自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

自分自身の大型連休に入っています。

2019年05月14日 | 協会ホームページ

11連休は終わりましたが・・・ 2019 5/14

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おはようございます。

11連休が終わり、読者の方たちも通常通りのお忙しい生活に戻られたかと思います。 

私は、連休中はフル回転していました。セラピー施術をはじめとして自宅の防水工事、

塗装工事など、職人さんの出入りもり、あわただしい日々が続いていました。

 

そこで、今週から私にとっての連休をいただきたいと思います。

予定では4月中旬から5月中旬までインドに行っているはずでしたが、事情が重なり、

違約金を払いギリギリで航空券をキャセルしました。

インドに行ってからも令和元年にあたってまでは記事を載せたいと思い、用意はしてありましたが、

現在,記事の在庫切れというところです。

 

それでは五月下旬ごろ、ブログでお会いしましょう。よろしくお願いします。

 

 

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臨死体験の心理学的考察

2019年05月07日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

神経症患者が体験する、臨死体験とよく似た要素   2019・5月7日

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前書き)

これまでアニータの臨死体験から、同じく死の瀬戸際まで行って自分の医師としての使命

“生命医療”を自覚し、それに邁進した内田久子医師のお話をさせていただいてきた。

ここで、‘それでも臨死体験は胡散臭い’と感じていらっしゃる方がいることは否めないよう

に思う。

 

そこで、今回は、、先回に引き続き、そうした方たちの思いを代弁する科学的な説を

取り上げながら、臨死体験のお話の締めくくりにしたいと思う。

臨死体験を素直に、耳を傾けるとしたら、これは超自然的事象として受け入れている

ということになるだろう。

 

一方、科学的解釈をとことん追求するとすればいくつかのアプローチがあるだろう。

例えば、①  薬学的解釈、②生理学的解釈、③神経学的解釈、④心理学的解釈などだ。

前回は①と②に触れたので、今回は③と④について。

 

③  神経学的解釈

臨死体験が、神経障害によって引き起こされたとする説だ。

神経系統は脳、脊髄、神経を総合的に指しているが、実際にムーア博士(*1)は

神経障害を持った患者が臨死体験者に似た体験をした話を聞いている。

 

それは、臨死体験者特有の“フラッシュバック”である。

これはほんの短い時間に、自分の人生の体験、良いことも悪いことも、

忘れていることもすべて、幼児から死ぬまでの出来事をしてスライド形式で

次々と見せられる体験だ。

 

フラッシュバックとは、臨死体験者が共通して語ることで、光のような存在に、

自分が生きてきたすべての言動を映画のように一瞬のうちに、見せられる。

その際、相手に与えた悲しみや喜びの感情が自分が追体験するがごとく、

の相手の感情に対し、自分のとった行動を苦々しく反省したり、恥ずかしく

なったりする体験をいう。

 

人にやさしくしたこと、裏切ったこと、悲しませたこと、喜ばれたこと、

それらすべてが明瞭に思い出されるように、すべて、そう、すべてのシーンが

一瞬のうちにスクリーンに映し出されるというものだ。

 

この神経障害を患った患者はムーア博士に次のようにその体験を語る(*2):

”友達が部屋を横切るとき、その横顔をみていると突然、それは起こった。

彼の顔の右側が歪んでしまった。と突然、昔のいろいろことが意識の中に浮かび

上がった。

 

実際に起こった時と同じそのままに、鮮明で完全カラーで立体的でもあった。

私は吐き気を覚えた。あまり驚いてしまったのでその映像からのがれようとした。

その後何度も同じことがおきたので、私は慣れてしまいそうした映像が浮かび

上がってきても気に留めないようになった。“(以上引用)

 

ここまで読んで臨死体験をしたことはない素人?の私でさえ、臨死体験中の‘

フラッシュバック’と異なることに気が付いた。

 

