いた、池見博士のところでも、

心身一如の観方こそ、心療内科の根底をなしていることは、 

数日前までのブログで、お話しさせていただいた。


エディ夫人も、健康のみならず、物事の結果は、心にその

原因がある、物理的要因ではないとはっきり明言する。

 

冒頭に挙げた質問、心と薬 どちらが先か?

という行間の意味合いもここにある。


病になったとき、薬をとるのか?あるいは、心をみつめるのか?

2頭追うもの1頭得ず~という諺に従ったとき、どちらを皆様は

とるだろう?


薬を取る人、心を見つめる人、同時に二つを行うことは

可能だろうか?

徹底して、心を見つめる人には、薬は無用かもしれない。

 

体の調整能力の発揮でもある。

一方、薬は、症状を抑えるが、根本を治すことは、体の

自然生命力が行う。

一般に症状=病気ととらえられているから、薬をとると、

症状(せき、痰、鼻水、発熱)が抑えられ、体が改善されたような

安心感を生む。それによって、体の治癒力も働きやすくなる。


ただし、薬で抑えられた分、症状を出し切らなかったという点で、

体のひきつれた箇所や、気の滞った箇所は、見えざるところで、

そのままになっていることが多い。


それが積もり積もって、脳梗塞やその他の疾患症状として

現れることもあるのだ。( *1*2*3*4参照)

 

エディ夫人がここで述べているのも、第一の病気の原因は 

心にある とするのが 心身一如の考え方に似ている。

さらに、それを発展させると、唯心所現 という考え方につながる。

形として現れるところ、ただ、心の反映である という意味だ。


形として現れるというのは、肉体の上の話だけではない。

自分の周りの環境、人間関係や経済環境でも、仕事や勉学、

日常の小さなことにいたるまで、自分の心に原因があるから、

”そうなっている” と 自分の心を省みることが、必要となる。


エディ夫人の、心が先か? 

薬が先か? という問いかけもここまで煮詰めることが

できるかもしれない。


心が先にあった。

心とは、意思でもある。

この場合、大文字で始まるMindになっているから、神の

意思でもあるだろう。

人は 神の子である。


神の資質をもってつくられている。

つまり、私たちの体にも、神の意思が最初に存在していたのだから 

その意思に気づけば、病はすでに、存在しないということになる。

いわゆる、病が影となって、消えていくのだ。


なぜなら、神は 不完全なものは作らないから。

日のあたるところには、影ができるが、その陽の光がそこに

させば、影が消えるのと似ている。

あくまで、 不完全なもの、現象は、 

病にせよ 不幸にせよ、我々の、”道(真理)に外れた心”

の投影として、映し出されているのだから・・・・と 暗に 

エディ夫人は語っているような気がする。

 

  •  
      
  • メリー・ベーカー・エディ        
 
 
 
 
 
 
参考書:
 
"Science And Health with Key to the Scriptures"
by
Mary Baker eddy
 
published by The first Church of Christ Scientist, 
in Boston, Massachusetts, U.S.A 
 
*1~*4 ブログ以下 ご参照下さい
       
”夏の風邪・秋の風邪” 平成24年9月26日
       
”風邪の経過方法” 平成24年10月21日
   
”脳溢血 と 風邪 ” 平成24年10月20日
  
”高熱の効用” 平成25年2月3日
 
 

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色即是空とキリスト科学

2013年04月29日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

次元を超越した物質観  平成25年4月29日

************************************

1)Which was first, Mind or medicine?

   If Mind was first and self-existent,

   then Mind, not matter, must have been the first medicine.

協会訳)

どちらが先なのか?心か薬か?

もし、心こそ 始めにして実存であるとすれば 

心が最初の医薬であり続けている。

 

 2)Diseases, death – is the false testimony of false material sense,

  of mind in matter that this false sense evolved, I believe,

  a subjective state of mortal mind which this same

    so-called mind names matter, thereby shutting out the true sense of Spirit.

