自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

自然治癒力セラピーを考えた土壌①

2018年02月24日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 

~Metaphysical heelingと“宗教心理学”(ヒーリングと深層心理)

その(1) 2018・2・24

*******************************

 

ヒマラヤ山脈の麓に咲く シャクナゲ

 

身心のエネルギー振動数を精妙にしていく(*1)

ことで、自然治癒力を発動させ、

自己ヒーリングが可能なことを

体験したのは、20年以上前のことだ。 

私事で恐縮だが、上記のテーマは、

そこから、お話させていただきたい。

 

1989年のある日、私は、国立機構

相模原病院の検査室にいた。

MRIの結果、即手術が決定。

数日後には、ガンに侵され夏みかんほどに

肥大した臓器が除去。 

’良性の腫瘍’と私には告げられていたが、

事実は、日本人には珍しいタイプの

’血液性悪性癌’であるという可能性

が高く、今後も集中治療に半年程

かけたいと、主治医は夫に話した。

そのうえ、6年の“余命の宣告”も

告げられた。

私は、そのような話し合いが夫と

主治医の間でなされていること

など知らないまま、“現代医学対症療法

に信頼をおいていない” という

失礼な置手紙を病床に残し、術後数日

で自主退院した。

 

その背景には、それまでの闘病の

葛藤から得た信念があったからだ。

私は生まれつき、弱い体質だった。

アトピー性皮膚疾患はで30代

まで続いて ミイラのように顔

や首に包帯を巻いていたことも

あった。 

心臓弁膜症といわれ、加えて、

自律神経失調症で片頭痛と

吐き気に悩まされた。 

腎臓は悪く、遊走腎と診断され、

精神的には自殺を考えるほど、

鬱屈していた。

14歳で ’第二の自我’が目覚め、

体が弱く、精神的に不安定な

自己を否定気味に客観的に見た。

と同時に、“変わらない理”を模索

し始めた。 

哲学書や宗教書を読み漁ったの

もこの時期だった。

次第に‘ある信念’が信仰のように

芽生え、18歳の時までアトピー性

疾患に使用していた、副腎皮質

ホルモンなどの薬を捨てた。 

 

すでに、私の’自我’の中に、

’人間は本来、健康である’と

いうこと、’宇宙の運行を司る

エネルギーこそ、身体を統合

している生命力のエネルギー

ど同様であるという信念が、

強く根付いていた。

退院後は、術後の検査に行く

ことなく、自分なりの浄化方法

(自然治癒力セラピー)で

プラナ(生命波動)を整えること

に専念した。 

同時に、身心の浄化を絶えず試み、

新陳代謝や免疫システムを強化

しながら、生活しているうちに 

夫に告げられた、’仮定余命’と

いわれた数年が何事もなく過ぎ

た。 

(海外生活での信念の強化)

それから、日本を離れて、インド

で15年間の生活に入る。

そのころには体質は改善され、

自己セラピーを自らに施術して、

悩まされていた持病やアトピー

皮膚疾患は殆ど完全に消えていた。

体質が変わったかのようだった。

厳しいデリーの天候とインフラ

の整っていない生活の中で

デング熱や熱帯病にかかること

が何度かあったが、大使館の

医師が日本人会に注意を促した警戒

症状が出ても、病院に行くことは

なく、自然治癒力セラピーを

活用してその完治を試みた。 

 

次第にこうした私の施術は、

周りの人々に知られるように

なり、当時、研究生として所属

していた、インド国立デリー大学

大学院の先生がたや友人たち

にも施術を要望され喜ばれた。

一方、このような施術を行いながら、

インドの多様な宗教的背景を

持つクライアントたちとの語らいは 

私の人間観やスピリチュアル観に

影響を与えるほど、有意義だった。

 