それは“吐き気を催した”というところだ。また、“何度も同じことが起きた

という個所もそうだ。臨死体験で見せられるパノラマ的フラッシュバックの際、

そばには‘光の存在’(と臨死体験者が比喩する、大きなやさしい包み込むような存在)

がいる。

 

その存在は、当事者にそれを見る間、責めたり説教したりすることなく、ただ、

悪いこともすべて当事者自身が自らのとった行為を反省する糸口とするため、

悪いことではなかったという安心感をもたせつつ、そばに寄り添っているという。

 

少なくても吐き気を催すような代物ではないだろう。

また、そのパノラマを見る目的は明らかだ。

自分の生きてきた足跡、業績、対人へ与えた正と負の冠状、などなどを当事者が認識

することで、次へのステップとするためのものだ。

 

だから、何度も見る必要は全くないのだ。ムーア博士のコメントは以下だ。

物理的肉体からの遊離体験によく似たことを神経障碍者も体験する。

いわゆる、‘自己像幻視’といわれているもので、これはN.ルキアノウイッツ博士が

医学雑誌‘Archief of Neurology and Psychiatry’に寄せた優れた論文のテーマでもある。

 

このような奇妙な幻覚にとらわれると、患者は自分の視野の中に投影された自分の姿

を見る。この奇異な生き写しの擬像は唐人の表情や肉体の動作をまねる。

 

ふつう、本人の心象は正面から少し外れた場所にあらわれるのだが、当人は突然

あらわれた自分自身の姿を見て動転し混乱する。

この体験が先に提案した物理的肉体からの遊離現象にいくらか似ていることは確かだが、

類似点よりも相違点のほうがずっと多い。”

 

としたうえで、博士は、

“自己像幻視における幻影は常に生きているものとして知覚されるし、

幻影のほうが、本人より生気にあふれ意識もはっきりしていると患者自身が思う

ケースがある。

 

一方物理的肉体からの遊離においては物理的肉体は生命のないもの、いうならば抜け殻

のようなものとして知覚される。”

 

どういうことかといえば、神経症の患者が幻影をみたときは、その幻影のほうが

現実の自分より、生気に満ちていると感じる一方で臨死体験者は、肉体と遊離したとき、

その肉体はすでに自分の遺物、つまり、脱ぎ捨てた衣服のような自分と遊離した存在

として知覚するのだ。

 

さらに、ムーア博士は興味あるコメントを書いている:

“幻覚を見ている場合、自分の幻影が語り掛けてくる言葉、指示、嘲笑などを‘聞く

’意識を持つ。”(以上)

 

が、臨死体験者は先に述べたように自分の肉体は魂がぬけた物体としてみるのみである。

そして、臨死体験では空中に浮遊した自分が、下で倒れている自分の肉体全体を見ること

に対して神経症患者のそれは、首から上しか見えない場合が非常に多いという。

 

④ 心理的解釈

ムーア博士の心理的解釈に対する見解は少々辛辣でもある。“考え方、調査方法、

精神の存在と本質に対する根本的な理解の対立が、心理学者の間にあり、死後の

世界体験に関する心理的解釈は学者がどの学派に属しているかによって、

大幅に異なる。”(以上引用)

 

私は心理学には素養のないものだが、少なくても、死後の世界を扱うということは

公に学問対象としては成立していないように感じる。

 

スピリチュアルという言葉自体、多くの解釈があり、また、それゆえにこの言葉を

避けたいとする風潮があることは確かである。

 

ムーア博士は、彼自身が実際心理学者から聞いた意見や体験をもとに、臨死体験の

背景にある心理学的解釈を大きく二つに分けている。㋐は隔離調査 ㋑は夢・妄想の類

である。

 

まず、㋐の隔離調査の目的は、人が社会から断絶されたり、個人的レベルで肉体が

動かせず精神のみ活動するような状況でどのような反応がみられるかを探るものだ。

 

40年ほど前、横井庄一さんというルソン島で第二次世界大戦が終わったことを

承知しながら、日本に戻らず、ジャングルで身を隠すように生きてきた旧日本兵が

見つかった。

 