  (注:アンダーラインは筆者によるものです)

協会訳)

 病、死とよばれるものは、偽りの、物質的感覚 による 偽りの証言 つまり、

心が物質にある という証言であること、

この偽った感覚はによって、生まれル証言であると私は信じている。

人間の持つ、滅びていく心が造る主観的状態でもあり、

心 に 物質という名前をつけ、それによって、神霊の真の意味を締め出しているのだ。

 

棒線を引いた self-existent  の解釈を明確にしてみたい。

self (自ずから) existent(存在する)を文字通り解釈するなら、

独自に存在する という意味になる。

独自というのは、その字の意味通り、”独 りで 自 ず から” という意味だから、

誰かに造られたものではなく、そのまま 在って在るもの としての

存在を意味している。

 

不生不滅、の あってあるべき存在といえば、般若心経の空 を思い起こす

方もいらっしゃるだろう。

Mind を 空 と訳してみても可能ではないだろうか?

般若心経では、空 は 実在の実在である。

色、即ち、物質は、空 の世界において、実在の姿(Mind)を

とっているわけだから、現象界では、 無 ということになる。

 

無 というのは、現象世界に 現れて 実在しているように見えるが、

いつか消えてしまう、消滅する、はか)無い 存在であるということ

を 示唆している。

 

はか)無い 存在である、現象世界の物質は、実は、その元になる

エネルギー体は、空 として、存在しているといえそうだ。

空そのものが 存在 だ。

つまり、self-exist している。 

 

物質と見えると、必ず、壊れたり、朽ち果てたりするものだが、

そこに流れる、生命の力は エネルギーとして、確実に 

存在している。

しかも、意識と、個性をもって。

 

エディ夫人の冒頭の引用で使われている

Mind (大文字の マインド) の意味は、

単なる ”心” ではないだろう。

なぜなら、エディ夫人は、二つの マインド を

使い分けているからだ。

 

もう一つの マインドが、(2) の 夫人の文章の中に見られる

mortal ( いつかは滅びる )mind(小文字で始まる マインド)

その、滅びる運命にある、心を、協会では、

小我(小さな 自分を肉体として 限定する自我意識)と呼んでいる。

 

この 小文字で始まる mind は、

肉体と自分を同一線上の物質としてみる、つまり、

夫人の言葉でいえば 物質的感覚 による 偽りの証言” 

認識を行う 心 ということになる。

 

その、偽物の、物質的な心、によって、自分の本当の存在でもある、

sense of Spirit=神霊の意義 をすっかり、

心(小文字の)が その狭義の認識をもって、追い払ってしまう。

 

エディ夫人は徹底した、

Mind 主義者( 空の~実在の~の神の心 が唯一の存在とする

といえそうだ。

アートマセラピストー も然りである。

究極の癒し~それは物質からは 来ない。

空~実存する本来の力~大文字から始まるMIND、の形而上的癒し

がその本源であると、大覚者、先人、大師たちは私たちに

様々な言葉で 述べ教え伝える。

 

そして、それと対照的な、小文字で始まる、mortal mind (死する心)

によって、大方の日常生活の時間を 我々は過ごしている

その喜怒哀楽に揺れ動く心は、肉体とともに、消滅する 

心(肉体的五感による認知、判断、感情)に他ならない。

 

この 小文字で始まる、心 が、 現象世界を織りなす幻像

つくりだしていると解釈できる。

 

捕らわれや、執着など、五感の感覚 と 小さな自分意識、自分のもの

という認識、それらが、私たちの住んでいる、この世界を 苦渋に満ちた

ものとして、がんじがらめに、心を縛る。

 

神の心(大文字で始まるMind)が現わされたとき、そこには 

真善美の世界がある。

一元の愛の世界だ。 光の世界でもある。 

その世界にはいって、人はほんとうの安堵感と自由を得る。

そのために必要とされる智慧が 般若波羅蜜多の智慧

であると、心経では説いている。

 

ここで、再び、般若心経に戻ってみると・・・

故 無有恐怖遠離一切顛倒夢想、 

究境 涅槃 三世 諸仏 依 

般若波羅蜜多 故 得阿耨多羅三藐三菩提

意味・・)・

心に、捕らわれがない)ゆえに、恐怖から遠く離れることができる。

一切の価値観のひっくり返った夢のような想念をたちきれる。

三世にわたって、この般若(バンニャー)の教えによって、

すべての菩薩は

阿耨多羅三藐三菩提

アヌッタラー・サムヤック・サンボーディー(梵語原語)

すべての人が平等に到達する至高の悟り(意訳)

を得ることができる 

(自然治癒力セラピー協会訳) 

 