インドでは、ヒンズー教、キリスト教、

イスラム教、シーク教、ジャイナ教、

少数だがゾロアスター教や仏教

という多彩な宗教が現地の人々の

生活に溶け込んでいた。

中でも、日本にいたときは、全く、

私の生活に無縁だったイスラム教は、

良き人々との出会いがあり、

最も親しみある宗教になった。

インド在住時代、イスラム教信者として、

ハッジ(信者が一生に一度は行う

義務のある、メッカへの参詣)に

参加することができた。 

その一方で、偶像崇拝を徹底的

に禁止しているイスラム教と

対照的な、多神教のヒンズー教

寺院にも頻繁に足を運ぶ機会は

多々あった。

世界で最も古いヴェーダ哲学から、

不二一元説を学んだ。 

ハチャメチャな信仰生活に

足を入れていたようであったが、

それは、逆に一つの真実を知る

要因になった。 

つまり、多神教も一神教も、大本

にある信仰の根っこは変わらず、

それは、神と自然治癒力、

自然治癒力と人間、

神と人間の関係、などの、それまで

に確信してきた、

私の信念を強めてくれた。

同時に、インドで博士課程を

修了して、卒業論文として、

日本とインドの古典音楽における

芸術性の比較を選んだ。 

タイトルからだけだと、

わかりずらいが、具体的には、

インドの古典音楽が数千年の

歴史を持ち、宗教的な意味合い

が深いところから、仏教に

関した日本の古典音楽、

たとえば、能 や仏教音楽が

与えたそれへの影響、また、

インドから伝わったとされる

読経の1つの形、声明 などの

考察をしながら インド古典音楽

と日本文化の美的比較などを

学んだ。

 

シンプルに言えば、インド音楽を

通じて、私は、宇宙の鼓動と

神の旋律に巡りあった感動

を覚えながら過ごしたと

言ってよいかもしれない。

インド音楽は私にとっては、

瞑想の1つの方法であり、自分の

内面に深く回帰していく方法で

あったことは間違いない。

 

イランの拝火教の寺院で儀式の準備をする信者

 

 

*注1)心の波動数を精妙度は 

具体的にいうと、日常活動時の

β波(14~38Hz)より寝る前の

α波(8~13Hz,)、

α波より夢を見ているときの

θ波(4~8Hz)、θ波より

深い眠り時のδ波(0.5~4Hz)

というように、Hz波動数値

が下がるのに反比例する。 

体のエネルギーの精妙度は、

呼吸数、心拍数の少なさに

反比例すると考える。

 

 

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時間のない世界と異次元の私

2018年02月18日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 

死んだあとの第三の段階に知る、究極的実存の自分とは?

************************************2018・2.18

実母の葬式を終えて、母の魂の行方と意識の状態を

かんがえている間に、ニール氏の原著を読んだ。

その本によれば、死んだあと、三段階の過程を人は経るという。

 

一段階目は、肉体の衣を脱ぎ捨てて、自分が死んだという

認識を持った段階。


二段階目は、その人が生前、どのような信念で生きてきたか

によって、その信念通りの環境が死後の世界として表れるステージ。

たとえば、厳格なキリスト教徒は、死後、審判の日までは眠って

いると信じているから、死後、自分が死んだと気が付いても、

そのまま深い眠りの状態で過ごすという。


地獄に落ちるほど、生前、悪い業を重ねてきたと恐れていた善人は、

地獄の状況が待ち受けているだろう。

死んだら、愛していた家族と再会するのだと楽しみにしていた

人の前には、一足先に霊界に旅だった昔の家族が出迎えて、楽しい

再会を果たすだろう・・・という具合だ。


第三段階には何があるのか?

それは“ultimate reality “, 究極の実存 とも訳せる、その実態

を体験するステージが待っているという。


究極の実存 というのは、たとえば、地獄の世界で苦しんでいる

自分を認識すると同時に、もう一人の究極の自分が‘

”これは私の心が造りだしている世界だ”と 自覚したとき、

自然と地獄にいてそれを超越できる実存を体験するという。


地獄に居ながらにして、本当の自部の意識が、次元を超えて

たどりつくステージ”といえるだろう。

つまり、私は、本当は誰なのか?~という質問に、一時的な

感情でもなく、マインド(心)ではなく、魂(ソウル)である”

ストンと悟る、その瞬間に、このステージにたつ。


この究極の実存の段階のことを考えていたら、このブログの

冒頭のような’前置きの言葉’が思い浮かんだ。


 実存の段階には時間が存在しない。

なぜなら、般若心経でとくところの、不生不滅 の 空 

のポイントに存在していることが、’実存の実態’でもあるからだ。


在ってあるべき姿、未来永劫、いつ生まれたとか、いつ消える

という時間的限界があったり、有限の存在でないという 

明白な自覚を覚えることだろう。


この空 の自分を観る目というのは、死んでから 理解する

人もいれば 今この娑婆世界に生きていながら、持っている

賢人たちも多々いる。

ニール氏の本では以下のように、その目を 次のように表現

している。

“Even those who imagine they are  going to ‘hell’ and then send 

themselves there do not suffer. 