その後小野田寛男氏は戦争が終わったことを知らず、ジャングルの中で息をひそめて

生きていたのだが、無事に日本に帰還することができた。

 

こうした社会と断絶した人たちなどはまさに隔離調査対象になる人たちであり、

ほかにも、単身で極地探検をした人、海難事故から唯一救助された人などが

その被実験者といえよう。

 

ムーディ博士はこうした隔離調査を行ってきた心理学者たちと情報を交換しあった。

具体的にその様子を次のように記している。

 

“孤独な条件のもとで、心理学的に異常な現象を体験した人たちがいる。

そうした体験の多くは、パノラマのように人生で体験したことが浮かび

上がったとかたり、何週間もただ一人、漂流していた難破船の水夫たちは

救出される幻覚をみたとも言っている。

 

さらに、こうした人たちの 多くは救助されたのち、以前と比較してずっと内面的に

安定していると報告している。

このような人格の再統合は臨死体験で蘇生した多くの人たちが報告している内容と

明らかに似ている”(以上)

 

死を告知された病人の多くは一人部屋に隔離され、音や光をできるだけ遮断された

場所で面会謝絶、つまり訪問者が訪れることができない状態に置かれることが多い。

これはある意味、心理学的見地からいえば‘隔絶された状態’といえないこともない。

 

そこで、臨死体験は、事実死後の世界の体験なのか、こうした隔離による体験に

よるのか、一概に決定できないといえる部分があるということだろう。

 

ムーディ博士はこのような体験を、病院の隔離状態の中、経験したという患者の

手記を載せている。

引用する。

 

“入院していた時、状態は悪化。私はベッドの上に横たわり、目の前に現れる画像

を見続けていた。・・・一体何がおこっているのだろうと不思議に思い始めた。

 

画像となって現れる何人かは私の知人であった。そしてこの世を去った人たち

でもあったのだ、”(引用以上)

 

ムーディ博士はこの例をとりあげて、“この体験には死後の世界の体験といささか

似ているように思えるとしたうえで、

 

しかし、このほかには(臨死体験者と)類似の現象は生じていない点が異なる。・・・

隔離研究の成果をもって、死後の世界の体験を十分解明することはできない。

まず第一に、隔離された状況で生ずる種々の精神現象そのものが現在の理論では

解明できないのである”(引用以上)

 

少なくても隔離が人間の意識の一つの不可思議な領域に踏み込む方法の一つで

あることは否定ができないだろう。

 

それは、私たちが精神修行をするとき、人里離れた場所、その典型的な例が,お釈迦様。

悟るまでに苦行されたインド中央西部の岩屋の洞窟はまさに、自分を下界と

隔離するための場所として選ばれたところだと、この目で見て納得できた。

 

次に㋑の夢、幻覚、妄想という心理学的背景と死後の世界体験を考えてみる。

一言でいえば、死後の世界体験は、“妄想”であると断定する観方である。

ムーディ博士はこの説に関しては、特別に声を大にして反論しているかのようだ。

引用すると、 

 

“私はいくつかの要因からこの見解は成り立たないと考える。

第一に現代社会において、死者を見舞うと考えられていることと、

体験者の報告に認められる最大の共通点がそれぞれ異なっているものの、

その報告内容や様々な出来事が生じる順序はよく似ているという事実を

考慮すべきだと思う。

 

私が面接した人たちとは無縁な歴史的文書や秘教的書物に書かれている

死後体験の様子とその人たちの体験描写が驚くほど一致していることは考慮すべきだ。

 

第二に私が面接した体験者たちは精神科の患者ではないということ。

精神的に安定していて、正常な社会人でもある。

これらの報告をしてくれた人たちは、少なくても、夢と現実を識別できるだけ

の社会的責任ある立場を持つ人達であるという点にある。“(以上引用)

 