顛倒夢想 が エディ夫人のいうところの、

”自分は肉体とともに死滅する”と見るエゴ意識

小文字で始まる mind から生まれる。

そのために、Spirit、日本語では神霊と訳したが、

その存在を感じらずになってしまったと続けている。

 

Spirit は、愛 真理 喜び 調和 生命力 などの、

私たちの心のどこかで 無意識にせよ、意識的にせよ、

追い求めている精神価値であり、私たちの本質に

ほかならない。

その Spirit の 心 こそ、 Mind という 大文字で

始まる 心 を指すのだろう。

そして、 その Mind が 実在する、ほんとうの

自在(自らあって在るもの)、私たちの 本質でもある。

 

最初のエディ夫人の(1)言葉をもう一度、改めて、見てみたい。

”薬が先か、心(大文字の)が先か?”

心が実在である以上、 私たちの病も、心によって、癒される、

心 こそ、 薬より先の 癒す大元であるということを、

エディ夫人は 述べているのだと 理解できると思う。

  

  •  
      
  • メリー・ベーカー・エディ        
 
 
 
 
 
 
参考文献
 
"Science And Health with Key to the Scriptures"by Mary Baker eddy
 
published by The first Church of Christ Scientist, in Boston, Massachusetts, U.S.A
 
 
 

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エディ夫人の紹介

2013年04月28日 | 健康と直結する”一元論”について

クリスチャンサイエンス創始者  平成25年4月28日

**********************************

エディ夫人の科学と癒しに関しての本がここにある。

そこに流れている、生命観と、癒しの原理、人間の本質は、

キリスト教社会の中で、打ち立てられた理論であるが、

もっと、抱合的な、宗教をある意味超越した、真理の科学として

説得力を感じさせる。

エディ夫人が、自分の中に癒す力を自覚したきっかけは自らの

死の淵を行き来するほどの重篤な状況を克服してからだという。

著書から抜粋する。

 

I learned these truths in divine Science: that all real being is in God, 

the divine Mind, and that Life, Truth, and Love are all powerful and

 ever present; diseases, death – is the false testimony of false material 

sense, of mind in matter that this false sense evolved, I belief, 

a subjective state of mortal mind which this same so-called mind 

names matter, thereby shutting out the true sense of Spirit.

 

自然治癒力セラピー協会訳) 

(あたかも生死の境にちかづき、死の立ちの影に立つかと思われた

とき~前文を受けて)

私は神聖な科学といえる、次の真理を学んだ。

すべて実在するものは 神、神性の心に存在し*1

そして、生命・真理。愛は

あらゆる力を有し、常に現存*2すること、

一方、病、死とよばれるものは、物質とよべる死にゆく肉体に

属する心が主観的に造りだしたものであり、 

それによって、 の真の感覚を締め出してしまうのだ。

(棒線筆者)

 *1 について)

実在するものが 神の心にあるとするというのは、

神=愛であるという立場をとるエディ夫人の真義からいえば、

愛が実在する、ということになる。

*2 について

神は生命であり、愛であり、真理である、と次の行にも出てくるように、

この3つの要素が真に実在するもので、滅びることなく ever=永遠 に

存在するものと解釈できる。

であるのなら、病気とか死 という言葉で象徴される、

不完全で滅ぼされたり、亡くなったりする存在は、

実在しないということになる

それは、人間の心、しかも、肉体の死とともに、

消えてなくなる意識(肉体の心)が造りだしたものであるからだ。

 

人間が神の姿で造られたということをエディ夫人は 聖書から取り出す。

そして、それゆえに、人の資質は、

愛、と 生命に満ちているというのである。

 

上記の氏の文章の中で   という言葉の解釈は注意を要するところだ。

夫人の著書に流れる文脈の意味の中で この 霊 という言葉の、

定義は以下のようである。

いわゆる、幽霊や、霊体 という 漠然とした物質的な存在ではなく、

むしろ、神という完全なる霊体をさしている。

物質の心を信じる故に、 本来の神の霊 の存在を

心から締め出す結果になるというのである。

それは次の文章にも示唆されている。

 

Man reflects infinite Truth, Life, and Love. 

The nature of man, thus understood, includes all that is imiplied

 by the terms “image” and “likeness” as used in Scripture.