They simply observe themselves  having this experience, but without 

emotional connection to it.”

~地獄に行くと想像した者たちは、そこに自らを送り込むが、

決して苦しんではいない。

自分が地獄の体験をしていることを観察しているだけで、

感情的なつながりはそこにはない。


“Once the soul has remembered that suffering is not a reality, but, merely 

an experience created in the human  mind, it will have achieved what it 

sought to achieve with the creation of its own hell, and the experience 

will thereafter be meaningless.”

~一度、魂が 苦しみは実存するものではないということを

思い出した時、その苦しみは人間の心が単に、生み出して

体験していたということを知るとき、魂は、自ら創造した

地獄の体験を獲得はするだろうが、その体験は無意味であるという

こともわかるだろう。

 

こうした真に客観的な冷ややかな自分を観る目は、

ある意味、’空’的な 本来の’自分の目’と言ってもよいのだと思う。 

そして、それは、確かに、次元が異なるところから、

この三次元世界、もしくは、霊界における次元の境遇を

見ている目でもある。

 

あの人が!? と思わせる その人の多様性ある行動や意見、

私自身が自分を観たときにどうしても相いれない不整合的

自分の言動、 そうした矛盾性ある人間の様々な側面を

考えたとき、“私たちは違う異なる次元を今、同時に、

生きている”とも表現できるのはないか~・・・

と感じる。


そして、そう感じながら、つらつら思うには、それは 

同時進行で、目に見える今のこの場の出来事以外に、

目に見えないところ、あるいは、異次元の流れの中で、

自分が複数存在していても、おかしくはない~という

漠然としたアイデアに行き当たった。

 

幸い、ニール氏の本の中で、同様のことが以下のような

言葉で書かれているのを見つけた。

“All things (past, present, and in future) happen sequentially and 

simultaneously.”

~すべての事柄、(過去、現在、未来)で起きる事柄は、

順序だてながら、しかも同時に起きているのだ。

さらに、

You experience a three-dimensional world, but you do not live in one”

~あなたは、三つの次元の世界を今、体験しているが、

1つの姿として生きているのではない。


“It means that Ultimate Reality is far more complex than you may ever 

have imagined. 

It means there is more going on here than meets the eyes.

 I tell you that All Possibilities exist at all times. 

You are choosing the possibility that you wish now to experience from

 a multidimensional field of infinite possibilities.”

~それは、あなたが想像するより、はるかに、究極的実存の

世界は、複雑だということだ。

それは、目で見ていること以上にもっと多くの事が

ここでは繰り広げられているということでもある。 


私は、すべての可能性 は、常に、いつも、存在している

と言いたい。

あなた自身が、無限の可能性のある、多次元の事象の中

から、どの体験を選びたいかと決めて選び出したことは、

自ら、体験したいと願っているわけだ。

 

私の亡くなった母は、違う次元の姿で今も、私の傍らに

いるように感じる。

今ブログを書いて、原稿をパソコンで打っていても、

私の違う次元に漂う実存的意識は母のそばにある。


楽しそうに冗談を交えながら、今日あった興味深い出来事を

話して母に聞かせているのだ。 

かと思うと、違うところで、現実的な明日の予定を反芻して、

そのための準備の段取りの予定を、考えている。

 

人間というのは、しょせん、そのように、奥が深く、心の領域は、

他者が想像できないほど、多岐多様に様々に広がっている

ものだとニール氏の本の中でも、述べられている

 

 

* 青線挿入フレーズ(日本語訳、須田) 出所~

”Home With God"~

In A Life That Never Ends      

 by Neale Donald Walshch

Atria books ,2006 

 