私がムーディ博士の面接した体験者の話を読んだ後の感想も同様だった。

それはこれまで、インドの聖者から、大師から、ほかにも多くの覚者たちが

述べる‘死後の世界’と、ほとんど異ならない事実を、臨死体験者は自ら死後の

世界を垣間見たとする報告書の中で語っているのである。

 

こうした見解を考察したうえで、ムーディ博士は以下のような結論を述べる。

“新しい解釈を提案しようというつもりは毛頭ない。私が提案したいと思うことは

次の一点につきる。死後の世界の体験は,私たちに説明と解釈の新しい様式を

考え出すことを迫る新奇な現象である能性があるということ。

 

そして、その可能性だけは少なくても、押しつぶさないようにしたいと

いうことである。”(引用以上)

 

まさに、これからこうした領域の探求が堂々と科学的実験を伴うものとして、

深められ、”死後の世界”の存在の可能性の追求が行われていくことを願う。

 

 

(*1)レイモンド・A・ムーディ・Jr. 

バージニア大学及び大学院で哲学専攻。

1969年、哲学博士号取得、3年間のノースカロライナ東部の

大学で教壇にたち、1972年バージニア医科大学で医学博士号を取得。

その間1965年に死後の世界の体験談を

聞いて以来、臨死体験現象の研究に没頭する。

 

(*2)評論社の現代選書8.“垣間見た死後の世界” 昭和58年評論社

 

 

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令和時代幕開け; 注*1、*2、*3の補足です。

2019年05月01日 | 協会ホームページ

 

投稿字数が過剰になり補足を別ページに添えます:

色即是空と空中無色・・ の矛盾?    2019年5月1日

********************************************************************************************

 

(*1) ただし、ホツマツタヱでは、この唯一絶対の宇宙創造神は、

地球上に、'8つの神'を創造されて遣わされたとある。

いわゆる、古代文明が栄えたとされる地が、それにあたると考えられる。 

それぞれ、ト、ホ、カ、ミ エ ヒ タ メ と呼ばれる8神である。

そういう意味では、日本のみならず、世界の民も、一つの創造神から生まれた

ということをホツマツタヱでは、暗示していると思う。

 

(*2)この神によって、枝葉のように神々が現れてきたのだが、それ以後の神は ’姿(相)ある神’である。

現在の神話的物語で伝えられている ’~命’、’~尊’(みこと)と呼ばれている

神々は、ホツマツタヱでは、宇宙神から受け継いだ遺伝子の、無我の愛や

無限の智慧などの資質に加えて、人間的な五感要素で識別された行動が加わって

きていることがうかがえる。

よって、ホツマツタヱの中には、“神は人なり、人は神なり”と明記されている。

その意味から、アマテラス大神は、自我(エゴ)が過少で、宇宙絶対神に極めて

近い資質を持った神であったと考えられるのである。

 

(*3) 短いラインでこれを説明することは難しい。

もし、興味を持たれた読者のかたがいたら、ブログの”般若心経の扉”から

ご覧いただきたい。

’色’、すなわち物質は、’空’(質量ないエネルギーの動的本源)から生まれる。

これは、コンパスをあてて図形を描くように、円(現象物質界)の中心(空)と

描かれた面積を持つ空間(物質界)で示される。

’色即是空’ と説かれる一方、’空中無色無受相行識”とも説かれている。

つまり、’空’は’物質’(の大元)と言いながら、空の中には物質は無いと、

矛盾めいた一説が続く。

 

それは言い換えれば、’空’と’物質’は同一のエネルギーで現れるが、’空’を中心

として現れた現象世界(円の中)では、私たちが生きる上で必要な、五感感覚が

すべからく、本質のクウを観ることができない、歪んだ観方をさせていると

いうことでもある。

このあたりは、動物それぞれ、五感を持っているが、その能力が異なることを

みてもわかるだろう。

たとえば、犬の嗅覚や鳥の視角、などで、それぞれが、この世界を見ればまた、

違った観方をしているのに似ている。

よって、限られた能力の五感感覚で、私たちが識別してとらえられる物質・

または物資的現象は、本来の、存在しているもの(実在)を把握できないので、

私たちのとらえた”物質の姿”は”本来存在していない”~ということになる。

 

