アニータとは対照的に時間のかかった、私自身の例
2019 2/22
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今日は臨死状態から生還した
アニータの体験話の続きです。*****
さて、彼女は周囲を驚愕させるほどの回復
をみせた。
その際、医師はこう話している。
”君のケースをどう考えたらよいのか
さっぱりわからないよ。
カルテに何と書けばよいのかもわからない。
本当に珍しい症例だ”(*1)
アニータは、瀕死の状態で病院に運ばれて
から、わずか五日目には
集中治療室から一般病棟へ移った。
長い闘病で、骨と皮に痩せた彼女の筋力の
回復のために、理学療法が開始された。
さらに、進行したリンパ腫癌が骨髄に転移
していることも予想され、周到な検査が
行われた。
皮膚病変してぱっくり空いた、耳の下箇所の
傷口は外科手術で縫い合わせることが
検討された。
さて、その検査結果は驚くべき結果だった。
骨髄の検査では癌が見つからなかった。
そこで、最新技術を持つ病院の病理研究室
にアニータの骨髄主研材料が送られた。
医師の期待?に反して、結果は陰性だった。
医師たちはこの結果で困惑し、リンパ腫生検
も行われた。
医師たちには強い確信があった。
それは、
”アニータの体には確かに癌がある。
こんな早く消えてしまうわけがない。
身体から癌が消えることは絶対あり得ない。
その癌を必ずつきとめる”
が、やはりすべての検査結果に、癌の形跡
すら残っていなかった。
一方、臨死体験を経て肉体に戻ったアニータ
の意識には、医師には言えない、心の底
からの強い確信があった。
それは、
”もう自分の体は癒されている。
癌がみつかるはずがない” という確信。
にもかかわらず、彼女は、医師たちの確信
を満足させるために、”痛みを伴う辛い
生体検査”に甘んじて, 医師のなすままの
治療下に自分の身体を置いた。
私事で恐縮だが、アニータと対照的な
自分自身の体験を、彷彿と思い出す。
従来、体の弱い自分は、思春期の頃は
常に何らかの病と背中合わせだった。
アニータのような臨死体験はしなかった
ものの 10代になり、あることがきっかけ
で自分の’生命の完全性’に思いをはせた。
そして、それがゆるぎない信念へと変化
するには、それから20年に近い歳月と、
多くの闘病の体験が必要だった。
そこがアニータと対照的な階段の上り方だと
感じる。
彼女は臨死体験の数時間ですべて、私が
20年間かけて理解したものを、自分のものと
したのだったから・・・
私は、生まれながらのアトピー性湿疹のため、
生後数か月から、30代にまで、首や頭、足の
膝裏、腕や背中の部位のどこかに発疹か、
痒みで赤く炎症していないときはなかった。
寝ながら痒さのあまり、皮膚をかきむしり、
一番ひどかった、高校生の時は、
首も頭も、カサカサ感と体液が出てくるので、
ジュクジュク状態を繰り返し、教科書の上に
ふけのような白い皮が頭から、落ちてきて、
本の隅にたまっていた。
腎臓が悪かったので、30代のころ血尿が出た。
40度の高熱がひと月続いたり、アトピー湿疹
とは異なる部位(リンパ腺のある付近)
に腫れものができ、膿がそこから何日も出て
いた。
薬剤師の叔父が、”ヤスヨはこのままでは死んで
しまうかもしれない”と実家の母に進言したが、
ことのほか、布団で静養している私が、元気
そうに見えたのか、病院には行かないという、
私の決断に、親も甘んじて様子を
みて 強く医者に診せるよう強いることは
なかった。
こうした状況の中で、自分の信念を変えず、
ひたすら自分の持つ生命力の完全性を
見続けることができたのは、不思議だ。
きっと一段ずつ階段を上るように、その時
その時の病の症状に、一瞬ひるみながら、
恐れをどこかで感じながらも、自分自身
の深い意識の中で、生命力を信じることが
できていたからだと思う。
そうしたいわゆる病的症状を、自分の
完全な生命力による バクテリアや毒素、
東洋医学的にいえば、経絡の順気循環
を正常に戻すための、浄化作用であると