訳)

人は無限の真理生命愛を反映する。*3

人の本性をそのように、理解すると、聖書で言われる イメージ と 

似姿 という 言葉の意味がすべて含まれることになる。

 

*3について

つまり、無限の愛と生命と真理が神の資質であり、神の似姿として

人は存在しているのだから、人の本質も、その愛 生命 真理 

を鏡のように映し出しているというのだ。

そう考えれば、聖書における、イメージ や 似姿 という

表現の意味がはっきりしてくる。

この 概念は、聖書の中だけではない。

仏性、神性、というのは、古今東西の聖典の中で、本体の人 

を顕わすときの代名詞として使われている。

 

In Christian Science, Spirit, as a proper noun , 

is the name of the Supreme Being.

It means quantity and quality, and applies exclusively to God. 

The modifying derivatives of the word spirit refer only to quality, 

not to God. Man is spiritual; He is not God, Sprit.

訳)

この科学において、霊(スピリット~大文字で始まる) は固有名詞として、

至上の存在の名称である。 

それは 量と質とを意味し、神のみに用いられる。

神霊という言葉の就職派生語は、性質のみを指して、神を指してはいない。

例えていうならば、人は神の霊的資質を持っているのであって、

人は神(スピリット)そのものではない。

 

我々が何気なく使っている、スピリットも大文字で始まると、

エディ夫人の著書では

神と等しい、量的形状と資質を持った存在としての表現となる。

人は、神の資質(性質)を受け継いでいるので、

スピリチャル と言われるが、

その量的形状でいえば、神のように宇宙に偏在しているわけ

ではないので、神 とは言えないということになる。

肉体という物質に閉じ込められている意識がある分だけ、

神 となり得ることは不可能なのだろう。

 

  •  
      
  • メリー・ベーカー・エディ
  • Mary Baker Eddy,1821年7月16日 - 1910年12月3日)
  • 1879年にクリスチャン・サイエンス教会を設立した人物である。
  • メリー・モース・ベーカー、エディ夫人などとも称される。
Wikipedia
1866年以降、主にアメリカ国内で信者 数百万の団体を組織し
率いることとなったニューソートの歴史上、非常に重要な
一角を構成する宗教家である。 
  
その代表的著作:科学と健康 。
   
参考 "Science And Health with Key to the Scriptures"
by Mary Baker eddy
 
published by The first Church of Christ Scientist, in Boston,
Massachusetts, U.S.A
 
 
 
 
 

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武蔵と一如思想

2013年04月27日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

剣道と一如思想  平成25年4月27日

**********************************

 

合気道の創始者、植芝先生の話(ブログ4月26日)の中でも

触れているが、宮本武蔵が、なぜ、日本人に愛されているのか~

ということ


一如思想 というのは、言葉を変えると、一元思想 にも通じる

一元思想 から、究極的 自然治癒力の発露も可能になる。

すべてのすべてである存在の大元が、存在して、その存在がこの世

の生きとし生けるものの中に生命として顕現し、あるいは、天界の

星や地球の動きと維持のサイクルの中に、秩序として現れる。


限りなく完全に近い、大調和の、愛ある営みこそが、その一如の

”いち=壱”の本質であるということを、植芝師も述べておられた。

 武蔵巌流島の決闘

剣の極意や、武道の心も、実は、自分自身の中にある、

その、”すべてのすべて” が すべての事象の背後に顕現して

いることを知り、それを探し、自分がそれに同調できるように、

整え、己れを造っていく。


魂の浄化の道、本質的魂の本分である愛の顕現が、武道である

剣道の本質であるということは、昨日のブログで、師が述べられて

いた。

植芝先生の 口述記録に残された、一つ一つのお言葉は、

心に響いてくる。

それも、植芝先生が、一如 という 言葉を体現されているからだ。

 