空中無色無受相行識色’、つまり、物質のみならず、私たちの想いや、想いから

’行動’が生まれるが、それらも 本来の’空’のエネルギーとは異なり、存在して

いるようだが常に”無常2で、言い換えれば、実存する(永劫的に存在する)

ものでは’無い’と 般若心経では、一刀両断される。


引き続いて、具体的に心経には次のように説かれる。

つまり、”空の中には ’ムゲンジミゼッシンイ’”。

ゲンは眼、ジは耳、ゼツは舌、シンは見、イは心。

私たちの現象世界の、五感感覚、五感器官、目、耳、舌、身体感覚、意識 

などは結局、夢想の世界、夢の世界の中のように、あってないものだという。


何が実存、本当に存在するのか?

 

それは 空 と呼ばれるエネルギーが実存するのだ。 

時空を超えたエネルギーで質量はもたない(が量子物理学では時として質量

も図ることができる波動粒子がエネルギーと定義されている)。

’空’のエネルギーの特徴は、生かそう生かそうとするエネルギー、

生かそうとする愛生かそうとする善意生かすために必要なコンピューター

より精密な智慧と知識(科学的にも)といえるだろう。

これが今現在、私たちの中に息づいているから、私たちは今、生かされている

わけである。

 

いいかえれば、五感の感覚で判断している、この三次元の世界でのさまざまな

在り様に振り回されて、本当の自分の内なる、’中心点’を探ろうとしないうちは、“妄想”の世界生きているのと同様だと、心経は教えている。

 

 

 

 

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令和時代の幕開けに;天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

2019年05月01日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

色即是空の形象と高天原の形象の一致 2019・5月1日

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特別篇) 今日は先回の続き“臨死体験”の

心理学から見た解釈を投稿する予定でしたが、

令和になった一回目の記事なので特別篇を

お送りしたいと思います。 


本日から、平成が改元されて令和時代となり、

新しい元号のきっかけになった、万葉集の解読書

が人気を博している昨今、もう一度、日本の

精神的遺産である”日本人の精神的ルーツ”

を古事記などを、紐解いて考えるのも意義が

あると思います。


(ただし、私が研究している、ホツマツタヱと
古事記は、内容が’雲泥の差’を観るところが多々あり、
矛盾点はご了承ください。

同時に、追記を、同日のブログとして、発表して
いるので、合わせて、どうぞご覧ください。)

*********

①  適格な宇宙創造の神のとらえ方~唯一絶対本源の神

 平成から令和に元号が変わった。


この元号が変わるにあたり、平成天皇は皇室に伝わる

儀式に従い、伊勢神宮に参拝された。


伊勢神宮に鎮座しているアマテラス大神が、

皇室の祖先といわれているからであり、

ホツマツタヱ、もしくは古事記を吟味して

みると アマテラス大神に関連する事柄に、

日本人独特のメンタリティーの根源がそこに

流れていることに気づかされる。

 

外国に、15年以上生活していた私には、

日本人独特のメンタリティーというのは

明らかに、他国の国民性と異なる部分として、

海を越えて他文化圏から見た時、よく見えた。


外国でよく聞く、日本人の評判、”勤勉さ” 

“人の良さ”、“素直さ”、“和を重んじる”

“組織を大切にする”、“個性を出さない”、

“おとなしくつつましやかなふるまい”などは、

美点であると同時に、時には、理解しにくい、

あるいは 寡黙な人が醸し出す、神秘性として、

外国人には映ることがある

が、古(いにしえ)からの文書を読むと、それは、
日本人の精神的遺産の一つだと、思える。

 

この度の改元にあたり、宮中に古くから伝わる

様々な儀式が執り行われ、皇室の祖先といわれる

アマテラス大神、また、神々へのご報告の儀

があった。


アマテラス大神が、皇室の御先祖であることは

聞かされるが、では、アマテラス大神のご先祖

はどこから続いているのか?