納得、さらに重い状況に面した時も
(治り掛けの時、その前は特に
病状が悪化することが多かった)
”今はまだ、浄化作用が足りなかいから、
症状として出ているのだ”と、その症状を
受け入れ、自分の完全なる大自然の生命力
発露をひたすら信じぬいてきた結果だと
思う。
生命力、つまり、自分を生かしている
自然の力と、
摩訶不思議な人体の有機的つながりを
考慮することが少ない、西洋医学に
自分の身を託すことは、むしろ恐怖だった。
しかし、過酷な入院生活を余儀なくされた
ことがあった。
30代、唯一、お腹にある大きなしこりは、
どんなにしても取れず、日がたつにつれて
大きくなっていくことが自覚された。
この時は周囲の心配する意見に従い、
相模原国立病院(当時)で診察を受けた。
すると、即、入院となり、数日後には全身
麻酔の手術で その夏みかんほどの大きさと
形状のしこりは切除された。
その際、担当医師から夫に単刀直入に
アドヴァイスが伝えられた。
”切り取ったしこり”は ”日本人には、まれな
悪性血液癌の一種の症状の疑いが濃厚”
と伝えられた。
そのために、医師は”さらに半年の集中治療
期間が奥さんには必要だ”と付け加えた。
夫は、その診断は、彼の胸のうちに秘めて、
私には、一言も、洩らさなかった。
だから、そうと知らず、私自身は勝手に退院
手続きをとり 通院することもしなかった。
夫もその後、10年近く、その医師の診断を
私に隠していた(*2)
私自身、その後は健康診断を含め、手術後の
経過を見に病院に行ったことはない。
それが、無謀にも見える”私流治療方法”だった。
生命への全託と天意がそこに加われば、天命
がある限り、必ず生かされるという気概で
自分自身の病には これまで対処してきた。
そして、この腫瘍摘出手術を機に、虚弱体質
は変化した。
その後、インフラが整わず、当時は、世界の
国々の中でも、生活難易度が最高と外務省
でレッテルを貼られていたインドの
ニューデリーへ、生活舞台が移った。
インドの15年の生活への始まりである。
その間、何回かデング熱にかかったこと
以外には、アトピー性湿疹も完全に消え、
体質が180度変わり、思春期には味わえ
なかった’活力ある行動力ある生活’を
謳歌することができた。
話を戻すと、アニータは、2006年3月9日、
病院に運ばれてから5週間後、すべての検査
において陰性と判断され、退院した。
そして、大きく割れていた耳下にある
病変箇所、外科手術をしなくては、
ふさがれることがないだろう~と
言われた傷は 彼女の’もう癌もなく、
自分は何も恐れるものはない”と
臨死体験中に得た確信に従って、入院当時
不可能とされた、”自然治癒”で完治して
しまった。
続く
*1 ”喜びから人生を生きる!”~臨死体験がおしえてくれたこと~
アニータ・ムァジャーニ著、2013年(株)ナチュラルスピリット
*2 どうして夫が私にその話をしなかったのか不思議かもしれない。
夫の母(スダ麻沙子)はこのブログにも何度か登場しているが、
指圧治療から自分独自の’神気療法’で多くの患者さんを
改善させている。
そのため、こうした代替え治療が当たり前の生活空間に、
彼がいたということもあるだろう。
たぶん、私に、医師のアドヴァイスを伝えなかったのには、
こんな理由があると思う。
一つには、それまでどんなにひどい状況でも、自分自身が
セラピー(アートマセラピー)で乗り切ってきている
私を見てきたからだろう。
そしてもう一つの理由は、この癌切開手術後、
姑の家に私が行った時、何も姑から、”まだ、ガンが
残っている”とか、”中途半端だ”とか、指摘されなかった
からかもしれない。
実際、この手術を受けるように、一番強く勧めたのは姑であった。
それ以前、体のリンパ腺個所から高熱とともに膿が
出てきているときも、見舞いにいらして、私の所見、
”自然治癒力で乗り切れる”ことに賛同してくれたのも
姑だった。
いずれにしても、夫から医師の当時の所見
(余命宣告とともに)を聞いたのは、
その余命宣告期間が過ぎた後だった。