 

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母の49日法要~死後の世界の共通性

2018年02月13日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 

希望の持つ、”永~い”意味  2018・2/13

*********************************************

 

母の49日法要を先日済ませた。

母が亡くなってから、ほぼ、毎日のように心に浮かんでくること。

それは、~母の魂は今霊界のどのあたりを浮遊して、どのような’意識’

を持っているのだろうか~ということだった。


その人固有の意識は、必ず、あの世にも持ち越されていると

思っている。

母が亡くなる数か月前からよく口にだして気にしていた、

実家の祖母や祖父、叔父叔母たちと再会できたのだろうか?


出迎えに来てくれた亡き父や親類に囲まれて、満たされた、

幸せな気分でいるだろうか?と思いをはせずにはいられなかった。

 

以前ブログでもご紹介した、医学博士ムーア氏や、経済博士

飯田史彦氏などの体験などを読むと、死後の世界というのは、

あの世に行った人の体験にはある程度の共通性があるようだ。

 

天国はともかく、宗教家の言う、地獄は存在しない。 

地獄とは、あくまで、その人の思念や信念、によって、出現する

らしい。 


生前から、自分は、罪深い人間だから、必ず、死んだら地獄に

行くと考え、固くそう信じている人の前には、死後、確かに

地獄の形相が表れ、自らそこで、想像していた通りの苦しみの

煉獄を味わうことになると、それらの著書の中では言う。


又、敬虔なクリスチャンが最後の審判まで人は眠り続ける 

という教義を純粋に信じているならば、その人はあの世でも、

確かに、意識的に覚醒することなく眠った状態だと、他の霊

の報告にもある。

 

前福島大学教授の、飯田氏のとりもった、自殺者の霊が 

死んでから、いろいろ肉体があったときは気づかなかった

ことが、自然とわかってきました。

私は、真っ暗な中にいますが、愛のような温かいものに

今包まれているのを感じます” と話した、その”あたたかさ”

とか”光”、を感じたりそれが視覚化されて、天使や守護神に取り

囲まれている自分を死後、見出す人は結構多いようだ。

 

つまり、この世とあの世と同じ原理があり、自分が

自分の周りの環境を生み出すということには その法則は、

変わりがないようだ。


だから、地獄の苦しみを味わっていても、’愛’とか’

すべてを受け入れてくれる存在’に気がつけば、地獄は

いつの間にか雲散霧消して、優しさに満ちた世界に

憩う事ができるという仕組みだろう。


あるいは自分は死んだら、きっと、こういうヴィジョンが

見れると信じているなら、そのようになる確率は大きい

ということだ。

仏教徒なら、仏様、クリスチャンなら天使やマリア様などとの

邂逅もその原理からすれば当然 あり得ること だろう。

 

以下の言葉(*1)は、母のそうした死後のことを

案じながら、読んでいた時期とても説得力があるような

気がして、生きていることと死んでいることとの違いは

あまりないこと、そして、希望の大切さを感じて励まされた。


ここには、’希望’の持つ意味合い、その大切さ、がわかりやすく

書かれていた。

 

今、この世に生きている自分と、あの世に行って間もない魂が、 

’一体何が起こったのか?’びっくりしてパニックって

いる状況下でも、”生きていることには変わりはない~

と、この本では語る。


確かに、体があることだけが ’生きている’ことではないだろう。

生きているということは、

’自分の意識’を持って 何かを創造して表現している~という

とだと定義すれば、死んだ人も 霊体に代わっただけで、

’意識’をもっている限り、現世で生きている私たちと基本的には

(意識を持っているというところでは)、同じことだろう。


さらに、生きている私たちの意識の中で、’希望’という

役割が大きいように、あの世に行った魂にとっても、それは

変わりがないらしい。


以下 その本からの抜粋。

Hope is the doorway to belief, belief is the doorway to knowing, 

knowing is the doorway to creation, and creation is the doorway to 

experience.

)希望は信念に通じ、信念は知ること(知識)に通じる。

知ることは、創造に通じ創造は体験に通じる。

 

Experience is the doorway to  expression, expression is the doorway

 to becoming, becoming is the activity of all Life and the only function 

of God.