古事記やホツマツタヱでは、宇宙の創造神が

本源である~とされている。

 

戦後は、GHQの政策ではすべての義務教育の

教科書から、古事記に記載されている内容は

省かれて、戦後の教育を受けた人たちは

古事記の内容の断片ですら、教えられたことは

ないといっても過言ではない。


一方、戦前の日本人たちは、古事記に書かれた

お話などをわかりやすく、教科書を通じて,

小学生時代から日本文化の学習として、習って

いたから、知らず知らずのうちに、日本人特有

精神性を学べていたのだろう。

 

学んでいくうちに、無意識にせよ、日本人として

自覚が芽生えたり、日本人にとっての良識の行動

理解したり、日本人である誇りも共に形成されて

きたに違いない。


その国の神話、超古代史といわれるものは、

その国民にとって、尊い精神遺産といえるだろう。


それに関しては、世界的に著名な歴史学者

トゥインビーはこの点を強調し、

自国の神話を大切にしない国民は歴史上、

必ず滅亡してきたと、警告した。

 

これまで、日本超古代史といわれている

ホツマツタヱをこのブログで取り上げてきて

いるが、共通項である内容を踏まえた

古事記を、今日は取り上げてみたい。

 

戦前の日本人の教科書には古事記が載せられていた。

ホツマツタヱも古事記も共通部分は多くある。

宇宙創造時代の、神代の時代よりさらにはるか昔

の話が、次のように書かれている:

 

“天地(あめつち)のはじめのとき、高天原

になりませる神の名は天之御中主神

(あめのみなかぬしのかみ)、

次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)

次に神産巣日神(かみむすびのかみ)、

この三柱の神はみな独り神になり座して、

身を隠したまひき。”


三柱(みはしら)の神という発想は興味深い。

'三'という数字は万国共通で何かを生み出され、

落ち着いた安定感のある維持を望むときに

現れてくる。

 

皆様ご存知のインドの宇宙創造の三神は、

“シヴァ神”“ヴィシュヌ神”、“ブラハム神”。

キリスト教では“神”“イエスキリスト“”聖霊“

の三体。


宗教のみならず、’道’の世界でも、三という数字

は尊重されている。

たとえば、日本の華道では、花を生けた時の

バランスが、二等辺三角形の形であるという

ことが、基本形の一つとなっている。

 

世界最古の一元論哲学書の、ヴェーダでは、

ラジャス、タマス、サットヴァと呼ばれる、

三つに資質(グナ)を自然界の中に見出し、

人間の性格形成のバランスもそれらを調和

させることが大切という。

 

自然界では、その種の継続は、陽と陰が結合

して次世代を担う新しい生命が誕生するという

三段階で図られている。


三という数字は、このように見ると創造と結び

ついているのがわかる。

 

さて、古事記の上の文章に話を戻すと、

この中で大切なことが、”独り神なり座して“である。


独り神とは?

仏様が”唯我独尊"と言われた。


その言葉の独と同じく、それのみが存在して

いるの意味となり、独り神とは、唯一無二の神

をさす

注(*1)(次のページに追記付記)

 

唯一の神だから、絶対神だ。


キリスト教でいうエホバの神、イスラム教の

アッラー、と同じ絶対神である。


というと、矛盾を感じるようだが、そこに、

日本人の大きな寛容性、受容力が見える。

つまり、そのように、古事記の中で、絶対神

を宇宙創成の神と定義しながらも、キリスト教

やイスラム教のように、神道の絶対神が、

最も由緒正しい神であり、異教の神は

正しくない~とは日本人は主張しない。

 

むしろ、絶対神は独立した神なのだから、

キリスト教が広まった地域では

エホバの神と呼ばれ、イスラム教徒にとっては

アッラーの神というように、絶対神は姿を

変容していると考えるほうが、道理にあう。


日本にそれらの宗教が紹介されても、

この寛容な精神土壌の中で、むしろ、

育成され、日本の文化と軋轢を生むこと

なく溶け込んでいるのが、特徴だ。

 

皆様、ここで考えていただきたい。

絶対神の定義について......