たとえば、植芝先生が、北海道の野生のクマと遭遇したときの

実話(エピソード)は、それを物語っている。


クマはクマでも、獰猛なヒグマ は北海道に生息している。

植芝先生が、北海道で生活されていた時期のこと。

先生は、測量の目的で 原始林に入り込んでいかれた。 

日が暮れてきた。

川のほとりに、簡易な寝場所を造り、そこで一晩あかすこと

にした。

すると、真夜中、草の上を歩く足音がする。

ガサガサ、ガサガサ、音が近づいてくる。 

外をみると、案じていたとおり、やはり、大きな ひ熊がいた。 

先生の連れのひとりが、あまりの怖さで震え始め、先生にピタリと

体をつけてきた。 

先生は、 ”大丈夫大丈夫” と声にだし、じ~っと熊の方角

に顔をむけた。

こちらへ 少しづつ、近寄ってくる 大きな熊の体が はっきりと

見えてきた。


先生は、クマ とにらめっこだ。

すると、熊は、寝ていた周りに こぼれていた食べ残りのくずを、

食べて、ごろりと、そこに横たわってしまった。

ついに、熊はそこに 横たわり、寝てしまった。

先生は ”もう、害はない” と言って、今まで通り、

その場に横になって、同じく朝までぐっすり寝たというのだ。

 

次の晩も、この珍客は 先生のそばにやってきた。

先生は、熊の心を理解してか、その夜販の残り、魚の肉片

を熊に投げてやった。

その晩も、クマは、先生のそばで寝た。 

こうして、二晩、先生とクマは添い寝して寝るほど、仲良しに

なったという話だ。


これが、一如の精神 の為せる技なのかもしれない。

理屈ではない。

技でもない。 

ごく、自然の当たり前の現象の中、先生の信念が息づいている、

お話だ。

熊(くま) に宿る、生命意識 と先生の生命意識が和合し

一体感に結ばれて、調和の世界が生まれた


先生の 提唱するところの、合気道の精神そのままだ。

愛ある和合、どんな相手も敵とみなさず、愛のけん引力で己の 

壱なるもの(あってあるもの) と一体化させる~と先生は説く。

 

先生の言葉である。

”合気とは、和合の道であり、万物にその所をえさしめる、

宇宙経綸(けいりん)の道へのご奉公であります”

さて、同じく、剣の道 と禅の道 とは同じくすると、

喝破され、真理の奥義に到達された、大森曹玄老師も、

剣道の歴史には、一如思想という東洋思想の進展がみられる 

という話しをされている。


”常に死生の間にあって、活路を開く。 

古来から超越的力を念じそれに頼ろうとする傾向があった。 

あるいは、源義経が、鞍馬山で天狗から剣術を習ったという

伝説も残っている。”

 

しかし、この一如思想は、宮本武蔵の剣術の奥義によって、

完成を見ることになる。

それは、武蔵の言葉に表れている。

”神仏は尊し。 神仏は願わず”(独行道19)という武蔵の

言葉だ。

つまり、神仏は敬うべき存在である。 

しかし、何かの願い事の対象となる、存在ではない~

いうことだ。

 

願(がん)をかける、現世利益を求める存在、ではなく、

神仏 は自分の心内に存在されているからこそ、

敬うべき、尊い存在であるといえるのだ。

神 すなわち、自己の剣道の本質に座せり、である。

大森老師は、こうして、一如思想が、剣道にも発展して、

”超越的な神への依存から、内在の自己の本質に開眼

しようとする、主体的な剣の心へと進展した”

と語り、武蔵の剣道と一如思想を関連づけている。

               

 参考図書: 植芝盛平先生 口述 ”武産合気”高橋秀雄編 

昭和57年5月20日 青年合気道同好会発行

 

 

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合気道は魂の道(みち)

2013年04月26日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

武産合気(たけむすあいき) 平成25年4月26日

********************************

以前、合気道の創立者、植芝盛平先生の言葉を、紹介したことがある。

あらためて、先生の言葉を、紐解いて読んでみると、

やはり、含蓄の深い、精神というより、悟りを開いた大師のような

スピリチャルな、魂の高揚を感じる、迫力ある文章に出くわす。

合気道は何かという問い に、植芝師は、

”すべてを自己に吸収してしまう、引力の練磨です。

 相手もなく、敵も無く、それらはすべて自己の中に

 吸い込まれてしまい、自己に同化させる。 

 悪を悪として、切らず、悪を祓い浄めて、和合していく

 のが合気道だ。”

と答える。

 

私は宇宙と一緒だ” という、師の言葉も、常日頃、切磋琢磨して

心身共に、宇宙の理にかなった、調和と愛の中に

ご自分を置いているという 確信のあらわれだろう。

 

”小我” を超越して、自分の 得だとか為 だとか、傷つかないようにとか、

守るとか そういう、小さい自分意識を原点にした感情から、

大きな、大我、私たちの言葉でいうと、アートマの自覚に到達した人の感慨だ。

 