訳)体験することは表現に通じ、表現は生成に通じ、生成は

すべての生命の活動であり神の唯一の働きである。

 

When you hope, you will eventually believe, what you believe,

you will eventually know, what you know, you will eventually create, 

what you create, you will eventually experience, what you experience, 

you will eventually become.

This is the formula for all of life.

訳)希望を持つとき、すでに信念が生まれ、信じる結果、

知ることができるだろう。

知ることの結果は、創造であり、創造の結果は体験を味わい

そうして、何かに成る。

これが、すべての生命の方程式である。

 

Hope plays a wonderful role in ‘death’ and in ‘life’.

訳) 希望は´死’にも’生’にも素晴らしい役割を果たしている

 

月並みに’希望を持ってください’と慣用句のように、使っていた

気がするが、’希望’という切符は死後の世界にも使えるとは、

認識していなかった。


希望を持つ というのは、言い換えれば、自分の理想とする姿

や状況を思い描き、それがいつか必ず、実現すると信じること

かもしれない。

 

長い人生の間、いつか、そうした状況に必ず、近づけるよう

努力を重ねる。

もし、今生が無理でも、必ず、もう一度生まれ変わったら、

きっと、そういう理想の自分になれると、その究極の姿を常に

心に抱き続ける・・・それが、必ず実現するということを

希望として持つ。


そうすると、長い気持ちを持ってあまり、焦らず、良い時も

悪い時もあるとくよくよしないで、楽しく、人生を客観的に、

構えて見ていられそうだ。


遅かれ早かれ、必ず、私たちは死ぬ。 

その時に’死後の世界’に行ったら、どのような状況が出現する

ことを願うか? 

否、その前に、やはり、今生で どんな自分でありたいか? 

と、理想のヴィジョン鮮明に持つことは、有効期限の永い、

希望の切符を得るための、楽しい代価かもしれない。

 

 

 

 

*1)”Home with God  In a Life~ That Never Ends"

by Neale Donald Walsch  Atria books ,New York, 2006

 

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ユングの”無意識論”から、”色即是空”の断片を想う

2018年02月03日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

無意識にスポットライトを当てたユングの独自論

****************2018 .2.03

 

前置き)

母の死を昨年暮れ体験し、母の安らかな眠ったような最後の

表情を観て、昨日まで生きてた母とどこが異なるのか? 

意識がないということは、どういうことか? 

意識とは何か?と疑問がわいてきた事に 今日のブログ記事を

書くきっかけがあったように思う。

 

手元に ユング著”Analytical Psychology:Its Theory and

Practice" の日本語訳がある。

これを訳した人は小川捷行(かつゆき)氏だ。

1988年に第14刷として発行されている本なので、

すでに25年以上前の本である。

この本の序文(日本語)に小川氏は次のように書いている:

今では、むしろ、学者は’魂’のことを口に出すとき、

顔を赤らめねばならないのではないだろうか。 

現代という時代は魂を抑圧している。”

 

この’顔を赤らめる’という言葉の裏には、歴史的推移がある。

たとえば、心理学者フロイトがは人間の心を抑圧しているのは、

“性”の問題だと定義した。

ゆえに、心理療法において、’性に抑圧された意識の部分を開放

すること’が大切であると説いたとろ、当時の学者たちの波紋を

呼んだ。

’その時代に残る、タブー、つまり、性’の問題を公に口にだす

ことは、恥じらうべきと、’顔を赤らめる’ことと、されていた

風潮に逆らったからだった。

 

しかし、次第に、フロイトやユングによって、精神分析学が

盛んになり、アメリカを中心にカウンセリングという方法が一般的

になり、フロイト流の心理療法は違和感がなくなった。 

一方、ユングは ’人とは何か?’ という疑問をに対しては、

’魂の問題’抜きに語れないとして、学問的に魂の問題を扱う姿勢に

徹したことは、勇気あることだったと推測する。 

それが、現代に至って、ユングへの高い評価の一要因になった

だろう。

なぜなら、科学的アプローチにとって、魂的問題 を扱うことは、

危険を伴うと、一部の学者たちの間から、ユングの理論は敬遠される

という背景があったからだ。

 