実際、絶対の神がいるのなら、自分たち

信じている(教団の)神こそが

絶対である~と主張すればするほど、

パラドックスが生じるのではないかと

いうことを。

 

それを例えれば、地球の海はどこから

どこを指すのか?という質問に、 

’日本海の海が本物だ’とか、

’太平洋の海が本当の海だ’ と言っているのと同じ

で、名前はいろいろあっても、海の資質は同じで、

地球を離れて宇宙船から、それを見れば 海に

境界線はなく、すべて、”地球の海”としか形容

しようがないのと同じである。

 

”地球の海”というように、”宇宙創造の唯一

の無限エネルギー” といえば,

それしか言いようがないのであって、

これが絶対だとか,あれが絶対だとか

言っている限り,’絶対でありえない’

ことを証明しているようなものだ。

 

その絶対な神を古事記では、天之御中主神

あめのみなかぬしのかみと明記された。

 

② 絶対神は次元を超越しており、生まれたり、

死んだり、始めがあり終わりがあるような存在

ではない。

次のキーワードは ‘身を隠したまいき’ という表現だ。 


どういうことかといえば、身を隠していて現象的

に見ることはできない、

あるいは、認識することはできない、

つまり、絶対神であると同時に、姿かたちが

ない神、という意味だ。

 

神道は、多神教だと一般的には、定義されがち

であるが、このラインを読むと、宇宙創造で

現れた神は‘絶対神“で’姿のない、現象次元を

超えてとらえることができない神”であると

定義している以上、多神教と一概には

言えないように思う。

 注(*2)(次のページに追記付記)

 

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ

(古事記の中の上にかかげたパラグラフから)

は、次元を超越しているのみではなく、

’はじめと終わり’があるような存在でない

ということは、至上の存在であるという

ことだ。


それはこの古事記のラインに書かれている、

高天原(たかあまはら)の言霊的解釈から

理解される。

 

③ タカアマハラ(高天原)の言霊的解釈

タはタタという言葉で表されるように

”陽の気”を意味する。


”タタ”とは‘父親’の昔ながらの呼び方だ。

関西ではまだ母親を´カカ′と呼ぶところがある。

カ音は母親を意味するように陰の気だ。


タカアマ原のア音は明るいのア、つまり‘明るい

中、姿が見えるようになる’、そして‘現れる’

というように、表現されたものをさす言霊だ。

 

マ音は‘まるい’のマ、円満(えんまん)のマ

であり、円形で満たされた資質をさす。


最後の原は、ハラであり、原っぱのように

広々とした広がる空間を意味している。


タ・カ・ア・マ・ハ・ラ=それらの言霊を

つなげてみると、“陰と陽によって

表現された”完全な円空”という意味になる。

 

その中心に座している神(無相)こそ、

天之御中主神(あめのみなかぬしの

かみ)と呼ばれているのだろう。


さて、宇宙が創造され、人類が生まれ、この

絶対神の栄光を、そのまま引き継いだ御子が

望まれる代を迎えた時、宇宙創造神を先祖と

して、誕生されたのが、アマテラス大神と

いうことになる。

 

さらに、アマテラス大神は名実ともに、

スメラ尊(天皇)として世を納めら

れ、現在の日本の歴史の教科書に初めて

記載される’神武天皇’の先祖に

あたり、皇室の系図が古事記、

ホツマツタヱで明らかにされているのである。

*********

追記)

本日のタイトルのお話は、古事記を

中心にお話させていただきました。

高天原、天の御中主神の定義は、

実は、ホツマツタヱの中では、またほかの

解釈ができます。


したがって、この二つの、秀真伝えの中に

おける概念に関しては、また、時を改めて、

お話させていただきます。
 

 

 

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