苦悩に満ちたエディ夫人の半生 平成25年4月30日
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昨日のブログで、すでに、Mind と mind の違い、
それらの 心(Mind,mind) が織りなす、キリスト教科学の創始者
エディ夫人の意見を、みてきた。
そして、エディ夫人が掲げている質問、つまり、どちらが先なのか?
心か薬か?もし、心こそ 始めにして実存であるとすれば、
心が最初の医薬であり続けている。
Which was first, Mind or medicine?
If Mind was first and self-existent,
then Mind, not matter, must have been
the first medicine.
の部分を、取り上げた。
ここで、エディ夫人は、Mind が 最初の薬である
と述べている。
その意味はどういうものだろう?
エディ夫人は家庭的に決して恵まれていなかった。
離婚を重ね、体も弱く、死の淵をさまよった。
その際、ある種の啓示ともいえる、直観を受け、自分が、
大生命という、自ら持つ、本来の力に気が付くことで、
健康体に戻るという確信を得て、その通りになった。
そして、人間の本質が、その時 エディ夫人が 受けた、
直感に従って、愛・真理・生命 という 3つの要素意外
何物でもないことを知るのである。
Christian Science explains all cause and
effect as mental, not physical.
It lifts the veil of mystery from Soul and body.
協会訳)
キリスト教科学は、すべての原因結果は、
心的であり、物理的でないと、説明している。
そうすることで、魂と身体から、神秘のヴェールを取り去る。
因果説 は 本来の 伝統的な、キリスト教では、明確に
されていない。
むしろ、罪深い人間は、原罪という逃れられないすでに持って
生まれた罪により、救われなければならない存在だと説く。
だからこそ、イエスに、あるいは、キリストに依らなければ
救われない と 教会では教える。
しかし、キリスト自身 そういう言葉は使っていないのだ。
むしろ、”我は道なり” と 明言されている。
道、 道 という言葉は 精神的な含蓄がある。
つまり、人として、幸せに進むべき道を、キリストは、
ここで、自分(キリスト)の道だと、言ったのであろう。
真理の道、それが、キリスト の 示した道であるなら、
その道に沿って生きる事、これが、”キリスト(真理)を生きる”
という意味にとれるだろう。
十字架にかかった、肉体 としての キリストを対象として
信仰するとすれば、キリストご自身は、とても 狭義な、
限定ある存在になってしまう。
その”キリストによってでなければ 救われない”としたら、
廣い地球、キリスト という存在すら知らずに生まれて
一生を終える人たちにとっては、人生の救いは 全く無い
ということになってしまう。
エディ夫人は、そういう観点からすると、
画期的な解釈をここで施していると言えるだろう。
つまり、物事の 因果関係の原因について、明らかにしている
からだ。
心的要因こそ、因果関係の結果であるということだ。
以前、ブログに、心身一如 の話で、内科医の内田医師の
現場報告として、肝硬変になりやすい患者の気質を
とりあげたことがある。
心 と 身体 が一如(一体)であるということは、心的要因が、
体の健康に及ぼす影響が大きいことを、内田医師が語っていた。
日本で初めて心療内科の基礎を築いた、池見博士のところでも、
心身一如の観方こそ、心療内科の根底をなしていることは、
数日前までのブログで、お話しさせていただいた。
エディ夫人も、健康のみならず、物事の結果は、心にその
原因がある、物理的要因ではないとはっきり明言する。
冒頭に挙げた質問、心と薬 どちらが先か?
という行間の意味合いもここにある。
病になったとき、薬をとるのか?あるいは、心をみつめるのか?
2頭追うもの1頭得ず~という諺に従ったとき、どちらを皆様は
とるだろう?
薬を取る人、心を見つめる人、同時に二つを行うことは
可能だろうか?
徹底して、心を見つめる人には、薬は無用かもしれない。
体の調整能力の発揮でもある。
一方、薬は、症状を抑えるが、根本を治すことは、体の
自然生命力が行う。
一般に症状=病気ととらえられているから、薬をとると、
症状(せき、痰、鼻水、発熱)が抑えられ、体が改善されたような
安心感を生む。それによって、体の治癒力も働きやすくなる。
ただし、薬で抑えられた分、症状を出し切らなかったという点で、
体のひきつれた箇所や、気の滞った箇所は、見えざるところで、
そのままになっていることが多い。
それが積もり積もって、脳梗塞やその他の疾患症状として
現れることもあるのだ。( *1*2*3*4参照)
エディ夫人がここで述べているのも、第一の病気の原因は
心にある とするのが 心身一如の考え方に似ている。
さらに、それを発展させると、唯心所現 という考え方につながる。
形として現れるところ、ただ、心の反映である という意味だ。
形として現れるというのは、肉体の上の話だけではない。
自分の周りの環境、人間関係や経済環境でも、仕事や勉学、
日常の小さなことにいたるまで、自分の心に原因があるから、
”そうなっている” と 自分の心を省みることが、必要となる。
エディ夫人の、心が先か?
薬が先か? という問いかけもここまで煮詰めることが
できるかもしれない。
心が先にあった。
心とは、意思でもある。
この場合、大文字で始まるMindになっているから、神の
意思でもあるだろう。
人は 神の子である。
神の資質をもってつくられている。
つまり、私たちの体にも、神の意思が最初に存在していたのだから
その意思に気づけば、病はすでに、存在しないということになる。
いわゆる、病が影となって、消えていくのだ。
なぜなら、神は 不完全なものは作らないから。
日のあたるところには、影ができるが、その陽の光がそこに
させば、影が消えるのと似ている。
あくまで、 不完全なもの、現象は、
病にせよ 不幸にせよ、我々の、”道(真理)に外れた心”
の投影として、映し出されているのだから・・・・と 暗に
エディ夫人は語っているような気がする。
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