今から半世紀以上前は’哲学と心理学’を結びつけることさえ挑戦

としてとらえられていた時代であった。 

その風潮の中、ユングは批判を浴びながらも、人間の心と体に

一貫性があること、また、心の無意識の領域を多角的に探ること

を貫いた。

こうして、哲学と心理学を結びつけたユング独自の考え方は、

心に科学的アプローチを試みと評価されて、後世に多大な影響

を与えた。

ユングは彼独特の 哲学と心理学を結びつけるための、アプローチ

大きく二つのテーマに分けた。


①~無意識の心の構造とは?その心の内容とは?

②~①の内容を探るための3ツの手段

(’言語連想法’、’夢分析’ ’能動的想像’)を試みた。

 

 

哲学者のカントは、’無意識は世界の半分を占めている’(*1)

と述べているが、私たちが自分で意識して考えて行動する~

と思っている、どの程度が本当に自分自身の決断であるのか? 


ましてや現在意識というのは、氷山の海面に現れている一角に

すぎず、隠れている部分は無意識の領域だということならば、

ふと、思いついたり、急に気がめいったりするのも この無意識

の投げかける刺激が、原因なのではないだろうか?

意識 と 無意識、もちろん、生きている人のそれではあるが、

ユングはこれに関して次のように、レクチャーで述べている:


”われわれの人生の5分の一、あるいは三分の一、おそらくは

2分の一さえもが無意識の状態のままで費やされています。” 

さらに、

”(これまでの一般的観方とは異なり)

私は、逆に置き換えたいのです。

明らかにはじめに来るものが無意識であり、意識はまさしく無意識

の状態から生ずると言いたいのです。

児童期のはじめは、無意識の状態です。 

本能的な特質の最も重要な機能は無意識であり、意識はむしろ

無意識の産物です。”


この意見はとても、東洋的哲学の匂いがする。

たとえば、仏教哲学では、空 が本来の物質の姿であり、空 

から現象が生まれていると説く。(諸説はあるとは思うが・・) 


イラクの地に発展したシュメール文化では、何もないとされる、

間(くうかん)を渦巻くエネルギーが物質を顕現させていると

考えられている。


ユングが言う、無意識とは、’はじめの児童期の状態’である、の

だとすれば、ユングのここでいう無意識は私”という’

我の認識’が発達する以前の意識でもある。 

その漠然とした、小我意識の発達する前の’無意識’が、’意識’を

生み出すというのは、空 というまだ個別化する以前の

エネルギー状態から物(色)が生まれるのにも似ているようだ。

 

さらに、私の心に、もう一つのイマジネーションが膨らむ。

それは、修行や練習を積み上げて、人間国宝級の達人といえる

人の意識だ。

彼らの動きは、無駄なく、美しく、的を得て、芸術でも

職人でも、武道でも、’迷いはない’ ほど効果的に、”的を得て

いる”気がする。 

しかし、それらは、意識を超えて’無意識の動作’になっているのだ。 

たとえ、どんなに激しく厳しく時間をかけ努力し修行をした

しても、それらの成果は達人の無駄のない 美の極致ともいえる、

簡潔で最大の効果を与える実技の中に溶け込み自然の動きとして、

身についてしまっているようだ。


自然の動作、つまり、力をいれない、’無意識’の中に、意識的な

努力の賜物は影を潜める。

無意識の動作だからこそ、自然で美しいし、力が入っていないから、

きわめて無駄なく、強い効果を生むのだろう。 

達人の所業は、’無意識’の’究極の意識’ともいえるものかもしれない。

 

まさに、無意識から生まれた意識は、最大限の意識を通過して、再び、

無意識に戻る。

そして、演技や技、スポーツや芸術 などの分野で’結果’として形に

残すものを生み出す。

意識と無意識の関係は、深くて面白いと思う。

私たちも、生きている間、意識的にいろいろな感情を体験する。 

酸いも甘いもかみしめて~といったところだろうが、死ぬときは、

それらが熟成して、別の安らぎに昇華していくかのようだ。

 

 

 

 

 

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