日頃の修練の意義は何か?という問いには

”頭でいくらわかっていても、実際に行えなければ、何もならない”

実際に行うとは、考えずに、咄嗟に、体が一番適当な位置で

しかるべき対処をして、自分の身を相手の攻撃から守ることが

できるということ。

つまり、意思 と 心 と 行動 が一緒になってこそ、

合気道の達人といえるという。

心 と言葉 と行動 が一緒になって、善きことを為せる人を、

有言実行の人という。

武道においても 同様で、口先だけでなく、想いだけでもなく、

行動がともなうために、日頃の修練が必要であるというのは、

どんな、分野においてもあてはまることだろう。

さて、植芝師は、こうして、宇宙と一体化して、

愛の発動が武道であるという、宗教の悟りに似た境地

にすでに達しておられるのかもしれない。

それが証拠に、以下の言葉を残している。

 

これは、空 とは何ぞや?についての、師の感慨である。

”大虚空 は 何処から生まれたかといいますと、

 一切があって、一切がない空(無) からであります。

 私がいう、無 とは虚無ではありません。

 ありてあるところ、対象のない光一元 の世界であります。

 この世は、この無よりの 生長であります

ブログでもたびたびお話しさせていただいた。

空とは、すべてのすべての総点であると同時に、真善美、つまり、

光明の一元、時空を超越した、原点であり、その投影が現象世界

であるということ。

それが、師の最後のアンダーラインをひいたところの、言葉の意味でもある。

 

 

さらに、師は続ける。

”この世は 神の世であり、人間は神の子なのであります。”

 

 神 という言葉が抵抗あれば、完全で円満で調和ある愛のエネルギーと言葉を

 代えてもかまわないだろう。

 そして、我々は、そのエネルギーを 魂と細胞 に受け継いでいる

 生命体であるということ。

 これもまた、ヴェーダ哲学の観点から、まさに、至極の道理といえよう。

 

”今まで、物質科学のみが 発達し、魂の問題がなおざりにされていました。

 今日では精神文明と物質科学とを平行にすえき時代なのです。

 そうしなければ、世界の和合はありえません。

 合気道は精神科学であります。”

と言い切る。

”合気道は無抵抗主義である。 

 無抵抗なるがゆえに、初めから、勝っているのだ。

 邪気ある人間、争う心のある人間は、初めから負けているのである”

 

ある人が問う。

どうしたら、邪気のない、争う心のない人間に修練できるのかと。

師は答える。

”それには、まず、神の心を己の心とすることだ。

 それは、上下四方、古往今来、宇宙の隅々までにおよぶ、偉大なる愛である。

 愛は争わない、愛には敵がない。何者かを敵とし、何者かと争う心は、すでに神の

 心ではない。”

”武技を争って、買ったり負けたりするのは、真の武ではない。

 真の武は、いかなる場合にも絶対不敗である。

 即ち絶対不敗とは、絶対に何者とも、争わぬことである。 

 勝つとは、己の心の中の ’争う心’に打ち勝つことだ。

 与えられた自己の使命を成し遂げる事。

 いかにその理論を難しく説いても、それを実行しなければ、

 その人はただの人間にすぎない。 

 合気道はこれを実行して、初めて偉大な力が加わり、大自然そのもの

 に一致することができるのである”

 

最後に 師は、スポーツについて、一言述べておられる。

合気道はスポーツか という質問に対する答えである。

我が国の武道はスポーツとはいわない。

 武道とは、自己を造る、自己を完成させるところものである。

 我が国には、本来西洋のような、スポーツというものは、ない。

 日本の武道がスポーツとなって、盛んになった と

 喜んでいる人がいるが、

 日本の武道を知らぬも甚だしいものである。。

 スポーツとは、遊戯であり、遊技である。

 魂の抜けた、遊技である。

 魄(はく)=肉体のみの 競いであり、魂の競いではない。 

 つまり、ざれごとの競争である。”

 

今更ながら、日本武道の気迫と精神、魂を悟らせる 道 と名のつく、

日本の文化の奥深さを知るとともに、

宮本武蔵の、剣の道への執念が、日本人に愛されてやまない理由が

わかるような気がした。

                                

 参考文献: 植芝盛平先生 口述 ”武産合気”高橋秀雄編 昭和57年5月20日 青年合気道同好会発行

 

 

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